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明末の麒麟児  作者: sawami
第4章
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二本の木刀

 その日の稽古は、いつもと違う空気で始まった。

 老人が練兵場の端に置いてあった木刀を二本、無言で朱慈煥の前に投げた。一本は普通の長さ、もう一本は短い。

「今日は組み手だ」

 朱慈煥は長い方を拾い上げた。短い方には手をつけなかった。

「両方持て」

「……両方、ですか」

「持てと言った」

 朱慈煥は短い木刀も拾い上げた。右手に長い方、左手に短い方。バランスが妙だった。利き手でない左手が、短い刀の重さを持て余している。

「構えろ」

 老人が正面に立った。木刀を一本、自然体に構えている。

 朱慈煥は右手の刀を前に出して構えた。左手の短い刀は、どこに置いていいか分からなかった。

「来い」

 朱慈煥が踏み込んだ。右手で斬り込む。老人がそれを軽く払った。

 体勢が崩れる——その瞬間、左手が反射的に動いた。

 短い木刀が、老人の胴に向かって横に払われていた。

 老人がわずかに後ろに退いた。

 止まった。

 沈黙が、練兵場に落ちた。

 朱慈煥は自分が何をしたのか、一瞬わかなかった。右手の攻撃を払われた反動で、左手が勝手に動いていた。意図していなかった。ただ体が、空いている手で何かをしようとした。それだけだった。

「……もう一度」

 老人の声が、いつもより低かった。

 朱慈煥は再び構えた。今度は意識して左手を動かそうとした。だが今度はうまくいかなかった。右手と左手がちぐはぐに動き、老人に軽くいなされて終わった。

「……難しいですね」

「そうだ」

 老人は短く言った。

「だが今、一度だけ動いた」

 朱慈煥は老人を見た。老人は木刀を下ろし、朱慈煥をじっと見ていた。その顔に——ほんのわずかだが、口の端が上がっていた。

 笑っている、とは言い切れない。だが、これまでの無表情とは、確かに違った。

「片手では届かぬ間合いがある」

 老人は静かに言った。

「それを埋める手が、お前にはある」

 それだけだった。説明も、褒め言葉も、それ以上は何もなかった。

 だが朱慈煥には、それで十分だった。

 日が傾く頃、練兵場の端に腰を下ろしながら、朱慈煥は左手を見た。さっき短い木刀を握っていた手だ。まだ、あの感覚が残っている気がした。

 ——片手では届かぬ間合い。

 脳裏に浮かんだのは、泉州の港で見た鄭森の腰だった。あの男は刀を一本しか帯びていなかった。だがもし——。

 考えかけて、首を振った。まだ早い。今は右手の刀すら、まともに扱えていない。

 海風が吹いてきた。

 明日もまた、夜明け前に起きなければならない。

 数週間後、町を歩いていると、商人たちが声を潜めて話しているのが聞こえた。南京が落ちた。弘光帝が捕らわれた。唐王が福建で監国を称したという。

 朱慈煥は足を止めなかった。ただ、静かに歩き続けた。

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