鼠と旗印
召し出しの報が来たのは、平海衛に移って一月ほど経った頃だった。
泉州までの道中、監視役の男は何も言わなかった。朱慈煥も何も聞かなかった。今回は何の用だろうとは思ったが、聞いても「知らん」と返ってくるだけだと分かっていた。
鄭芝龍の屋敷に通されると、見知った部屋の前で立ち止まるよう言われた。案内の者が扉を開ける。
朱慈煥は足を踏み入れて、そこで一瞬止まった。
鄭芝龍がいた。だがいつもと違った。あの男が——立っていた。扉の近くに、まるで客を迎えるように。
それだけで、部屋の空気が違うと分かった。
視線を奥に向けると、卓の前に一人の男が座っていた。年は四十を過ぎたあたりか。質素な衣をまとっているが、姿勢が静かに整っている。派手さはない。だが、どこか——この場の中心にいる人間の空気があった。
男は朱慈煥を見て、わずかに目を細めた。
「お主が朱慈煥殿か」
静かな声だった。
「唐王・朱聿鍵と申す。鄭公から話を聞いた。同じ朱氏の血を引く者として、一度会っておきたかった」
朱慈煥は、頭の中で素早く整理した。
唐王・朱聿鍵——後の隆武帝だ。この時期、鄭鴻逵に護送されて福建入りし、まもなく監国を称するはずの人物。転生前の知識ではそう記憶していた。
同時に——もう一つのことも、知っていた。
この人物はかつて崇禎帝、すなわち朱慈煥の父によって鳳陽の高牆に幽閉されていた。理由は勤王のために独断で兵を動かしたことだった。その幽閉は十数年に及んだという。
——父上が、この方を閉じ込めていた。
朱慈煥は深く礼をした。余計なことは考えないようにしながら。
「崇禎帝第三皇子、朱慈煥にございます。唐王殿下にお目にかかれ、光栄に存じます」
朱聿鍵は小さく頷いた。その目が一瞬、何かを測るように動いた。だがすぐに、静かな表情に戻った。
「鄭公には席を外してもらった」
言いながら、向かいの椅子を目で示した。
朱慈煥は腰を下ろした。しばらく、どちらも口を開かなかった。
沈黙は、重かった。
部屋の外から、かすかに風の音がした。朱聿鍵が先に口を開いた。
「……鄭公から聞いた。鼠のように生きると決めたそうだな」
朱慈煥は少し驚いた。鄭芝龍が、あの言葉まで話したのか。
「……左様にございます」
「賢い選択かもしれない」
朱聿鍵は少し間を置いた。
「南京が落ちた。弘光帝は捕らわれた。——周囲の者が、私を次の旗印にしようとしている」
淡々とした口調だった。喜びでも、昂揚でもなく、ただ事実を告げるような声だった。
「鄭公も、黄道周殿も、皆そう言う。断れる立場でもなく、断る気もない。だが——」
窓の外に目をやった。
「私はそうはできなかった。できない性分なのだろう」
独り言のような言葉だった。恨み言ではなく、ただ——事実として、静かに置かれた言葉だった。
朱慈煥は俯いた。何か言うべきかと思ったが、何も出てこなかった。詫びるには筋が違う。慰めるには重すぎる。
沈黙だけが、二人の間に残った。




