5.わたくしのしあわせ
きもちいい。
額から頭のてっぺんまでを、何度も何度も、あたたかいものがすべっていく。
たぶん、男の人の手のひらだ。少しかたくって、熱い。
だれかに撫でられているのだ、と気付いた。
ときどき髪を梳くように、頭皮に軽く爪をたてられる。きもちいい。
母は、産後そのまま体調が戻らず逝ってしまった。父も幼い頃、流行病で後を追った。後見人となった叔母は、“両親に先立たれた可哀想な女の子”を美しく飾りたて連れまわすのには熱心だったけれど、頭を撫でてくれたことはなかった。
だから、いい子だね、と頭を撫でてくれたのは、あの人だけ。
心地よさにうっとりとまどろんでいると、ガタン、と寝床が大きく揺れた。 小さな舌打ち。
そうっと枕がはずされ、あたたかい手が離れていく。
――待って。
声をあげようとして、それができないことに気付いた。意識は徐々にはっきりしてきてるのに、金縛りにあったように体が重い。口を開くことさえできない。
「気を付けとくれよ、カミーユ」
少ししゃがれた低い声。
なつかしい、声。
「今日積んでんのは商品じゃねえ。だけど、今までの荷なんて比じゃねえくらいすっげえ大事なもんなんだから。一刻も早くこんな国出るためにも最速で走りつつ、後ろの荷にも細心の注意を払ってくれ。な、頼むよ、この国を出たら、たっぷり美味い魚を食わしてやるからさ」
目を開けたい。
瞼を必死で持ち上げる。
「さっきカラスが教えてくれた話じゃ、宰相も将軍もうまく騙されてくれたらしい。この子の代わりに棺桶に入ってもらった遺体には申し訳ないけど、いい仕事してくれたよ。これで、あいつらが望んだように、ちゃーんと“ダニエラ”は死んだのさ」
珍しく、声がとがった。ああ、怒ってるのね。
ようやく薄く目を開けることができた。まぶしい。
「“ダニエラ”は死んだんだ。だったら、ダニーは俺がさらってってもいいだろ?」
ねえ、これ、夢じゃないのね。
だって夢なら、目を開けた途端に消えてしまうものでしょう。
なのにアナタの背中が見える。
「分かってるよ。ちゃんと彼女に許可をとるさ。でもよう、カミーユ、俺、しょーじきぜんぜん自信ないぜ」
なーご、と、荷台の外から騎車猫カミーユの相槌まで聞こえる。
「黒曜なんて呼ばれてるあのお美しいアレクシエル王太子が元婚約者だぜ。美貌のケーニヒ宰相にも惚れられてたみたいだし。獅子将軍オイゲンみたいな美丈夫がうろちょろするような王城で、ずっとひとりで頑張ってた女がさあ、もういっかい俺のこと好きになってくれるかね」
王太子なんて我が儘なお子様だったわ。
同じお子様なら、世界中を旅して回りたいって夢を語るアナタの方がいい。
宰相?そんなひと知らない。政敵として向かい合ったことはあっても、個人的には話したこともないもの。
そんな知らないひとより、わたくし、アナタがいい。
「仮死の毒を手に入れるのに有り金ぜんぶ使っちまって、いま貯金ないしさあ。行商だから店も持ってねえし。キレイな服を買ってやるどころか、食べるもんにも苦労させちまうかも」
だいすきな猫背が、だんだん丸くなるのをもっと見ていたいのに、涙で視界がぼやけてくる。
あふれる涙を拭いたいのに、うまく手が動かない。
「斜視だし、よく気味悪いって言われる醜男だし、地位もねえし、金もねえし、…そんな、なーんもねえ商人の、女房になってくれるかねえ」
ああ、こんな。
こんなのって。
「ケ、…イ」
声が出た。
猫背がピンと伸びてパッと振り返って、彼がこっちを見た。
涙でよく見えないけど、今、彼はどんな顔をしているのかしら。
「ケイ」
ケイネス。
わたくしの、ただ一人の男。
「ダニー!起きたのか!」
駆け寄ってきて、わたくしを覗き込む琥珀色の目には、心配と安堵がいっぱいに詰まっていて、そのせいでまた新たな涙があふれる。幼い頃、大人の男に殴られて斜視になったのを、そんなに気にしてるなんて知らなかった。わたくし、アナタの目が好きよ。いつか、そうちゃんと伝えなくちゃ。でも今は、ただ。
一生懸命がんばって手を差し出しすと、慌てたように握ってくれた。
嬉しいけど、ちがうわ。そうじゃないの。
「もう、ばか、ちがう」
「え!なに?ばか?ごめん!」
言わせないで。
「ぎゅ、て、して」
「えっ」
ようやく動くようになった両手を、改めて差し出す。
泣きむし毛むし雨降らしって、よくからかわれたものだけど、涙が止まらないのはいつだってアナタのせいよ。だってお城じゃあ、一度だって泣かなかった。
泣かなかったのよ。どんなに死ぬのが怖くても。
「ぎゅって、して。もう、はなさないで」
ぎゅってして。
ほめて。
涙をふいて。
いい子だねって、頭をなでて。
おひざにのせて。
かわいいって言って。
あまやかして。
「キスして」
わたくしを、幸せにして。
ここまで付き合ってくださった方、
ありがとうございました。
「えっ、そいつ!?」って思ってくれる人がいるといいなあ。