平海衛での日常
稽古が終わると、午後の残りは自由だった。
もっとも、屋敷の外に出るには監視役がついてくる。名を告げない男は相変わらず無口で、朱慈煥がどこへ行こうとも黙って隣を歩いた。表向きは父と息子だ。実態が監視であることは町の誰も知らない。もう少し自然に親として接しても良いのではと思わなくもないのだが、気にしても仕方がないので、気にしないことにした。
町をよく歩くようになった。
平海衛は小さいが、海に面しているせいか人の往来は多い。漁師が網を干し、行商人が声を上げ、子供たちが路地を走り回っている。南京の町とも、北京の城内とも、全く違う空気だった。誰も朱慈煥を皇子だと知らない。「朱文」という書生が町を歩いているだけだ。
それが、思いのほか悪くなかった。
町の外れに、小さな廟があった。地元の人間が海神を祀るための廟で、特段立派なものではない。だが廟の前に石の縁台があり、海がよく見えた。朱慈煥はここに腰を落ち着けて本を読むことが多かった。
鄭芝龍の配下が用意してくれた書は数冊しかなかったが、その中に『紀效新書』があった。稽古で習っていることの背景が分かるかと思って読み始めたが、なかなか面白かった。戚継光が農民や漁師を兵として鍛え上げた記録は、読み物としても十分に興味深い。
自分が今やっていることと、重なる部分がある気がした。
——皇子でも何でもなく、ただ一から学んでいる。
さして感慨があるわけでもなく、そう思った。
日が傾いてくると、漁師たちが船を戻してくる。網を引き上げる掛け声、潮の匂い、鴎の声。それが平海衛の夕方の音だった。最初は気になっていたその喧騒も、今ではもう耳に馴染んでいた。
監視役の男がいつの間にか隣に立っていた。
「時間だ」
それだけだった。朱慈煥は本を閉じ、立ち上がった。
「残念、もう少し読みたかった」
「知らん」
男は短く答えた。それ以上でも、以下でもなかった。
朱慈煥は少し笑って、廟の前の道を戻り始めた。




