命懸けの交渉 前編
※内容を少し追加しました。
朱慈煥は言った。
「単刀直入に申し上げます、しばらくの間この福建に匿っていただきたい」
鄭芝龍の表情は動かなかった。ただ、指先が卓の上でわずかに止まった。
「理由を聞こうか」
低く、短い。試しているのか、それとも単に興味がないのか。
「鄭公の勇名は、南京にいたころより耳に届いておりました」
朱慈煥は静かに続けた。
「海を制する者、と人は申します。清軍が南下してなお、この福建が揺らいでいないのは、ひとえにお方あってのことと承知しております」
鄭芝龍は何も言わなかった。お世辞を聞き慣れた男の沈黙だった。
「それだけか」
一言で切り返された。朱慈煥は一瞬だけ間を置いた。ここで取り繕っても見抜かれる、と直感した。
「……今の南京では、どうしようもないと判断いたしました」
室内の空気がわずかに変わった気がした。
「弘光帝の御治世が乱れているのは、鄭公もご存知のはずです。側近たちは私利に奔り、軍は統率を欠いている。清軍に対するにも、内輪の争いに明け暮れている。私は皇子の身でありながら、あの場所に留まることに意味を見出せなかった」
言い終えて、朱慈煥は自分が口にした言葉の重さをあらためて感じた。今上帝の治世を、同じ皇族が否定した。不忠と取られても言い訳できない。
だが鄭芝龍は怒らなかった。ただ、初めて僅かに口の端を動かした。
「正直な御仁だ」
褒めているのか、嘲っているのか分からなかった。
「鄭公、とおっしゃった。つまり私を明の人間だと思っておられる」
朱慈煥は答えに詰まった。鄭芝龍が明に対して心から忠誠を誓っているわかではないことは、歴史の知識として知っていた。だがそれを今ここで出すわけにはいかない。
「……少なくとも、清ではないと信じております」
男はしばらく朱慈煥を値踏みするような目で見つめた。
「もちろん、ただでとは申しません」
朱慈煥は鄭芝龍の目を真っ直ぐに見て言った。
「鄭公に有用な情報を提供できます」
鄭芝龍の表情がわずかに動いた。
「ほう」
「一つは、揚州のことです」
朱慈煥は静かに続けた。
「清軍が揚州を包囲したとき、史可法の元に降伏を勧める書が届いたことはご存知でしょうか。」
鄭芝龍の目がわずかに動いた。知っているのか、知らないのか、判じかねる反応だった。
「史可法は拒絶した——少なくとも、表向きはそうなっております。ですが包囲が長引く中で、清軍の動きには妙な緩さがありました。焦る様子がない。まるで、待っているかのように」
朱慈煥は一拍置いた。
「私の見解に過ぎませんが——水面下でやり取りがあった可能性を、否定しきれずにおります」
鄭芝龍の表情がわずかに動いた。興味、というより——値踏みの目が一段階鋭くなった、とでも言うべきか。
短い相槌だった。続きを促しているのか、それとも単に待っているのか判じかねたが、朱慈煥は構わず続けた。
「南京にいたころ、城に出入りする者たちの言葉を私はよく耳にしておりました。幼少の皇子という立場は、時として奇妙なほど周りは人の口を軽くさせます。武官も、文官も、商人——自分が子どもだと油断し気にもせずに話した」
鄭芝龍は何も言わない。ただ聞いている。
「その断片を、私なりに繋ぎ合わせておりました。南京に移ってから、ずっと」
一呼吸置いた。
「さらに、清に帰順した漢人の将のうち呉三桂、耿仲明、尚可喜ら三人は魏の孟達、南朝梁の候景ような存在となるでしょう」
その三つの名を口にした瞬間、室内の空気が変わった気がした。鄭芝龍の指が、卓の上でわずかに止まった。




