結界の裂け目
風を切る音は、まるで昔のテレビの砂嵐のように、頭の中の奥の方に入り込んでくる。
『異世界から次期魔王の生母を召喚することを、ルシファー様はよく思っておられないのです』
じゃあ、私はなぜここにいるの。
どうしてバアルは生まれたの?
あなたは生贄だと、アザゼルに言われたあのときよりも、ずっと傷ついている。まだ見ない悪魔の夫に、何を夢見ていたんだろう。
こんな場所にはいられないと、逃げようと決めたくせに。
出会ってすぐに、これは運命で、魔王と恋に落ちるとでも思っていたのかと、自分を心で罵った。
バアルを抱きよせると、なんだか少し大きくなった気がして、覗き込む。手足が伸びて、おくるみからはみ出している。間違いなく大きくなっている。
「……マァ!」
「喋った……! バアル! 喋ったの!」
驚いて目を大きく見開くと、バアルの丸い手が伸びてくる。柔らかくて、小さな手が私の頬に触れた。
「マァ!」
「そうだよ、ママだよ!」
ぎゅっと抱きしめて、その甘い香りを堪能する。それから首を振って、はっきりと決意する。この子と生きる、ただそれだけだ。
「バアル様は、すぐに大きくなられます。……ルシファー様のように」
エリゴールの声が少し優しくなって、それに応えるようにバティムの速度は速まる。すると、あっという間に城が見えてきた。
*******
城に戻ると、怒ったマルバスが待ち構えていて、人型に戻ったバティムに食ってかかった。
「マリア様をどこに連れて行ったんだ!」
「……この世界を案内してたんだ。お前と違って、俺は空とべるからな」
「黙れ!!! お前みたいな信用できない悪魔がマリア様を連れて遠出するなんて、アザゼル様が許す訳がない!」
「信用できない悪魔って、誉め言葉だろ?」
「うるさいうるさいうるさい!!!! お前なんか、お前なんか!!!」
マルバスの鼻息が荒くなる。フーフーと毛を逆立てて、怒る姿はまるで大きな黒猫だ。オロオロとしている間に、喧嘩はヒートアップしていく。
「そもそも、指揮系統が違うだろ。お前はアザゼル様の配下だ。俺たちは、フラウロス様にお仕えしてるんだぞ、お伺いをたてる必要はねぇな」
「アザゼル様はっ! フラウロス様と同格だ!!」
「どうだか。宰相だろう。フラウロス様はルシファー様と生死を共にする中将だぞ」
「宰相なくては、この魔界が立ちいかないだろ!!」
「……ハッ、政治屋が」
吐き捨てるようにベティムが言うと、すぐにエリゴールが割って入る。
「そこまでにしろ、無礼だぞ、バティム」
「……だけどよ」
怒りの治らないマルバスは、八つ当たりのように、庭園の美しい花を手を振り上げ起こした風でなぎ倒した。
「貴様!」
「……お前と同じでお前の育てた薬草は、いい加減で大したことがない」
取っ組み合いになりそうな二人を見て、思わず体が動いた。
「やめなさい! マルバス、何があったのかは知らないけれど、あなたが悪いわ、謝りなさい」
「……いいえ、マルバスが怒るのも仕方ないのです。バティムがイタズラをして、昔、薬草でマルバスを丸ハゲにしてしまったんです」
呆れた顔でエリゴールがため息をついて、右手で額を押さえた。
「面白かっただろ?」
「バカを言うな」
「だって、こいつが俺の大事にしていた珍しい薬草の苗を食っちまったんだ! 研究してたんだぞ!」
「それは謝っただろ!!」
まるで幼児の喧嘩で、情けなくなる。仕事で何度も仲裁したけれど、こんなにバカバカしく感じたことはなかった。
「もう、二人とも、やめて」
マルバスは私に叱られたのが、心底悲しそうな顔で私を見る。
やめてよ、その顔。動物好きなんだって。首のあたりを撫でてやると、目を細めて、私の手に顔をこすりつけてくる。仕方ない。
撫でてやると、ゴロゴロ言いながら、私の方にお腹を向けて、仰向けになってしまう。
こ、これは……ヘソ天!!!
あまりの大好きビームに、悪い気はしない……。バティムが冷たい視線を注ぎながら言った。
「……お前、悪魔だろ、マルバス……」
急に暗雲が立ち込めて、辺りが真っ暗になる。突然の変化に、私はあたりを見回した。マルバスもサッと身を翻して立ち上がる。
「んぎゃ! んぎゃ!」
抱いていたバアルが大きな声で泣き出す。慌ててあやすけれど、泣き止む気配は一向にない。
バリバリと雷が立て続けに落ちる。その方向に向き直ると、海の方角だった。おそらく、そこは結界のあたり。
「……バティム、連れてって!」
「はぁ!?」
なぜか、呼ばれている気がする。
「行かなくちゃ、いけない気がするのよ! 早く!」
バアルは一層激しく泣き出す。わかってると、何度も揺する。あそこに行きたい、バアルがそう言っている気がした。
バティムが困ったようにエリゴールを見つめると、エリゴールは一度、深く頷いた。次の瞬間、バティムはまたあっという間にドラゴンになって、私たちはその背に乗っていた。
高く高く、飛び立つ。ぐんぐんと地面は遠のいていく。
「ぎゃぁぁぁ〜〜」
後ろでマルバスの声が聞こえて、振り返ると、バティムの尻尾にしがみついている。
「あの……バカ!」
バティムの尻尾はぐっと前に振り上げられて、マルバスは私たちのところに飛ばされてきた。
「あっぶない〜〜〜」
「マルバス、なぜ城にいなかった」
「マリア様に何かあったらどうするんだ!」
言い合うエリゴールとマルバスを尻目に、私たちは、結界にぐんぐん近づいていく。嵐は強くなり、横殴りの雨が私たちに振り付ける。数知れない雷が柱のように何本もこちらにもあちらの海にも立ち上がっている。
結界の境目に手を当てる男がいた。
そこから結界は大きく縦に裂け、そこに割り入るように現れた。
長い黒髪の男。
均整の取れた四肢を大きな漆黒のマントで覆っている。立てられた襟から覗くのは、血の気の引いた真っ白な顔。遠目に見てもわかる、端正な顔立ち。
憂いを帯びた瞳が小さく瞬きして、ゆっくりとこちらに視線を投げかけた。
美しい鼻梁の下の薄い酷薄な唇が、私を認めて、薄く開いた。
真っ赤なその男の瞳が、一度見開かれて、それから互いの視線が交差した。
目が離せない。体はそこで石にでもなったように動かない。
その眼で見られては、息ができない。
そのまっすぐ射抜く眼差しが苦しくて、痛いくらいだった。
ーーーーこのまま、ここで海に吸い込まれてしまいたい。




