倭寇の遺産
その日の稽古は、刀から始まった。
老人が持ち出したのは腰刀だった。刃渡り三尺ほどの片刃の直刀で、鄭芝龍の兵が腰に帯びているものと同じ型だ。
「持ってみろ」
朱慈煥は恐る恐る柄を握った。思ったより重かった。
「重い」
「慣れろ」
それだけだった。
老人は自らの腰刀を抜き、ゆっくりと構えを見せた。両足を前後に開き、刀を斜め前に立てる。馬歩とは違う、細長い構えだった。
「これが基本の立ち方だ。辛酉刀法——戚将軍が倭寇から学んだ刀の技を元にした型だ」
朱慈煥は思わず老人を見た。
知識としては知っていた。戚継光が倭寇との戦いで日本の剣法を研究し、それを自軍の刀法に取り込んだことは、中国武術史を語る上で外せない話だ。だが——知っていることと、その土地に実際に立ち、その技法の末裔を今まさに手にすることとは、全く別の話だった。
「その刀法が、ここに残っているのですか」
思わず口をついて出たのはそちらの問いだった。
「倭寇の使う刀は厄介だった。速く、深く、間合いが読めない。戚将軍はその剣法を研究し、自ら取り込んだ。倭寇が用いた刀も同様だ——あの長く反った刃は、今もこの技法の中に生きている」
老人は淡々と言った。それ以上の説明はなかった。
型の稽古が始まった。
一の型——刀を斜め上から右下へ振り下ろす。単純に見えて、踏み込みと腰の回転を同時に行わなければならなかった。刀だけを振ると腕だけが動き、力が逃げる。
「腕で振るな。腰だ」
二の型——右から左へ横に払う。これも腕だけで振ると刃が安定しない。
「肘が曲がっておる」
三の型——突き。踏み込みながら刀を水平に突き出す。
ここで朱慈煥は盛大によろけた。踏み込んだ足と突き出した刀のタイミングが合わず、体ごと前に倒れそうになった。
「……」
老人は何も言わなかった。ただ、もう一度やれという目で見ていた。
何度繰り返しても、体がついてこなかった。馬歩で鍛えた下半身と、刀を振る上半身が、別々に動いている感覚だった。
日が傾いた頃、朱慈煥はまた練兵場の端に腰を下ろした。今日は手のひらにも豆ができていた。
——戚将軍はその剣法を研究し、自ら取り込んだ。
先ほどの老人の言葉が、頭の中で繰り返された。天下の名将が敵の剣法を取り込んだように、自分もまたここで一から学んでいる。規模も格も比べるべくもないが——まあ、それでいい。
海風が吹いてきた。
明日もまた、夜明け前に起きなければならない。




