第7話 聖女の危機と、暴君を怒らせた者たち
王国暦八百二十一年、春月十七日。
王都ヴァルディス公爵家別邸。
朝食の席で、俺は人生最大級の難題に直面していた。
「レオンちゃん、はい、あーん♡」
「……母上」
「なあに?」
「俺はもう十五歳です」
「ええ、知っているわ。十五年間、ずっと見守ってきたもの」
「だったら、自分で食べられることもご存じですよね?」
「もちろんよ!」
母エレオノーラは満面の笑みを浮かべた。
「でも、お母様が食べさせてあげたいの!」
「…………」
会話が成立していない。
いや、成立はしている。
俺の意思が一方的に無視されているだけだ。
「……父上」
助けを求めるように視線を向ける。
王国最強の軍事貴族。
黒獅子アルフォンス・ヴァルディス。
数万の兵を率いて敵国を屈服させた、恐るべき公爵。
その父は、優雅に紅茶を飲みながら頷いた。
「レオンハルト」
「はい」
「母上の気持ちも理解してやれ」
「……父上?」
「お前が小さかった頃は、私もよく食事を与えたものだ」
「……まさか」
「久しぶりに、父にもやらせてくれんか?」
「何でそうなるんですか!?」
思わず叫んだ。
すると、母がぱっと顔を輝かせる。
「あら、あなた! それなら交代で食べさせましょう!」
「うむ。それが公平だな」
「公平じゃない!」
俺は頭を抱えた。
世界最強の力を手に入れたはずなのに。
なぜ、こんなところで追い詰められているんだ?
「ふふっ」
隣で給仕をしていたエレノアが、小さく笑った。
「……エレノア」
「はい、レオンハルト様」
「助けてくれ」
「申し訳ございません」
彼女は優雅に一礼する。
「旦那様と奥様のお幸せそうなお姿を拝見すると、私にはとてもお止めできません」
「裏切り者!」
「私はいつでもレオンハルト様の味方でございますよ」
……絶対、楽しんでるだろ。
そんなことを考えていると、父が静かに口を開いた。
「ところで、レオンハルト」
「……はい?」
「昨日の話だが」
その瞬間、食卓の空気が変わった。
先ほどまで親バカ全開だった父の表情が、王国最強の公爵のものへ戻る。
「王女襲撃事件について、独自に調査を進めているそうだな」
「はい」
「セバスティアンから報告を受けた」
父は紅茶を置いた。
「教会の資金に不審な動きがある。しかも、勇者アルベルト・レイフォードの周辺と繋がっている可能性がある、と」
「……その通りです」
「なるほど」
父はゆっくりと頷いた。
「ならば、私も動こう」
「……父上?」
「教会の上層部には、昔から不穏な噂がある。だが、王国にとって信仰は重要だ。軽率に手を出せば、民を混乱させる」
その言葉に、俺は少し驚いた。
父は単に武力で物事を解決する人間ではない。
王国の政治。
貴族間の力関係。
民衆の信仰。
それらすべてを理解した上で、動こうとしている。
「……だからこそ、証拠が必要なんですね」
「その通りだ」
父は満足そうに微笑んだ。
「よくわかっているな。さすが我が息子だ」
「……いや、普通のことですよ」
「普通ではない。十五歳でそこまで理解できる者が、どれほどいると思う?」
……また始まった。
母も嬉しそうに頷いている。
「そうよ! レオンちゃんは昔から天才なんだから!」
「……母上まで」
「だって本当のことですもの!」
俺は苦笑した。
だが、次の瞬間。
父の表情が、再び真剣なものへ変わる。
「ただし、一つだけ約束してくれ」
「……何でしょう?」
「危険を感じたら、必ず私たちを頼れ」
その声は、驚くほど穏やかだった。
「お前は強い。だが、どれほど強くとも、一人ですべてを背負う必要はない」
俺は言葉を失った。
……一人で背負う必要はない。
その言葉が、胸の奥に深く響いた。
原作のレオンハルトは、最後まで一人で戦った。
家臣たちを守るために。
自分を裏切った者たちへの怒りを抱えながら。
そして、誰にも助けを求めずに死んだ。
……もう、そんな必要はないのかもしれない。
「……わかりました」
俺は静かに頷いた。
「何かあれば、必ず相談します」
父は満足そうに笑った。
「うむ。それでいい」
母も、優しく俺の頭を撫でた。
「レオンちゃんは、私たちの大切な宝物なんだから」
……まったく。
敵には容赦しないくせに。
俺には、どこまでも甘い両親だ。
だが。
悪くない。
こういう家族も。
◇◆◇
同じ頃。
王都中央大聖堂。
聖女エリシア・フィオーレは、薄暗い部屋の中で目を覚ました。
「……ここは……?」
見慣れない天井。
冷たい石壁。
窓には鉄格子が嵌められている。
彼女は慌てて身体を起こした。
そして、気づく。
「……魔力が……!」
自分の魔力が、ほとんど使えない。
首には、見覚えのない銀色の首輪が嵌められていた。
魔力封印具。
魔法使いの力を抑制するための、特殊な魔導具だ。
「……どうして……」
記憶を辿る。
昨夜。
教会の帳簿を調べていた。
孤児院への支援金が、何者かによって横領されている可能性を見つけた。
そして、マルクス司祭に見つかった。
『余計なことを、知る必要はありません』
その言葉を最後に、記憶が途切れている。
「……まさか……」
エリシアの顔から、血の気が引いた。
そのとき。
ガチャリ。
扉が開いた。
「……お目覚めですか、エリシア様」
入ってきたのは、マルクス・エルディンだった。
「……マルクス司祭様!」
エリシアは立ち上がった。
「これは、どういうことですか!?」
「どういうこと、と申されましても」
マルクスは穏やかに微笑んだ。
「少々、休養していただいているだけですよ」
「……嘘です!」
エリシアは声を震わせた。
「どうして、私に魔力封印具が……!」
マルクスの笑みが、ゆっくりと消えた。
「……困りましたね」
低い声。
「あなたには、もう少し従順でいていただきたかったのですが」
「……何を……」
「教会は、あなたを聖女として育てました」
マルクスは、ゆっくりと歩み寄る。
「衣食住を与え、教育を施し、地位と名誉を与えた」
そして、冷たく告げた。
「その恩を忘れて、我々を疑うとは」
「……私は、ただ……!」
「ただ?」
「……本当のことを、知りたかっただけです!」
エリシアは、涙を浮かべながら叫んだ。
「孤児院への支援金が、なぜ減っているのか!」
「…………」
「治療を受けられずに苦しんでいる人たちが、どうしてこんなにいるのか!」
マルクスは、静かに息を吐いた。
「……やはり、あの少年の影響ですか」
「……レオンハルト様は、関係ありません!」
エリシアは即座に否定した。
「私が、自分で確かめようと思ったんです!」
その言葉に、マルクスの目が細くなる。
「……なるほど」
そして、静かに告げた。
「ならば、少し教育が必要ですな」
エリシアの背筋に、冷たいものが走った。
マルクスは扉へ向かいながら、最後に振り返った。
「ご安心ください。命を奪うつもりはありません」
その笑顔は、恐ろしいほど穏やかだった。
「聖女としての役割を、思い出していただくだけです」
扉が閉まる。
ガチャリ。
鍵の音が響いた。
エリシアは、その場に崩れ落ちた。
「……女神様……」
小さく呟く。
「……どうか……」
だが、祈りの言葉は続かなかった。
初めてだった。
自分が信じていた教会を、恐ろしいと思ったのは。
◇◆◇
午前十一時。
俺は執務室で、セバスティアンから報告を受けていた。
「……聖女が姿を消した?」
「はい」
セバスティアンは、静かに頷いた。
「昨夜から、エリシア・フィオーレ様の姿が確認されておりません」
「……教会は何と言っている?」
「体調不良による休養、と発表しております」
……なるほど。
俺は小さく息を吐いた。
昨日、エリシアと話したばかりだ。
彼女は、教会の実態を自分で確かめたいと言っていた。
そして、その日の夜に姿を消した。
……偶然にしては、出来すぎている。
「……セバスティアン」
「はい」
「昨日の夜、大聖堂で何があった?」
老執事は、手元の報告書を開いた。
「昨夜、聖女様が書庫へ入られたことを確認しております。その後、マルクス司祭が同じ書庫へ入り、しばらくして二名の神殿騎士が裏口から地下区画へ向かったそうです」
「……目撃者は?」
「書庫の清掃を担当する女性です。現在は安全な場所で保護しております」
「よくやった」
「恐れ入ります」
セバスティアンは一礼した。
「さらに、大聖堂地下へ運び込まれた魔導具の納品記録を入手いたしました」
差し出された書類を見る。
銀製の拘束具。
魔力遮断石。
封印術式用の触媒。
……これは。
「魔力封印具か」
「その可能性が高いかと」
俺は書類を机に置いた。
状況はかなり怪しい。
だが、まだエリシアが拘束されていると断定するには足りない。
それに、大聖堂は教会の管轄だ。
公爵家だからといって、勝手に踏み込めば政治問題になる。
「……父上に相談する」
俺が立ち上がると、セバスティアンが少し驚いたように目を上げた。
「旦那様に、でございますか?」
「ああ」
俺は苦笑した。
「一人で背負うなって、今朝言われたばかりだからな」
セバスティアンの表情が柔らかくなった。
「……それは、旦那様もお喜びになります」
◇◆◇
父の執務室へ向かうと、ちょうど母も同席していた。
二人は何やら書類を確認していたが、俺を見るなり表情を変えた。
「レオンハルト。どうした?」
「レオンちゃん! お仕事は終わったの?」
「……まだです。少し相談がありまして」
父はすぐに椅子を勧めた。
「聞こう」
俺は聖女エリシアの失踪と、セバスティアンが集めた情報を説明した。
話が進むにつれ、父の表情が険しくなっていく。
「……聖女を拘束した可能性がある、か」
「はい。まだ推測ですが」
「推測であっても、調べる価値は十分にある」
父は腕を組んだ。
「ただし、大聖堂へ無断で踏み込むのは得策ではない。教会はそれを口実に、ヴァルディス家が信仰を弾圧したと騒ぐだろう」
「……ですよね」
「だから、王宮を動かす」
父は机上の紙を引き寄せた。
「聖女の安否確認と、王女襲撃事件に関する証拠保全。この二つを理由に、王国の正式な調査を求める」
「……許可は下りますか?」
「下ろさせる」
父は平然と答えた。
……頼もしすぎる。
すると、母が静かに口を開いた。
「でも、あなた」
「何だ、エレオノーラ」
「もし本当に聖女様が閉じ込められているなら、許可を待っている間に危険な目に遭うかもしれないわ」
……その通りだ。
俺は頷いた。
「ですから、俺が先に様子を見てきます」
その瞬間。
父と母の視線が、同時にこちらへ向いた。
「……レオンハルト」
「……レオンちゃん」
……あ。
嫌な予感がする。
「一人で行くつもりか?」
「いえ、エレノアも……」
「護衛を百人つけよう」
「多いです!」
「ならば五十人」
「そういう問題じゃありません!」
母も真剣な表情で頷く。
「お母様も一緒に行くわ」
「母上まで!?」
「だって、危ないでしょう?」
「俺が危ないというより、教会の方が危ない気が……」
「何か言った?」
「……何でもありません」
母はにっこり微笑んだ。
……この人を怒らせるのだけは、本当にやめておこう。
結局、父が王宮への手続きを進め、母が大聖堂周辺の魔力反応を調べることになった。
俺とエレノアは、教会に気づかれない範囲で聖女の居場所を探る。
セバスティアンは証拠と証人の保全。
ガルディオは、万一に備えて騎士団を待機させる。
……完璧じゃないか。
一人で全部やろうとするより、よほど効率がいい。
「……父上、母上」
「何だ?」
「なあに、レオンちゃん?」
俺は二人へ頭を下げた。
「ありがとうございます」
父は一瞬、目を見開いた。
母も驚いたように瞬きをする。
そして。
「……エレオノーラ」
「ええ、あなた」
「今の言葉、聞いたか?」
「もちろんよ……!」
母の目が潤んだ。
「レオンちゃんが、私たちを頼ってくれたわ……!」
……あれ?
何か、感動するところだったか?
「よし。今日は記念日だ」
「あなた、夕食はお祝いにしましょう!」
「いや、そんな大げさな……!」
俺の抗議は、完全に無視された。
◇◆◇
午後二時。
王都中央大聖堂。
俺とエレノアは、昨日と同じ正門から堂々と入った。
怪しまれないため、というより。
すでに怪しまれているのだから、こそこそする意味がない。
「……レオンハルト様」
「ん?」
「昨日より、警備が増えております」
「ああ」
神殿騎士が十数人。
さらに、回廊の奥にも武装した男たちがいる。
……露骨だな。
俺は小さく笑った。
「さて、どう出るか」
そのとき。
「これは、レオンハルト様」
聞き覚えのある声が響いた。
マルクス司祭だ。
「本日もお越しくださるとは、光栄ですな」
「昨日は世話になった」
「とんでもございません」
マルクスは穏やかに微笑んだ。
「本日は、どのようなご用件で?」
「聖女エリシアに会いたい」
その瞬間。
マルクスの笑みが、ほんのわずかに止まった。
「……エリシア様、でございますか?」
「ああ。昨日、少し話をしたんだ」
「残念ながら、聖女様は体調を崩されまして」
「そうか」
俺は頷いた。
「なら、見舞いだけでも」
「……それは」
「難しいか?」
マルクスは、困ったように眉を下げた。
「聖女様には安静が必要ですので」
「なるほど」
俺は一歩、近づいた。
「じゃあ、医者は診たのか?」
「……もちろんです」
「誰が?」
「……教会付きの治癒術師が」
「名前は?」
「…………」
マルクスの目が細くなった。
「レオンハルト様」
「何だ?」
「聖女様のご容体について、そこまでお答えする義務はございません」
……まあ、そう来るか。
俺は肩をすくめた。
「そうだな。失礼した」
あっさり引き下がる。
マルクスは少し意外そうな顔をした。
おそらく、俺が強引に詰め寄ると思っていたのだろう。
だが、そんなことをする必要はない。
なぜなら。
俺はすでに、別のものを探していたからだ。
《万有引力》。
空間に存在するものの位置と、働く力を捉える能力。
俺は大聖堂の地下へ意識を向けていた。
石壁。
鉄扉。
複数の人間。
そして、魔力を遮断する特殊な構造物。
……見つけた。
地下三階。
北側の小部屋。
そこに、一人だけ異様に弱い魔力反応がある。
首のあたりに、魔力を抑え込む装置。
……十中八九、エリシアだ。
俺は表情を変えずに告げた。
「邪魔したな。今日は帰る」
「……そうでございますか」
マルクスは安堵したように微笑んだ。
「またのお越しを、お待ちしております」
「ああ」
俺はエレノアと共に、踵を返した。
そして、誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。
「……居場所はわかった」
エレノアの目が、わずかに鋭くなる。
「……では」
「まずは外へ出る。父上の手続きも確認したい」
俺は静かに続けた。
「助けるだけじゃ駄目だ。二度と同じことをさせないための証拠も必要だからな」
◇◆◇
地下三階。
エリシアは、冷たい床に座り込んでいた。
どれほど時間が経ったのだろう。
窓のない部屋では、昼なのか夜なのかさえわからない。
「……誰か……」
小さく呟く。
だが、返事はない。
彼女は、震える手で首輪に触れた。
魔力封印具。
これさえなければ、脱出できるかもしれない。
しかし、どれほど力を込めても外れなかった。
「……どうして……」
涙が頬を伝う。
教会は、自分を救ってくれた場所だった。
孤児だった自分に、食事を与えてくれた。
温かな寝床を用意してくれた。
魔法を教えてくれた。
だから、信じていた。
自分が聖女として人々を救えば、きっと恩返しになると思っていた。
……それなのに。
『余計なことを、知る必要はありません』
マルクスの言葉が、頭から離れない。
彼女は、ただ知りたかっただけなのだ。
貧しい人々が苦しんでいる理由を。
孤児院への支援金が減っている理由を。
それなのに、閉じ込められた。
「……レオンハルト様……」
ふと、昨日出会った少年の顔が浮かんだ。
黒き暴君。
冷酷な公爵令息。
そう教えられていた。
だが、実際に会った彼は違った。
威圧することもなく。
自分の信仰を笑うこともなく。
ただ、一つの問いを投げかけてきた。
『神を信じることと、教会の言うことを全部聞くことは、同じなのか?』
……あの人は、正しかったのかもしれない。
エリシアは、静かに目を閉じた。
「……女神様」
震える声で祈る。
「……私は、間違っていたのでしょうか……」
そのときだった。
ガチャリ。
再び、扉が開いた。
「……エリシア様」
現れたのは、二人の神殿騎士だった。
「……何でしょうか?」
「マルクス司祭様がお呼びです」
エリシアは、ゆっくりと立ち上がった。
「……どちらへ?」
「地下祭壇です」
その言葉に、胸騒ぎがした。
地下祭壇。
教会の中でも、限られた者しか立ち入れない場所。
そこへ連れていかれる理由など、思いつかない。
「……私は、何をされるのですか?」
騎士たちは答えなかった。
ただ、無言で彼女の腕を掴んだ。
「……痛っ!」
「お静かに」
エリシアは唇を噛んだ。
……怖い。
だが、逃げることはできない。
彼女は、震える足で歩き始めた。
◇◆◇
午後三時。
大聖堂の向かいにある小さな喫茶店。
俺とエレノアは、窓際の席に座っていた。
「……レオンハルト様」
「ん?」
「地下で、何か動きがありましたか?」
「ああ」
俺は紅茶を一口飲んだ。
「エリシアが移動させられている」
地下三階から、さらに奥へ。
魔力を遮断する結界の内側へ連れていかれている。
……嫌な予感がするな。
俺は懐から、小さな通信魔導具を取り出した。
「セバスティアン」
『はい、レオンハルト様』
「父上の手続きは?」
『先ほど、王宮より正式な調査命令が発せられました。国王陛下の裁可も得ております』
……早いな。
さすが父上。
『現在、旦那様が王国監察官と共に大聖堂へ向かわれております』
「わかった」
俺は通信を切った。
その瞬間。
大聖堂の地下から、異様な魔力の波動が伝わってきた。
……これは。
俺は目を細めた。
普通の魔法ではない。
人間の精神に干渉する、特殊な術式。
しかも、かなり強力だ。
「……エレノア」
「はい」
「少し急ぐぞ」
彼女は即座に立ち上がった。
「承知いたしました」
俺は窓の外へ視線を向ける。
大聖堂の尖塔。
白い大理石。
女神の彫像。
その美しい建物の地下で、今まさに一人の少女が苦しめられようとしている。
……まったく。
神の名を掲げる連中が、何をやってるんだか。
俺は静かに立ち上がった。
「……行こう」
◇◆◇
大聖堂地下祭壇。
そこには、巨大な魔法陣が描かれていた。
黒い石柱。
赤黒く光る魔石。
そして、中央に設置された拘束台。
エリシアは、その台へ連れていかれた。
「……これは……?」
彼女の声が震える。
マルクス司祭が、ゆっくりと姿を現した。
「ようこそ、エリシア様」
「……マルクス司祭様……」
「これから、少々特別な儀式を行います」
「……儀式?」
「ええ」
マルクスは穏やかに微笑んだ。
「あなたの心に生まれた迷いを、取り除くためのものです」
エリシアの顔から、血の気が引いた。
「……まさか……精神干渉魔法……?」
「ご存じでしたか」
マルクスは感心したように頷いた。
「さすが聖女様。実に優秀ですな」
「……そんなこと、許されません!」
エリシアは叫んだ。
「人の心を魔法で変えるなんて……!」
「必要な処置です」
マルクスは冷たく答えた。
「あなたは教会の象徴。余計な疑問を抱かれては困るのですよ」
「……嫌です!」
エリシアは必死に抵抗した。
「私は、そんなことのために聖女になったんじゃありません!」
その言葉に、マルクスの表情が歪んだ。
「……黙りなさい」
騎士たちが、彼女を拘束台へ押さえつける。
「……離してください!」
エリシアの叫びが、地下祭壇に響いた。
だが、誰も助けに来ない。
マルクスは、魔法陣へ魔力を流し込んだ。
赤黒い光が、ゆっくりと広がっていく。
「……安心なさい」
その声は、恐ろしく冷たかった。
「儀式が終われば、あなたは再び従順な聖女へ戻れるのです」
「……嫌……!」
エリシアの瞳から、涙が溢れた。
「……誰か……助けて……!」
その瞬間。
祭壇の上空に、銀白色の光が走った。
次いで、拘束台を覆っていた魔法陣の線が、一本ずつ途切れていく。
「……なっ!?」
マルクスが目を見開いた。
魔法陣が、音もなく崩壊した。
赤黒い魔力が、霧のように消えていく。
「……馬鹿な……!」
そのとき。
地下祭壇の扉が、静かに開いた。
「……随分と趣味の悪い儀式だな」
低い声。
エリシアが、ゆっくりと顔を上げる。
そこに立っていたのは。
黒髪の少年。
冷たいほど整った顔立ち。
そして、深紅の瞳。
「……レオンハルト……様……?」
俺は、ゆっくりと祭壇へ足を踏み入れた。
「……まったく」
周囲を見渡す。
拘束された聖女。
精神干渉の魔法陣。
武装した神殿騎士。
そして、青ざめたマルクス司祭。
……証拠としては十分すぎるな。
「……貴様!」
マルクスが叫んだ。
「どうやって、ここへ……!」
「普通に歩いてきた」
「……馬鹿な! 地下への通路は封鎖していたはず……!」
「ああ。扉が閉まってたな」
俺は肩をすくめた。
「だから、開けた」
実際には、《万有引力》で鍵の内部機構を動かしただけだ。
別に、壊したわけじゃない。
……まあ、ちょっと強引だったかもしれないが。
「……レオンハルト様……!」
エリシアが、震える声で俺を呼んだ。
俺は彼女へ視線を向ける。
「……大丈夫か?」
「……どうして……」
「ん?」
「……どうして、助けに……?」
俺は少しだけ首を傾げた。
「……困ってる人間がいたら、助けるだろ?」
その瞬間。
エリシアの瞳から、大粒の涙が零れた。
「……っ……!」
……おっと。
泣かせるつもりはなかったんだが。
俺は小さく息を吐いた。
「……エレノア」
「はい」
「エリシアを頼む」
「承知いたしました」
エレノアが、静かに前へ出る。
その姿を見た神殿騎士たちが、剣を抜いた。
「……動くな!」
「これ以上近づけば、斬るぞ!」
エレノアは、少しだけ目を細めた。
「……レオンハルト様」
「ん?」
「少々、手荒くなってもよろしいでしょうか?」
「……殺すなよ」
「もちろんでございます」
次の瞬間。
彼女の姿が、消えた。
いや。
消えたように見えただけだ。
神殿騎士たちが反応するより早く、エレノアの剣が閃く。
ガキィン!
一本目の剣が弾き飛ばされた。
続いて、二本目。
三本目。
四本目。
「……なっ!?」
騎士たちが驚愕する。
だが、遅い。
エレノアは、流れるような動きで彼らの手首を打ち、足を払った。
ドサッ!
次々と床へ倒れる騎士たち。
わずか数秒。
十人近い神殿騎士が、全員戦闘不能になっていた。
……相変わらず、強いな。
俺は感心したように頷いた。
「お見事」
「ありがとうございます」
エレノアは優雅に一礼した。
そして、拘束台へ向かう。
「エリシア様。もう大丈夫です」
「……あ、ありがとうございます……!」
彼女は素早く拘束具を外した。
首輪だけは特殊な術式で固定されていたが、俺が軽く指を動かすと、内部の留め具が外れた。
カチリ。
「……え?」
エリシアが目を丸くする。
「……外れた……?」
「もう魔力は使えるはずだ」
俺が告げると、彼女は恐る恐る手を開いた。
淡い金色の光が、掌に宿る。
「……本当だ……!」
エリシアの瞳が、再び潤んだ。
だが。
そのときだった。
「……ふざけるな……!」
マルクスが、低い声で呟いた。
「……ふざけるなぁぁぁ!!」
彼の周囲に、黒い魔力が噴き上がる。
……おいおい。
まさか、まだやるつもりか?
「……レオンハルト・ヴァルディス!」
マルクスは、狂ったように叫んだ。
「貴様さえいなければ……!」
黒い魔力が、巨大な槍となって形成される。
「……すべて、うまくいっていたものを!!」
そして。
その槍が、俺へ向けて放たれた。
……遅い。
俺は、軽く右手を上げた。
《万有引力》。
黒い槍の軌道が、空中で突然変わる。
そして、俺の掌の前で静止した。
「……なっ!?」
マルクスの顔が、恐怖に歪む。
「……何を……した……?」
俺は、黒い槍を眺めた。
……なるほど。
昨日、盗賊の口封じに使われた呪いと、似た魔力の構造だ。
これは、いい証拠になる。
俺は槍を圧縮し、小さな黒い結晶へ変えた。
「……証拠品、一つ追加だな」
そして、懐へしまう。
マルクスは、完全に言葉を失っていた。
「……ば、馬鹿な……」
「……マルクス司祭」
俺は、ゆっくりと歩み寄った。
「お前、ずいぶん好き勝手やってくれたな」
「……ひっ……!」
マルクスが後ずさる。
俺は静かに続けた。
「王女襲撃事件への関与」
一歩。
「教会資金の不正流用」
さらに一歩。
「聖女の不法監禁」
そして。
「精神干渉魔法による人格改変の未遂」
マルクスの背中が、壁にぶつかった。
「……全部、説明してもらおうか」
「……わ、私は……!」
マルクスは震える声で叫んだ。
「……教会のために……!」
「……教会のため?」
俺は、思わず笑ってしまった。
「……違うだろ」
その声は、自分でも驚くほど冷たかった。
「お前が守りたいのは、教会じゃない」
俺は、真っ直ぐに彼を見つめた。
「……自分の立場と、金と、権力だ」
マルクスの顔が、真っ青になった。
◇◆◇
そのとき。
地下祭壇の扉が、再び開いた。
「……そこまでだ」
低く、威厳に満ちた声。
振り返る。
そこに立っていたのは。
黒髪の大柄な男。
アルフォンス・ヴァルディス。
俺の父親だった。
その背後には、王国監察官と武装した騎士たちが控えている。
「……父上」
「レオンハルト」
父は、俺の姿を確認すると、わずかに表情を緩めた。
「……無事だな」
「はい」
「怪我は?」
「ありません」
「そうか」
父は、安堵したように頷いた。
そして。
マルクスへ視線を向けた。
その瞬間。
地下祭壇の空気が、凍りついた。
「……マルクス・エルディン」
低い声。
「……貴様か」
マルクスの顔から、血の気が消えた。
「……ヴァ、ヴァルディス公爵閣下……!」
父は、ゆっくりと歩み寄った。
「王国の正式な調査命令が下っている」
その声には、怒りが滲んでいた。
「聖女の監禁、禁術の使用、そして王女襲撃事件への関与の疑い」
父は、冷たく告げた。
「……貴様には、王国法に基づいて説明してもらう」
「……お、お待ちください!」
マルクスが叫ぶ。
「これは、教会内部の問題で……!」
「……黙れ」
たった一言。
それだけで、マルクスは口を閉ざした。
……すげえ。
俺も、思わず感心した。
さすが父上。
迫力が違う。
父は、王国監察官へ視線を向けた。
「証拠を保全しろ。関係者全員を拘束し、記録を押収する」
「はっ!」
騎士たちが、一斉に動き始めた。
マルクスは、力なく膝をついた。
「……そんな……」
その様子を見ながら、俺は静かに息を吐いた。
……とりあえず、一段落か。
だが。
これで終わりではない。
アルベルト・レイフォード。
あいつの関与を証明するには、まだ足りない。
マルクスがすべてを自分の責任だと言い張れば、勇者への追及は難しくなる。
……まあ、逃がすつもりはないけどな。
◇◆◇
大聖堂の外へ出ると、夕暮れの光が王都を染めていた。
エリシアは、俺の隣で静かに立っていた。
「……レオンハルト様」
「ん?」
「……本当に、ありがとうございました」
彼女は深々と頭を下げた。
「あなたが来てくださらなければ、私は……」
「……気にするな」
俺は軽く手を振った。
「無事だったなら、それでいい」
エリシアは、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、涙が浮かんでいた。
「……私は、あなたを誤解していました」
「……そうか」
「教会の方々から、あなたは冷酷で傲慢な方だと聞いていました」
彼女は、震える声で続ける。
「でも……あなたは、違いました」
俺は、少しだけ苦笑した。
「……俺だって、そんな立派な人間じゃないさ」
「……いいえ」
エリシアは、真っ直ぐに俺を見つめた。
「少なくとも、今日のあなたは……私の命と心を救ってくださいました」
その言葉に、俺は少しだけ目を細めた。
……心、か。
確かに。
精神干渉魔法が成功していれば、彼女は今の彼女ではなくなっていただろう。
……間に合ってよかった。
「……エリシア」
「はい」
「これから、どうするつもりだ?」
彼女は、少しだけ考えた。
そして、静かに答えた。
「……私は、教会を嫌いになりたくありません」
俺は黙って聞いた。
「私を育ててくれた人たちも、助けてくれた人たちも、本当にいたんです」
彼女の声が、少しだけ震える。
「でも……間違っていることを、見過ごしたくもありません」
俺は、ゆっくりと頷いた。
「……それでいいと思う」
「……え?」
「教会のすべてが悪いわけじゃない」
俺は、静かに続けた。
「悪いことをした奴が、悪い。それだけだ」
エリシアの瞳が、大きく見開かれた。
そして。
ゆっくりと、微笑んだ。
「……はい」
その笑顔は、昨日までのどこか儚いものとは違っていた。
自分の意思で立ち上がろうとする、強い光が宿っていた。
……さて。
これで、聖女エリシアの運命も変わり始めたわけだ。
原作では、彼女はアルベルトを盲目的に信じていた。
だが、今は違う。
少なくとも、教会の言葉を無条件で信じることはなくなった。
……いい傾向だ。
そのとき。
「……レオンハルト様」
エレノアが、静かに俺へ近づいてきた。
「……どうした?」
「少々、お話が」
彼女は、俺の耳元へ顔を寄せた。
「……奥様が、お迎えにいらっしゃっております」
「…………は?」
俺は、ゆっくりと振り返った。
そこには。
満面の笑みを浮かべた母が立っていた。
「レオンちゃぁぁん♡」
……あ。
終わった。
「……母上!?」
「無事だったのねぇぇぇ!」
次の瞬間。
俺は、再び母の腕の中に収まっていた。
「ちょ、母上! 人前ですって!」
「関係ないわ!」
「いや、関係あります!」
周囲の騎士たちが、必死に笑いを堪えている。
エレノアは、いつものように微笑んでいた。
そして。
エリシアは、目を丸くしていた。
「……あの……」
彼女が、小さく呟く。
「……この方が、黒き暴君……?」
俺は、母に抱きしめられながら天を仰いだ。
……頼む。
誰か、助けてくれ。
◇◆◇
同じ頃。
王都の高級宿。
アルベルト・レイフォードは、報告を聞いていた。
「……マルクス司祭が、拘束された……?」
その声は、驚くほど静かだった。
「……はい」
部下の男が、震える声で答える。
「大聖堂地下で禁術の使用が発覚し、王国監察官が証拠を押収したとのことです」
「…………」
アルベルトは、ゆっくりと目を閉じた。
……また、レオンハルトか。
王女襲撃計画。
失敗。
盗賊団の口封じ。
失敗。
そして、マルクスの拘束。
……すべて、あの男のせいだ。
「……ふざけるな……」
アルベルトは、低く呟いた。
「……どうして、あいつばかり……!」
握りしめた拳が、震える。
原作ゲームでは、自分が主人公だった。
王女を救い、聖女に慕われ、騎士たちから尊敬される存在。
だが、現実は違う。
王女はレオンハルトを見直し始めている。
聖女も、彼に救われた。
そして、ヴァルディス公爵家まで動き出した。
「……このままでは……」
アルベルトは、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、暗い光が宿っていた。
「……すべて、奪われる……!」
彼は、机の引き出しから一通の手紙を取り出した。
黒い封蝋。
そこには、見慣れない紋章が刻まれている。
「……仕方ない」
アルベルトは、静かに呟いた。
「……あの方に、頼るしかないか」
そして、手紙を開いた。
そこに書かれていたのは。
『王国の秩序を守るため、黒き暴君を排除せよ』
ただ、それだけだった。
だが。
その一文こそが、新たな陰謀の始まりだった。
――レオンハルト・ヴァルディスを巡る戦いは、まだ始まったばかりだった。




