人間・ブリトニ
魂を取られるということが、どういうことなのか、私にはよく分からなかった。
ただ、よくないことは分かったし、これで簡単に逃げることができなくなったのも分かった。
今の恐ろしいほどの光に、魔王の力を目の当たりにした村人たちはすっかり怯えきっている。
「さぁ、城に戻るぞ」
未知の出来事に、ガタガタと震える体は簡単に魔王に抱き込まれる。けれど、固まっていた村人たちは、ざわざわとざわめきだす。
「お妃様!」
「ありがとうございます!」
「アンタは聖人じゃ!」
「ああ、神よ!」
口々に村人から、感謝の声が聞こえた。
みんなの目には、自分を犠牲にして、人間を救った魔王の妻に見えるのだろう。
「……また来ます……色々、お話ししましょう」
震える唇でそう言ったけれど、興奮した村人の声にかき消される。この現状が少しでも良くなることに、誰もが期待している。
情けない、ーーーーそんなつもりじゃなかった。
みんなの暮らしが良くなればいいと思っていたけど、こうして契約されて、魂を人質にされてようやく気づく。
私には身勝手な……いやらしい下心があったんだ。
マンバの娘が駆け寄ってきた。
「ありがとう……!」
魔王のそばまでやってくるのは、彼女にも勇気がいったに違いない。それでも、こうして気持ちを伝えにきてくれた。
この子の勇気を思うと、私は自分が恥ずかしくなる。
「ううん、こちらこそ、ありがとう」
魔王から離れて、ブリトニを抱きしめた。そうだ、ここにも小さな命があるんだった。
「またね、ブリトニ」
「うん!」
この子の笑顔が、私に勇気をくれる。
私の魂を奪われたとしても、バアルやこの子の未来が明るければいい。
覚悟を持って、魔王の元に向かう。
私は生贄だ。
それは初めから言われていたことだから。
ただ、誰のために生贄になるか、それくらいは自分で決める。
この命は、誰のものでもない、ーーーー私のものだから。
*******
城に戻っても、私は魔王と話さなかった。そのままバアルを連れて自分の部屋に戻ろうとしたけれど、魔王は私を引き留めた。
「戦場に行く前だ、もう少しバアルと過ごしたい」
魔王がそう言えば、私に拒否権はない。
私の魂は魔王のものだし、この子は魔王の息子なのだから。
黙ってうなずくと、魔王は私の部屋に一緒に入ってきた。
何も知らないバアルは、無邪気に魔王と遊んでいる。
それを見て、もやもやとしたものがよぎる。少し離れたロッキングチェアで、私はその様子を見ていた。
「……逃げるつもりだって、いつ気づいたの」
「人間の村に行くと言ったとき、やたらと早口だった」
最初からバレていたのかと、自分の愚かさにうんざりする。
魔王はバアルと一緒にベッドの上で遊んでいる。魔力を使って、部屋の小物を宙に浮かせて、バアルが取ろうとすると、ひょいと高くにあげるという、なんとも意地の悪い遊びだ。
「……どうして逃がしてくれないの? あなたは私を召喚するのをよく思っていなかったはずでしょ」
「……そなたが……普通の人間だったら……バアルを置いて逃げただろう。それなら、私も追わない。配下にもそう命じたはずだ。……だが、そなたは違う。必ずバアルを連れて行く」
そう言って、私を見た。そして、またあの寂しそうな顔をする。違ったのは、そのあと薄く微笑んだこと。
「わら…った?」
「なんだ」
「なんでもない」
あわてて首を振る。あの表情が、頭を離れない。頬が少し、赤くなるのを感じた。
「この戦が終われば……この世界は変わる。それまで、ここで待っていてくれ」
魔王は、ゆっくりと、私をじっと見据えてそう言った。
「……戦争ばかりの、奪い合う世界が、どう変わるっていうのよ」
私のいた世界でも、戦争は世界中のどこかでいつも起きていた。戦いは終わらない。失えば傷つくと、誰もが知っているはずなのに、どうして戦うのか、それを説明できる大人にはなれなかった。
保育園では子供達に、喧嘩はしてはいけない、話し合えというくせに、私たち大人の不甲斐ないこと……。
「変えたいんだ、私は。人間を……絶滅させようなど、皆を服従させようなど……考えていない」
「じゃあ、何を考えてるの? どうしたいのよ!」
私は苛立ちが抑えられずに、近くにあった時計を魔王に向けて投げつけた。
ガツン、と音がしたことに驚く。
絶対に払い除けると思っていた。
額にぶつかった時計は、床に落ちる。絨毯の床に落ちても、なんの音もしなかった。
「な、んで?」
「そなたが腹をたてるのは、仕方ない。これで気が済むならいいが、そうはいかないだろう。……こんなところで知りもしない悪魔の子を突然生まされたんだ」
額の血を真っ白なブラウスで拭うと、私を見た。
「……バアルを連れて行けば、そなたは必ず殺される」
魔王の……ルシファーの言葉に、私は立ち上がった。授乳用にと渡されているまだ使っていない脱脂綿を、彼の額に押し当てた。
「ごめんなさい、痛い?」
「ああ、痛いな」
私の手を魔王はそっと掴んだ。壊れ物にでも触れるかのような、優しい触れ方だった。
「……お前の、本当の名は?」
「……マリナ……」
「そうか、美しい名だ」
そう言って、魔王はもう一方の手で、バアルの目を覆う。
「バアル、お前にはまだ早い」
ゆっくりと魔王の顔が近づいてくる。近すぎて、もう何も見えなくなったとき、唇が押し当てられているのに気づいた。
呼吸が止まる。
心臓の鼓動が、全身がそれだけになったように脈打つ。
「待っていてくれ。必ず戻る」
そうとだけ言うと、魔王はベッドから立ち上がった。
ーーーー私はただ、無言で彼の背中を見送った。




