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明末の麒麟児  作者: sawami
第3章
32/53

その頃の南京は

弘光元年(1645年)4月 南京

 船が岸を離れた瞬間、男は振り返らなかった。

 振り返れば、何かが終わる気がした。

 秦淮河の水面は濁っていた。普段であれば両岸に灯りが連なり、歌声や笑声が夜風に乗って漂うこの川が、今夜は静まり返っている。逃げたのか、息を潜めているのか——南京の町はまるで、嵐の前の獣のように身を縮めていた。

 清軍が迫っている。それは誰もが知っていた。

 だが朝廷は動かなかった。いや、正確には——動けなかったのではなく、動く気がなかった。弘光帝の側近たちは今日も宴を開き、礼部の官僚たちは些末な典礼の議論に明け暮れていた。城壁の外で何が起きているかなど、彼らの関心の外にあるようだった。

 愚かだ、と思った。

 思うだけでは足りないほどの怒りが、腹の底に澱んでいた。

 史可法が降伏した——その報が南京に届いたとき、彼は己の耳を疑った。揚州を守る史可法といえば、清廉にして剛直、明への忠節において疑いようのない人物のはずだった。その男が、清軍に膝を屈した。

 ——なぜだ。

 問いは今も消えていない。降伏を強いられたのか、それとも自ら選んだのか。いずれにせよ揚州が落ちた今、南京を守る楯はない。

 師の銭謙益が、南京を去れと言ったのは三日前のことだった。

「お前はまだ若い。ここで死ぬな」

 それだけだった。師自身は残ると言った。彼は食い下がったが、銭謙益は首を縦に振らなかった。年老いた師の顔には、諦観とも覚悟ともつかない、静かな表情が浮かんでいた。

 ——師は、何を考えていたのだろう。

 船は静かに流れを下っていく。南京の城壁が、夜の闇の中に遠ざかっていく。

 彼はようやく振り返った。

 城壁は、まだそこにあった。威容を誇るその石造りの壁が、灯りもなく、ただ夜空を背に黒々と聳えている。あの壁の内側で、今も人々が眠っている。宴を続けている者も、いるかもしれない。

 明は、このまま終わるのか。

 問いに答える者は、どこにもいなかった。

 彼は前を向いた。船は闇の中を進んでいく。行く先に何があるかは、まだ分からない。ただ一つだけ、腹の底で確かなものがあった。

 ——このまま終わらせてたまるか。

 怒りは、まだ消えていなかった。

この男の名を、後に人は鄭成功と呼ぶ。だが今はまだ、南京を後にした一人の若者に過ぎなかった。

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