これから
召し出しの報が来たのは、泉州に落ち着いてから一月ほど経った頃だった。
通された部屋は、前回と同じだった。卓の前に鄭芝龍が座っており、朱慈煥が腰を下ろすのを待ってから、男は静かに口を開いた。
「揚州が落ちた」
それだけだった。前置きも、感慨も、何もなかった。
「史可法は——」
「降伏した。清軍に」
朱慈煥は、一瞬言葉を失った。
——降伏した。
史可法が、降伏した。転生前の知識では、史可法は揚州城で最後まで抵抗し、城が陥落した後、清軍によって処刑されたはずだった。忠臣として後世に名を残した男が——降伏した。
予期していなかった。いや、正確には——予期できなかった、と言うべきか。
南京を発つ前、朱慈煥は史可法に密かに手紙を送っていた。臥薪嘗胆の故事を引き、表向きの屈服を恥じることなく清の懐に入り込めと書いた。あれは保身のための言葉だった。鄭芝龍への交渉の切り札として史可法の名を使うなら、史可法が生きていなければ意味がない。ただそれだけの計算だった。
だが手紙が、本当に届いていたとは。
そして史可法が、それを読んで——。
朱慈煥は密かに息を整えた。自分の言葉が一人の男の運命を変えたかもしれないという事実が、奇妙な重さとなって胸の内に沈んでいく。喜ぶべきなのか、それとも——史可法が後世に残すはずだった「忠臣」という名を、自分が奪ったのだろうか。
「意外そうだな」
鄭芝龍が静かに言った。
「……史可法ほどの人物が、と思っておりました。てっきり最後まで抵抗するものと」
嘘ではなかった。本当にそう思っていた。
「人は追い詰められれば変わる」
男はそれだけ言って、茶を一口含んだ。感慨があるのかないのか、その顔からは何も読み取れなかった。
しばらく沈黙が続いた。揚州が落ちたということは——南京も、もはや時間の問題だ。明は、史実より早く終わりに近づいている。知っていたはずのことが、現実として目の前に迫ってくる重さは、知識とは全く別物だった。
「殿下」
鄭芝龍が、改めて朱慈煥を見た。
「これからどうされるおつもりか」
問いは短かった。だがその短さの中に、いくつもの意味が畳み込まれているのを感じた。鄭芝龍という男が、単なる世間話としてこれを聞くはずがない。
——これからどうするか。




