二本の木刀
その日の稽古は、いつもと違う空気で始まった。
老人が練兵場の端に置いてあった木刀を二本、無言で朱慈煥の前に投げた。一本は普通の長さ、もう一本は短い。
「今日は組み手だ」
朱慈煥は長い方を拾い上げた。短い方には手をつけなかった。
「両方持て」
「……両方、ですか」
「持てと言った」
朱慈煥は短い木刀も拾い上げた。右手に長い方、左手に短い方。バランスが妙だった。利き手でない左手が、短い刀の重さを持て余している。
「構えろ」
老人が正面に立った。木刀を一本、自然体に構えている。
朱慈煥は右手の刀を前に出して構えた。左手の短い刀は、どこに置いていいか分からなかった。
「来い」
朱慈煥が踏み込んだ。右手で斬り込む。老人がそれを軽く払った。
体勢が崩れる——その瞬間、左手が反射的に動いた。
短い木刀が、老人の胴に向かって横に払われていた。
老人がわずかに後ろに退いた。
止まった。
沈黙が、練兵場に落ちた。
朱慈煥は自分が何をしたのか、一瞬わかなかった。右手の攻撃を払われた反動で、左手が勝手に動いていた。意図していなかった。ただ体が、空いている手で何かをしようとした。それだけだった。
「……もう一度」
老人の声が、いつもより低かった。
朱慈煥は再び構えた。今度は意識して左手を動かそうとした。だが今度はうまくいかなかった。右手と左手がちぐはぐに動き、老人に軽くいなされて終わった。
「……難しいですね」
「そうだ」
老人は短く言った。
「だが今、一度だけ動いた」
朱慈煥は老人を見た。老人は木刀を下ろし、朱慈煥をじっと見ていた。その顔に——ほんのわずかだが、口の端が上がっていた。
笑っている、とは言い切れない。だが、これまでの無表情とは、確かに違った。
「片手では届かぬ間合いがある」
老人は静かに言った。
「それを埋める手が、お前にはある」
それだけだった。説明も、褒め言葉も、それ以上は何もなかった。
だが朱慈煥には、それで十分だった。
日が傾く頃、練兵場の端に腰を下ろしながら、朱慈煥は左手を見た。さっき短い木刀を握っていた手だ。まだ、あの感覚が残っている気がした。
——片手では届かぬ間合い。
脳裏に浮かんだのは、泉州の港で見た鄭森の腰だった。あの男は刀を一本しか帯びていなかった。だがもし——。
考えかけて、首を振った。まだ早い。今は右手の刀すら、まともに扱えていない。
海風が吹いてきた。
明日もまた、夜明け前に起きなければならない。
数週間後、町を歩いていると、商人たちが声を潜めて話しているのが聞こえた。南京が落ちた。弘光帝が捕らわれた。唐王が福建で監国を称したという。
朱慈煥は足を止めなかった。ただ、静かに歩き続けた。




