乳母の登場
唇の感触を何度も何度も反芻してしまう。
哀しい顔に薄く浮かんだ微笑みも。
「そうか、美しい名だ」
その声が耳許で聞こえた気がして、後ずさる。もちろん、周りには誰もいない。
どうして悪魔相手にこんな感情になるのか、一方的なやり方で、魂まで奪われそうになっているというのに……。
混乱していた。
魔王・ルシファーの顔と、昨日見せたバアルの父親の顔が、どうしても重ならない。
「待っていてくれ。必ず戻る」
魔王の言葉がずっと心に残っている。
ここで待って、彼のいう世界が変わる瞬間を見るべきなのかもしれない。
生贄の、私が?
悪魔なんだから、口先で甘いセリフを吐いて、私を都合よく支配しようとしているのかもしれなかった。
それでも、どこかバカな私は信じたいと思っている。
悪魔なんかを、信じたいだなんて、馬鹿げていることはわかっていても、そう感じる気持ちを抑えられない。
初めてのキスのせいなのか、それとも……。
ベッドの上のバアルの隣にバタンと倒れこむ。
私の髪でバアルが遊び出す。
されるままに任せて、私はとりとめのない考えに頭の中を乗っ取られている。
マルバスに触れられた、あの時とは違う。
アザゼルに意地悪された、あの時とも。
もう、答えはそこにあるのかもしれないけれど、それを認めることはできない。
それを認めてしまえば、バアルはどうなってしまうのだろう。
「マリア様!」
ナアマが部屋に飛び込んでくる。もうこうなれば立場もへったくれもない。
「騒がしいなぁ、何」
「マンバという女が、娘のブリトニを連れて、マリア様に面会を!」
「あぁ、マンバね。通してちょうだい」
「あの人間、バアル様の乳母がわりだというんですよ! 人間ごときがおこがましい!」
「ちょっと、私も人間なんだからね。言葉に気をつけて。でも、乳母って……」
言い終わるか終わらないかのうちに、部屋にずかずかとマンバが入ってくる。
「やっぱいいとこ住んでんじゃん。ウチも魔王の嫁に転生したかった〜」
「ここにどうやってきたの!?」
「私が魔王様の命により、お迎えに上がりました。魔王様は、この女に乳母としてここで暮らすようにと仰せです」
扉のそばに立っていたバティムが面倒そうに言い捨てて、すぐに姿を消した。きっとエリゴールに言えと言われた言葉をそのまま暗記したのだろう。
「バティム! ちょっと!」
私の声だけが響く。マンバはそんな私を尻目に部屋を見回して、物色を始めた。何か持って帰るんじゃないかと、気が気じゃない。
ブリトニが私のドレスの裾を掴んで、何度か引く。
「アタシたち、マリア様のお手伝いにきたの」
「そうなの? ありがとう、ブリトニ」
「アタシ、バアル様のお世話、する!」
バアルがブリトニに何かしないか不安でついていく。
「バアル様、アタシ、ブリトニだよ。よろしくね」
「きゃっきゃっ」
ご機嫌なバアルはブリトニと仲良く遊んでいる。ブリトニのこげ茶の縮れた髪に指を刺して遊んでいる。
「ダメよ、バアル」
「いいの、マリア様。痛くないから」
「本当? 痛かったら、ちゃんと注意してね」
「うん」
「どーウチの子。めっちゃいい子っしょ」
マンバが腕を組んで、私にドヤ顔で話しかける。おもわず笑って、頷く。
「ホント、良い子。助かるわ」
「でしょ〜? 村の子供達のお世話めっちゃしてるもん」
ドカっと椅子に座って、マンバは私を見た。私もマンバを見る。
「で、あんた、ウチの村に何くれるわけ?」
「何が必要なの?」
「全部だよ。あの村には何にもない」
「……でしょうね」
「ウチらは魔王に呼ばれた。みんな、ウチらが人質だと思ってる。あんたのこと信用してる人間も、してない人間も……村には半々ってとこ」
「う〜ん、そうなんだね」
四面楚歌すぎて、ちょっと笑える。せめて、村人には受け入れられておきたかったけど。
「ウチは、信じてる。アンタ、良い人そうだしね」
「ありがと」
「あと、あの子も良い子っぽいじゃん」
一応、バアルは次期魔王なんだけどな……と一瞬思ったけれど、そんなことマンバには関係ない。
それが嬉しい。気遣いのない相手がいると、ほっとするものだ。マンバは裏表もなさそうだし、同じ世界から転生してきたし、なんとなく心が許せる。
魔王がそれを考えて、マンバをここに連れてきてくれたなら、やっぱり……魔王は……。
ぼんやりと今までのことを考えていると、不機嫌を隠さないナアマが、扉の前から声をかけてくる。
「マリア様、魔王様がお発ちになるそうです」




