大魔王・ルシファー
凍りついたように動けなくなって、その男をじっと見つめた。
「ル、ルシファー様! お戻りになられたのですか!」
マルバスが感極まったように叫んだ。その声に、我に返って、動き出す。
「あぁ、アガリアレプトが怪我をしたのだ。ここまで傷が深くては、あちらでは治せない」
ルシファーの背から、男が現れる。
そのひどい姿に息を飲んだ。かなり出血していて深手を負っているみたいだった。
「司令官!」
「ルシファー様、とりあえず、城に!」
「あぁ」
私を改めて一瞥して、何も言わずすぐにルシファーは、視線を外した。私はそんなルシファーを見て、腕の中のバアルがこの男の子だなんて認めたくないと思った。
我が子に近寄りも、声かけの一つもしない、そんな冷たい男……。
「城に急ぐ、指揮はサタナキアに全て任せてきた。他の者はまだ向こうにいるのだ。私も一刻も早く戻らねば」
背中の真っ黒な羽根を大きく動かすと、風が起こる。ルシファーを追うように、バティムが飛ぶ。
声ひとつあげないバアルは、じっとルシファーを見つめている。
悲しくてたまらない。お父さんなのに、抱き上げてももらえない。
遠くを飛ぶ大きな羽根を、私はじっと睨みつけた。
*******
城に戻ると、そこには当然のようにアザゼルがいて、出迎えた。
「よくぞご無事で、ルシファー様」
その言葉が終わるか終わらないかの瞬間に、ルシファーは右手を大きく振り上げ、手の甲でアザゼルを打つ。
ドサッと乾いた音がして、アザゼルの体は床に叩きつけられる。
「貴様、勝手なことを」
唇の端を切ったアザゼルが白く細い指で唇をなぞるようにして血を拭う。
「いずれせねばならぬことでした」
「私は許さぬと言ったはずだ、ーーーー人間の女を召喚することは」
「この戦は長引きます。あなたの身に何かあれば、我々魔族はどうすればいいのですか!」
アザゼルの言葉に、ルシファーは口の端を引きつらせた。
「……あの海を取り返すと言っただろう!」
吐き捨てて、ルシファーは怪我を負った男を誰にも任せずに抱え上げ、カツカツと足音を立てて運んでいく。
床の上にはルシファーの進んだ後に黒い血が点々と落ちていた。
「あの人は……どこへ?」
「バティムの部屋でしょう。あそこならあらゆる薬草で傷を癒すことができる」
「魔法で治せないの?」
「……我々は、何も生み出せないと、言ったはずです」
エリゴールが悲しそうな声でつぶやく。それ以上何も言えなくなって、私は点々と続く血の跡を目で追った。
「マリア様」
背後から声をかけられて、振り返るとナアマが立っていた。
「今日はもう、お部屋に……」
「わかった」
部屋に戻る間、ずっと考えていた。
私を召喚したのは、ルシファーの意志じゃなかった。
部屋の中で、ナアマは湯浴みの準備をしてくれていた。
本当は湯浴み用の服を着たり、誰かに体を洗わせたりするらしいけど、絶対にそんなことさせない。
私はいつも、バアルを沐浴させてから入ることにしていたけれど、少し大きくなったバアルなら、もう一緒に入れそうだ。
温かいお湯に体を浸すと、ほっとする。バアルもとても気持ち良さそうだ。
きゃっきゃとお湯の表面を叩いて、しぶきを立てた。
衝立の向こうのナアマに話しかける。
「ねぇ、ナアマ……ルシファーも……母親は人間ってことだよね」
「……そうだけど、私から言えることはありません」
「私を召喚したのは、アザゼルなの?」
「はぁ……。私、下っ端なんで、あんまり突っ込んだこと聞かないで欲しいんですけど」
どうして教えてくれないんだ、の無言の抵抗でおし黙る。
「あ〜も〜、私もよく知らないんですけど、アザゼル様はずっと将軍たちと揉めてるんです」
「えっと、フラウロスって悪魔とも、仲悪いの?」
そうそう、気になっていた名前だ。
「フラウロス様は、中立かな。誰の肩も持たないし、ルシファー様に一番近い。あの人がルシファー様をお育てになられたから……」
「……母親は?」
「ん〜〜〜、聞かなかったことにしてください」
「ナアマ!」
「余計なこと言ったって怒られるの、いやだもん〜〜〜!」
「ここまで言っといて!?」
「ほらほら、お粥できてますよ! あれ、みんなハマっちゃって。とにかく早く出ちゃってくださいよ」
ナアマが姿を消したのがわかった。気配が感じられない。逃げられたことに腹をたてる。
でもまぁ、ベラベラ喋ると立場上よくないだろうし、仕方ないのかもしれないけれど。
「お母さん、死んじゃったのかな? だから、召喚したくなかったとか?」
バアルが大きな目で私を見上げている。
我が子ながら、なんて可愛いの〜〜〜!
ぎゅうっと抱きしめて頬ずりしながら、話しかける。
「だったら、ちょっと可哀想かもね。こうやって抱っこしてもらえなかったのかな」
ガタっと、音がした。気配がして、ナアマが戻ったのに気づく。
「ナアマ、着替えを」
バアルを抱き、濡れたまま衝立から出ると、そこには……ルシファーが立っていた。




