挿入閑話・ある妖精の懸念
アルセイドが水嫌いな理由
「ひぎゃぃいいいうぇあああっ」
天高く響く、赤ん坊の泣き声。
「またか」
オレアードは秀麗な眉根を顰めて発生源へと向かう。台所で食肉を捌いていた合間、孫を放っておいたのがまずかった。最近はいはいの行動域が格段に広くなってきた赤子は、気づくととんでもない場所に移動していたりする。純エルフとまではいかないが、なまじ普通の人間より体力膂力があるため、低いケージや衝立などはよじ登れるようにもなってしまっているのだ。
(面倒だな)
内心で舌打ちをしつつ、赤子の寝室に入る。玄関近くの一番小さな部屋である。
「いゃあうぃいいいっ」
滅茶苦茶に泣き叫びながら、びしょ濡れになったかたまりが突進してきた。
がしっ
「…………お前も、懲りぬ男だな」
膝下に濡れねずみの赤子を貼りつかせ、オレアードは嘆息した。
水差し――といってもコップ程度の小さな赤ん坊用の飲み水入れだ――をひっくり返して顔や手足に水を浴び、冷たさと衝撃でパニックになって祖父を呼ぶのはこれがはじめてではない。この赤ん坊が幾度と無く繰り返している失敗である。
「ひっ、うぇ、うっ」
泣きじゃくりながらぐりんぐりんと脛部分に頬を擦り付けてくる。こうなったら長い時間この場所から動かない。小さな身体を長い脚に引っ付かせたまま箪笥を開けてタオルと着替えを取り出し、取り敢えず濡れねずみをなんとかしてやる。肌は拭えたがどうしてもオレアードの膝下から動かないので着替えさせることも出来ない。仕方無しにそのまま移動し(最近この方法が板についてきた)、台所に戻る。吸着性のある孫は、広い家を歩き回っても途中で落ちることすらしない。学習能力は無いくせに、身体能力は無駄に高いところもおのれに似ている、と思う。
「外見は母親に似ているというに……、どうしてこう、残念な箇所だけ私に似たのか」
苦笑して、やや吸着性の弱くなった孫を抱き上げた。
だいぶ落ち着いたところでようやく着替えさせることが出来、一安心する。身体は丈夫といっても所詮は人間の赤ん坊なのだ。病や怪我の得やすさはエルフの比ではない。ふとしたことで風邪を引いてしまうことも、ざらである。ここ最近はさほどでもないが。
「あぅあ」
今泣いたカラスがもう笑った、とはどこの国の諺だったか。昼食の頃合いにはもう赤子の顔から悲壮感は失せている。まだ歯が生え揃っていないのでオレアードと完全に同じものは食べられないが、消化器官はどうやらいっぱし以上に成長しているらしい。食欲も非常に旺盛だ。解された肉の切り身を口に運んでやるときゃっきゃっとはしゃいで喜ぶ。
「お前は肉が好きだな」
好き嫌いは無いようだが、通常の小さなこどもが好むような舌障りの良い甘味より、こういった腹持ちのする食肉や栄養価の高い野菜を喜ぶ傾向にある。妙に現実的な子だ。
(まあここ五十年余りはずっとこの調子だが)
すっかり慣れた手つきで給仕してやりながら、オレアードは孫を見つめる。その緑眼と視線が合い、ふにゃんと微笑まれた。
「……」
「あむ」
時々思う。こやつは見かけよりずっと中身は成長しているのではないかと。
一昔前まで夕刻は武技の修練時間だったが、最近は孫の世話にかかりきりになっており、その時間が取れなくなりつつある。もう退役を果たした武人であるのでさほど問題ではないが、それでも永く習慣づいていた事柄なので未だに落ち着かない。その時刻になると身体がそわそわとし始める。永年の癖というものは、結構厄介なものだ。
「ぃい」
今日も意味不明な言葉を発しながら、赤子が膝上によじ登ってくる。どうということでもないが武具の手入れをしている際には近づかないでもらいたい。
「ぃいっ」
それでも赤子はよじよじとオレアードの長い脚を攻略しようとする。見かけより理解力があることは判明しているのに、ふとした行動態度は呆れるほど頑固で意地張りだ。こういう箇所は誰に似たのか。
「ぃい」
そしてこの言葉を発するようになってはや数年、未だになんのことかわからない。とりあえず今は危ないので刃物を鞘に戻し、腿に乗り上げていたやわいかたまりを目の高さまで抱き上げる。赤子はきゃふきゃふと笑いながら、祖父の顔に手を伸ばしてきた。
「ぃーいっ」
「アルセイド、今は遊んでやれぬゆえ、」
「ぃいっ」
ぺたぺたと、小さな手がオレアードの頬を叩く。
「……?」
ふと動作が止まった。こちらを見上げる緑眼に、何やら見覚えのある光を感じたのだ。今日に限ってなぜか、閃きのようなものが過ぎった。
(――まさか)
視線を合わせ、確認した。
「まさかとは思うが、それは私の呼び名か?」
「ぃい!」
正解だったらしい。
共に風呂に入って身体を流してやり、夕食を済ませたあとは赤子にとって就寝の頃合いだ。
「あむ……」
むにゃむにゃと夢の世界に旅立ちながら、完全に寝付くまではオレアードから離れようとしない。もみじの葉より小さな手がこちらの衣服をしっかり掴んでいるし、離れようとすると鼓膜が痺れそうな声量で泣き叫ぶので、意識が無くなるまで傍にいてやるしかない。親が寝て欲しい時になかなか寝てくれないのは人間の赤子としては一般的だが、それが数十年も続けば疲れを通り越して呆れと諦観が芽生えてくる。
厄介なことに、他人に寝かしつけを任せても碌に眠ったことが無い。起床から就寝まで、孫の世話はすべてオレアードの仕事だ。
(まあ、特段苦ではないが……無駄な拘りを持ちおって)
やはり、孫の性質はおのれ寄りなのかもしれない。せっかく外見が妻に似ているのに、なぜその美点をもう少し受け継がなかったのか。
孫が眠りに落ちたのを確認し、そっとその指から服を離す。ひっつき虫の孫に呆れていたのにいざ離れると妙な心寂しさを感じ、そんなおのれに苦笑しながら夜の家事を終了する。
開け放していた寝室の扉を閉めて、就寝の準備をする。自身のベッドの横に備え付けてある赤子用の寝台、そこからすやすやと寝息が聞こえた。当初は別々の部屋にて寝ていたのだが、たまに夜半に目を覚まし泣き叫ぶことがあると気づいてのち、同じ空間にいたほうが効率が良いと気づいた。以来、赤子の昼の寝室は玄関脇の薄い壁の部屋、夜の寝室はオレアードと同じ部屋になった。
横になると聞こえるのは赤子の寝息だけだ。少し感慨に包まれる。この空間におのれと――あのひと以外の生き物が入ることを赦すなど、かつてなら考えられないことだったからだ。
「……」
瞼を閉じる。余計寝室内の気配を鋭敏に感じる。赤ん坊の気配。その他は何も無い、静かな空間。
『オーリ、』
起き上がった。脳裏に思い浮かんだものに、たまらなくなったのだ。
・
・
・
翌朝、赤子はやはりオレアードの膝上によじ登ってきた。いつものあの言葉を発しながら。
「ぃい」
「それが私の呼び名ということはわかったが、なんと言っているのか」
「ぃいっ」
「……リラなら、お前の言うことがわかるのであろうな」
溜息をつき、孫を抱き上げる。そっと小さすぎる紅葉の手がオレアードの頬に伸ばされた。正しく言うなら、ほんのりと熱を帯び赤くなった目元に。
「――ぃい。あーぅ」
やはり何を言っているのかはわからないが、ほんの少し思った。もしかしたら、この赤ん坊は祖父を慰めようとしているのかもしれない。
「そうであるなら、懸念など不要。私は平気ゆえ」
「ぃい?」
「平気だ。赤子のくせに、変に気を遣うな」
「ぃい!」
「ああ」
脳内で好き勝手に台詞を充てるくらいなら、赦される遊びだと思う。
ばしゃんっ
「ひぎゃぃいぼはぶぶふっ」
今日も今日とて、ひどい泣き声をあげる孫。不吉な音もしたのでまさか、とその発生源を辿ると、なんと本日は風呂場にいた。朝の行水のあと、浴室の扉を開けっぱなしにしておいたのが祟ったらしい。
「あ、アルセイドッ」
さすがに慌てる。浴槽に張ったままだったぬるま湯の中に沈没していたのだ。すぐさま掴みあげ、ざぱっと水中から脱出させる。踝ほどの低さの水位だったとはいえ、さすがにこれは危なかった。
「けほ、げふっ、ふぐ、ひぃあうううっ」
「お前という奴は……ッ、よほど水難に遭いたいと見える」
背を叩いて咳き込ませ、水を吐き出させてから一安心。服を脱がせて身体を拭き、着替えさせながら、好奇心旺盛に過ぎる孫を見下ろす。
(体力の有りすぎる人間の赤子というものが、これほど面倒だとは)
ひとしきり泣いてから落ち着いたのか、ふぐふぐと鼻を鳴らしつつこちらに擦り寄ってくる小さな生命体。やわいからだの癖に、どこまでも懲りずに自分の上限以上の行動に取り掛かろうとする。見ているこちらがひやひやする。
(けれど、本人にその自覚は無いのだろうな。ただ精一杯生きているだけ。おのれの心と身体が命じるままに、進んでいるだけの話だ)
そのことがわかっているゆえ、オレアードは苦笑しつつも高い体温の小さなからだを抱き上げる。赤ん坊はけほっとひとつ咳き込んでから、ぐりぐりと首筋に顔を押し当ててきた。どうやら祖父の体臭がお気に入りらしい。寝室を移動してから格段に寝つきが良くなったのを思い出す。
「しかし、これほど同じ失敗を繰り返すとはな。お前は将来、水が苦手になってしまうやもしれん」
軽口めいた雰囲気でそう言ってやれば、赤ん坊は「何を今更」というような表情で瞬きした。
「ぃい」⇒「じい」⇒「じいさ」⇒「じいさん」⇒「クソじじい」に進化
そしてこんなやり取りをあと数百年繰り返してゆくうち水嫌いになったっぽいアルセイドくんでした。




