人間・マンバ
魔王の部屋は、私たちには必要以上に広くて、持て余す。
シャンデリアのある応接間を抜けると、この海を見渡せるバルコニーがある。
「あの海の向こうに……いるんだ」
夜の海は暗くて、何も見えない。
二つの海の分かれ目さえ、見分けがつかない。
今日は月すら出ていないから余計にそう感じられるのかもしれなかった。
何もない暗闇に疲れ果てて、吸い寄せられるように寝室へと向かう。天蓋付きの大きなベッドは、すっかり整えられて、もう魔王の存在は感じられない。
たった数十分前の出来事なのに、もう何日も経ったようだった。
「バアル、お疲れ様」
簡単な作りのスリングから、バアルをベッドに下ろす。すると、バアルは片足を捻って、くるりと寝返りを打った。
うつ伏せになったバアルが、私を上目遣いに見ている。
「わ、すごい」
寝返りを打てるようになっているなんて、知らなかった。確かに急に体が大きくなったから、できるようにはなるのだろうけど、私は子供の成長も見守れていない。毎日が飛ぶように過ぎる。
世間ではまだ子供を愛でている期間なのに、それも満足にできない。
子供が好きで保育士になった私には、あまりに残酷だった。
「ねぇ、バアル。ずっと二人で入れたらいいのにね」
現実逃避のセリフは、広い部屋によく響く。
私の話を分かったような顔で聞いているバアルが、ずりずりと腕の力で匍匐前進を始めた。
ふんふんと真剣な顔で頑張っている様子がたまらない。
「バアル、すごい。がんばれがんばれ」
ベッドの上では柔らかくて、あまりうまく進めない。でも、それくらいでちょうどいい。
そんなに早く大きくならないで、思わずそう感じてしまうから。
まだるっこしくなったのか、今度は寝返りで移動を始めた。
「あ〜〜、落ちちゃうよ」
「う〜う〜う〜」
「ウンウン、遊びたいんだよね、邪魔してごめんね」
ベッドにガードが欲しいなと思う。向こうなら、ネットショッピングで翌日には届くのに、ここはなんて不便なんだろう。
おしゃべりも始めたバアルが、私のことをお母さんと呼ぶ日まで、私はこの子といられるのだろうか。
「そのために、何ができるかってことよね」
この子が走り回って、いたずらして、誰かと喧嘩して、仲直りして、恋をする。
そんなのを見ることができないなんて、絶対に嫌だ。
「バアル、ママ、頑張るからね。あんたも頑張ってよ」
「ーーーーそれはちょっと無茶ぶりじゃね?」
「……マンバ! びっくりした!」
「おっきな声出すなよ。ブリトニ起きんだろーが」
「ご、ごめん」
大股でズカズカとマンバがやってくる。どうやら、この奥に二人の部屋があるらしい。
どかっと無遠慮にベッドに座るけれど、バアルが落ちないように気遣う位置で、やはりマンバも母親なのだと思う。
「あんた、なんで殺されねーの?」
「……知らないよ」
「良く知んないけど、魔王が生まれた時に、母親が殺されてイケニエになることで、魔族の魔力だったか、魔王が強くなるんだったか、なんかそんな言い伝えがあるらしーよ」
「そうなんだ……」
だったら、私が一人で逃げたって、いつか捕まって殺されたってことじゃないの。
バアルだけ置いていけば逃すと言っていたのは、嘘だったのかと、また猜疑心がムクムクと湧き上がる。
「今の魔王の母親は、魔王を置いて逃げたらしくてさ」
「ーーーえ」
「そのせいで、この国がジャクタイカしてるって話」
「魔族を守るイケニエかなんかがいなかったから、なんかすっごい強い勇者が転生してきたって話は、人間界では割とユーメーな話だよ」
「……逃げた母親は? どうなったの?」
「知らねーよ。ウチ、そもそも人間だし」
近所の噂話でもするような口ぶりで、あれこれ教えてくれたマンバは、どうでもよさそうにバアルのほっぺたをつついている。
「ウチらもさ、巻き込まれたくないワケよ」
「……でしょうね」
お互い、利用価値があるから、協力する。
私自身、始まりにださんがなかったワケじゃないから、それは仕方ないことだけど、そういうのから離れたかったのにな、と切ない気持ちになる。
「ーーーーだからさ、交換条件出すからさ……ウチらの言うこと聞いてよ」




