第76話 黒獅子、激怒――最強公爵家の逆鱗に触れた学園
第76話 黒獅子、激怒――最強公爵家の逆鱗に触れた学園
王国暦八二一年、秋月二日。
王立アストレア学園。
その日の朝、学園の正門に一台の黒い馬車が到着した。
ヴァルディス公爵家の紋章。
黒獅子と銀月。
王国の貴族ならば、その意味を知らぬ者はいない。
そして。
馬車から降り立った男を見た瞬間、正門を警備していた騎士たちは背筋を伸ばした。
アルフォンス・ヴァルディス。
王国最強の剣士の一人。
黒獅子。
だが、今日の彼は、いつものような威厳ある公爵ではなかった。
その表情からは、一切の感情が消えていた。
続いて降り立ったのは、銀髪の美しい女性。
エレオノーラ・ヴァルディス。
銀月の魔女。
彼女もまた、微笑んでいた。
しかし。
その微笑みを見た騎士の一人が、思わず息を呑んだ。
……寒い。
季節は秋月に入ったばかり。
まだ冷え込む時期ではない。
それなのに。
馬車の周囲だけ、吐く息が白くなっていた。
「……あなた」
エレオノーラが、静かに口を開いた。
「ああ」
アルフォンスが答える。
「今日は、私も我慢しないわよ」
「……構わん」
アルフォンスは、学園の本館を見上げた。
「俺も、すでに限界だ」
◇
その頃。
学園長室では、学園長と監察官が緊急会議を開いていた。
「……公爵夫妻が来校された?」
「はい。すでに正門を通過されました」
報告を受けた学園長は、深く息を吐いた。
「……まずいことになった」
監察官が、眉をひそめる。
「ですが、我々は規則に従って……」
「黙りなさい!」
学園長が、珍しく声を荒らげた。
「君は、自分が何をしたのか理解しているのか!」
「……何を、と申されましても」
「王国最強の公爵家の嫡男を、証拠もないまま不正関与者として公示したのだぞ!」
「……しかし、疑惑が……」
「その疑惑の根拠を確認したのか!」
監察官は、答えられなかった。
その時。
――コン、コン。
扉が叩かれた。
「……入れ」
学園長が答える。
扉が開いた。
そして。
アルフォンス・ヴァルディスが、静かに入室した。
その後ろには、エレオノーラ。
「……失礼する」
低い声が響く。
学園長は、慌てて立ち上がった。
「……アルフォンス公爵閣下!」
「座って構わん」
アルフォンスは、ゆっくりと椅子へ腰掛けた。
だが。
学園長も監察官も、座ることができなかった。
……何だ、この圧力は。
剣を抜いているわけではない。
魔法を使っているわけでもない。
それなのに。
目の前の男が、恐ろしくて仕方がなかった。
◇
「……さて」
アルフォンスが、静かに口を開いた。
「昨日の通知について、説明してもらおうか」
机の上に、一枚の紙が置かれた。
そこには、レオンハルトとリゼットの名前。
不正疑惑に伴う施設利用制限。
学園が掲示した通知の写しだった。
「……これは、学園が正式に出したものだな?」
「……は、はい」
「では、聞こう」
アルフォンスの瞳が、鋭く細められた。
「俺の息子が不正に関与した証拠は、どこにある?」
沈黙。
監察官が、震える声で答えた。
「……目撃証言が……」
「誰の?」
「……それは、調査上の機密で……」
――ドンッ!
アルフォンスの手が、机へ置かれた。
ただ、それだけだった。
だが。
分厚い執務机が、真っ二つに割れた。
「……っ!?」
学園長と監察官が、同時に後退する。
アルフォンスは、表情を変えなかった。
「……もう一度、聞く」
その声は、恐ろしく低かった。
「証拠は、どこにある?」
「……そ、それは……」
「証拠もなく、息子の名を掲示したのか?」
「……っ」
「公爵家の嫡男という立場を利用して、不正をしたかのように?」
アルフォンスは、ゆっくりと立ち上がった。
その瞬間。
室内の空気が、重く沈んだ。
「……貴様ら」
黒獅子の瞳に、激しい怒りが宿る。
「俺の息子を、何だと思っている」
学園長の顔から、血の気が引いた。
「……閣下!」
「レオンは、命を懸けて生徒たちを守った」
アルフォンスの声が、室内に響く。
「貴様らが守るべき生徒を、あの子が守ったのだ!」
その言葉に、誰も答えられなかった。
「その息子に対して、貴様らがしたことは何だ!」
――ゴォォォッ!
凄まじい闘気が、室内を満たした。
壁が軋む。
窓ガラスが震える。
監察官は、膝をついた。
「……ひっ!」
アルフォンスは、冷たく見下ろした。
「……命を懸けて守った者を、犯罪者扱いするのが、この学園の教育か?」
沈黙。
そして。
「……答えろ!」
その一喝で、学園長室の窓が砕け散った。
◇
「……あなた」
エレオノーラが、静かに口を開いた。
アルフォンスの闘気が、わずかに収まる。
だが。
次に起きたことは、それ以上に恐ろしかった。
「……学園長先生」
エレオノーラが、優雅に微笑んだ。
「はい……」
「私、一つだけ聞きたいことがあるの」
その声は、とても優しかった。
「……何でしょうか」
「レオンちゃんが、あの舞踏会で何をしたか、ご存じ?」
「……はい。多くの生徒を救ったと……」
「そうね」
エレオノーラは、静かに頷いた。
「自分の命を危険に晒して、大勢の子たちを守ったの」
その瞳が、少しだけ潤んだ。
「……私、報告を聞いた時、本当に怖かったわ」
彼女は、胸元へ手を当てた。
「もし、あの子が帰ってこなかったらって……」
沈黙。
「……でも、無事だった」
エレオノーラは、小さく微笑んだ。
「だから、よかったって思ったの」
そして。
その笑顔が、消えた。
「……なのに」
――パキン。
床が、凍りついた。
「……なのに、あなたたちは」
銀色の魔法陣が、彼女の足元へ広がる。
「……私の息子を、犯罪者みたいに扱ったのね?」
窓の外まで、白い霜が広がっていく。
学園長が、慌てて叫んだ。
「……エレオノーラ様! どうか、お怒りを……!」
「……怒り?」
エレオノーラが、首を傾げた。
「……ええ、怒っているわ」
その瞳が、冷たく輝く。
「……とても」
次の瞬間。
学園長室の壁一面が、銀色の氷に覆われた。
「……っ!」
監察官が、悲鳴を上げた。
「……でも、安心して」
エレオノーラは、微笑んだ。
「今すぐ誰かを傷つけるつもりはないわ」
そして、静かに続けた。
「……ただし」
その声は、凍えるほど冷たかった。
「レオンちゃんの名誉を傷つけた責任は、必ず取っていただきます」
◇
その時。
「……父上! 母上!」
扉が開いた。
俺だった。
背後には、セレス、カイル、リゼットたち。
……うわ。
何だ、この部屋。
机は割れてるし。
壁は凍ってるし。
窓も割れてる。
……父上。
……母上。
やりすぎです。
「……レオン」
父上が、俺を見た。
「……レオンちゃん!」
母上が、駆け寄ってくる。
そして。
――ぎゅうっ!
「……母上!?」
「……ごめんなさい、レオンちゃん」
母上の声が、震えていた。
「……お母さん、我慢できなかったの」
俺は、静かに母上を抱き返した。
「……ありがとうございます」
「……え?」
「俺のために、怒ってくれて」
母上の瞳が、揺れた。
「……レオンちゃん」
「でも」
俺は、ゆっくりと微笑んだ。
「俺は、父上と母上が誰かを傷つける姿は見たくありません」
沈黙。
父上が、静かに目を閉じた。
母上も、少しだけ俯いた。
「……そうね」
やがて、母上が頷いた。
「……あなたの言う通りだわ」
父上も、ゆっくりと頷いた。
「……すまなかった、レオン」
「……いえ」
俺は、二人を見つめた。
「ただ、俺も今回のことを許したわけじゃありません」
父上の瞳が、鋭くなる。
「……そうか」
「はい」
俺は、学園長へ向き直った。
「俺たちの名誉を回復するだけじゃなく、何故こんなことになったのか、きちんと調べてください」
学園長は、深く頭を下げた。
「……必ず」
だが。
父上は、静かに首を横に振った。
「……それだけでは足りん」
学園長が、顔を上げた。
「……閣下?」
「今回の件は、王国教育評議会へ正式に報告する」
室内が、静まり返った。
「学園の監察体制そのものを、外部から調査してもらう」
監察官の顔が、真っ青になった。
「……そ、それは……!」
「不服か?」
父上の一言で、監察官は口を閉じた。
「俺は、息子だけのために言っているのではない」
父上は、静かに続けた。
「同じように疑いをかけられ、声を上げられない生徒がいたらどうする」
その言葉に、学園長は何も答えられなかった。
「……学園は、子どもたちを守る場所だ」
アルフォンスは、冷たく言い放った。
「その責任を果たせぬ者に、教育を語る資格はない」
こうして。
王立アストレア学園の問題は、王国教育評議会を巻き込む重大事件へと発展した。
だが。
黒獅子と銀月の魔女の怒りは、まだ完全には収まっていなかった。




