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『悪役公爵令息レオンハルト』  作者: 覇王が好き
第一章 運命を覆す者

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第6話 最強公爵夫妻の溺愛と、聖女の誤解

王国暦八百二十一年、春月十六日。


 王都にあるヴァルディス公爵家の別邸。


 朝食を終えた俺は、執務室で一通の手紙を眺めていた。


「……何だ、これ」


 手紙の差出人は、父アルフォンス・ヴァルディス。


 王国最強の軍事貴族であり、ヴァルディス公爵家の現当主。


 国王でさえ軽々しく命令できないほどの権力を持つ男だ。


 その父から届いた手紙には、こう書かれていた。


『愛する我が息子、レオンハルトへ。


 王女殿下を救ったと聞いた。実に見事だ。お前は私の誇りである。


 しかし、八十人もの武装集団と戦ったというではないか。


 怪我はないか? 食事はきちんと取っているか? 夜は眠れているか?


 お前が強いことは誰よりも理解しているが、父としては心配でならん。


 必要ならば、我が精鋭騎士団三千を王都へ派遣する。


 遠慮するな。


 追伸。母上がお前の無事を確かめるまで帰らないと言い出した。私も同意見だ。


 父、アルフォンス』


「…………」


 俺は無言で手紙を置いた。


 そして、隣に控えるエレノアへ視線を向ける。


「……父上って、こんな人だったっけ?」


「はい。昔から変わっておられませんよ」


 エレノアは当然のように答えた。


「レオンハルト様が十歳の頃、剣術訓練で手のひらに小さな傷を負われた際も、騎士団の訓練を三日間中止なさいました」


「……何で?」


「危険な訓練内容を見直すためでございます」


「……たかが手のひらの傷で?」


「はい」


 ……親バカにもほどがあるだろ。


 いや、レオンハルトの記憶には確かに残っている。


 父アルフォンス。


 普段は冷静沈着で、貴族たちから恐れられる男。


 戦場では一度も敗北したことがなく、敵国からは《黒獅子》と呼ばれている。


 だが、息子のことになると判断力が少々おかしくなる。


 ……少々どころじゃない気もするが。


「それと、奥様からもお手紙が届いております」


 エレノアが、もう一通の封筒を差し出した。


 淡い桃色の封筒。


 花の香りがする。


 嫌な予感がした。


 俺は慎重に封を切る。


『世界で一番可愛いレオンちゃんへ。


 お母様です♡


 王女様を助けたんですってね!


 とっても偉いわ! さすが私とあなたのお父様の息子ね!


 でも、お母様は心配で心配で、昨夜は三時間しか眠れませんでした。


 レオンちゃんが怪我をしていないか、ちゃんとご飯を食べているか、寒い思いをしていないか……。


 考えるだけで胸が苦しくなってしまいます。


 だから、決めました。


 お母様、王都へ行きます!


 今すぐ抱きしめて、頭を撫でて、無事を確認しないと安心できません。


 逃げちゃ駄目よ?


 愛する母、エレオノーラより♡』


「…………」


 俺は手紙を閉じた。


 深く息を吸う。


 そして、天井を見上げた。


「……逃げられないのか?」


「難しいかと」


 エレノアが真顔で答える。


「奥様は空間転移魔法をお使いになれますので」


「……そうだったな」


 母エレオノーラ・ヴァルディス。


 元王国宮廷魔導師団の天才魔法使い。


 七属性のうち六属性を極め、空間魔法まで操る規格外の人物。


 王国では《銀月の魔女》と呼ばれている。


 そんな母が、息子を抱きしめるためだけに空間転移を使う。


 ……何という無駄遣い。


 いや。


 母にとっては、これ以上ない重要な用途なのだろう。


「……まあ、元気そうで何よりだ」


 俺は苦笑した。


 父も母も、昔から俺を大切にしてくれている。


 レオンハルトの記憶を辿れば、それは痛いほどわかる。


 ヴィオレッタに裏切られたときも、両親は俺の味方だった。


 父はローゼンベルク侯爵家との取引を全面的に見直そうとした。


 母に至っては、直接侯爵家へ乗り込もうとしていた。


 それを止めたのは、ほかでもないレオンハルト自身だ。


『父上、母上。俺のことで、家同士の争いを起こさないでください』


 そう言って。


 すべてを飲み込んだ。


 ……馬鹿だな、昔の俺。


 もっと甘えてもよかっただろうに。


 俺は手紙を丁寧に畳んだ。


「……帰ってきたら、ちゃんと話そう」


「はい」


 エレノアが嬉しそうに微笑む。


「きっと、お二人ともお喜びになります」


 その笑顔を見ながら、俺はふと思い出した。


 原作ゲーム。


 レオンハルトが討伐された、あの日。


 父と母は、王国の外交任務で国外にいた。


 王国軍六万。


 教会の精鋭。


 貴族連合。


 古代兵器。


 それらすべてが投入されたにもかかわらず、レオンハルトを倒すまでに三日間を要した。


 ……そうか。


 今ならわかる。


 なぜ、あの戦いに父と母がいなかったのか。


 偶然ではない。


 あの二人がいれば、そもそも討伐作戦など成立しない。


 だから、敵は両親の不在を狙った。


 ……ふざけた話だ。


 俺は、静かに拳を握った。


 原作の結末は、絶対に繰り返さない。


 俺も、エレノアも。


 父も、母も。


 誰一人、あんな結末にはさせない。


 ◇◆◇


 午前十時。


 俺とエレノアは、王都中央にある大聖堂へ向かっていた。


 目的は、マルクス・エルディン司祭。


 アルベルト・レイフォードの支援者であり、王女襲撃事件に関与している疑いがある人物だ。


「……立派な建物だな」


 大聖堂を見上げ、思わず呟く。


 白い大理石で造られた巨大な建物。


 天へ伸びる尖塔。


 色鮮やかなステンドグラス。


 正面には、女神を象った巨大な彫像が立っている。


 ルミナス王国において、教会の権力は非常に大きい。


 国民の多くが女神教を信仰し、教会は医療や教育にも深く関わっている。


 その一方で、政治への影響力も強い。


 特に、勇者と聖女の存在は、教会にとって重要な権威の象徴だ。


「レオンハルト様」


 エレノアが小さな声で告げる。


「周囲に、こちらを監視している者がいます」


「ああ。気づいてる」


 大聖堂の入口。


 左右の回廊。


 そして、向かいの建物の二階。


 少なくとも五人。


 全員が、こちらの動きを警戒している。


「……歓迎されてないみたいだな」


「当然かと」


 エレノアは涼しい顔で答えた。


「レオンハルト様は、教会の方々からあまり好かれておりませんので」


「……知ってる」


 原作のレオンハルトは、教会と非常に仲が悪かった。


 理由は単純。


 教会が貴族や民衆に対して行っていた不当な寄付金の徴収を、何度も批判していたからだ。


 さらに、ヴァルディス領では教会による強制的な献金を禁止している。


 そのため、教会上層部からは危険人物として扱われていた。


 ……まあ、嫌われる理由はわかるな。


 だが、俺としては別に困らない。


 教会が嫌おうが、王国が嫌おうが。


 間違っているものは、間違っている。


「……行くか」


「はい」


 俺たちは、大聖堂の門をくぐった。


 ◇◆◇


 大聖堂の奥。


 祈祷室では、一人の少女が祈りを捧げていた。


 長く美しい金髪。


 透き通るような碧い瞳。


 白を基調とした聖女の衣装。


 その姿は、まるで女神の使いのようだった。


 エリシア・フィオーレ。


 教会が誇る若き聖女。


 そして、原作ゲームにおける主要ヒロインの一人。


「……女神様」


 少女は静かに祈る。


「どうか、今日も苦しむ人々に救いがありますように」


 彼女の祈りは、心からのものだった。


 エリシアは幼い頃、貧しい孤児院で育った。


 食べ物も十分になく、病気になっても医者に診てもらえない。


 そんな生活の中で、教会に救われた。


 そして、自分も誰かを救える人間になりたいと願った。


 その結果、彼女は希少な聖属性魔法の才能を開花させた。


 十五歳にして聖女の称号を与えられたのも、そのためだった。


 だが、彼女には一つ大きな問題があった。


 教会の教えを、疑うことを知らなかったのだ。


「エリシア様」


 祈祷室の扉が開き、一人の司祭が入ってきた。


 マルクス・エルディン。


 四十代半ばの痩せた男。


 穏やかな笑みを浮かべているが、その瞳にはどこか冷たい光が宿っていた。


「……マルクス司祭様」


 エリシアは立ち上がり、丁寧に頭を下げた。


「どうかなさいましたか?」


「少々、厄介な客人が来ておりましてね」


「……厄介な客人?」


「ヴァルディス公爵家のレオンハルトです」


 その名前を聞いた瞬間。


 エリシアの表情が曇った。


「……あの、黒き暴君ですか?」


「ええ」


 マルクスは重々しく頷いた。


「教会の活動を妨害し、神の教えを軽んじる危険な少年です」


「……そうなのですね」


 エリシアは胸元に手を当てた。


 彼女も、レオンハルトの噂は何度も聞いていた。


 傲慢。


 冷酷。


 弱者を見下す貴族。


 そして、神を恐れぬ暴君。


 そんな人物が、なぜ大聖堂へ来たのだろう。


「エリシア様」


 マルクスが静かに告げる。


「決して、あの少年の言葉を信用してはいけません」


「……はい」


「彼は非常に狡猾です。善人を装い、人の心へ入り込むこともあるでしょう」


 エリシアは真剣な表情で頷いた。


「承知いたしました」


 マルクスは満足そうに微笑む。


「では、私は客人の対応をしてまいります」


 そう言って、祈祷室を後にした。


 残されたエリシアは、静かに目を伏せた。


「……レオンハルト・ヴァルディス」


 その名を、そっと呟く。


 彼女はまだ知らない。


 自分が信じている教会の中に、どれほど深い闇が潜んでいるのかを。


 そして、その闇へ最初に手を伸ばす人物こそ、彼女が恐れている少年であることを。


 ◇◆◇


「……これはこれは」


 大聖堂の応接室。


 俺たちを出迎えたマルクス司祭は、満面の笑みを浮かべていた。


「ヴァルディス公爵家のご令息が、わざわざお越しくださるとは」


「突然の訪問で悪いな」


「とんでもございません。教会は、すべての人々に開かれた場所ですから」


 ……よく言う。


 俺は内心で苦笑した。


 この男が、王女襲撃事件に関与している可能性は高い。


 だが、現時点では証拠が足りない。


 だからこそ、慎重に動く必要がある。


「……実は、少し聞きたいことがあってな」


「ほう?」


「最近、王都周辺で盗賊団が活動しているのは知っているか?」


 マルクスの表情が、ほんの一瞬だけ固まった。


 ……おっと。


 わかりやすいな。


「……盗賊団、でございますか?」


「ああ」


 俺は椅子へ腰を下ろした。


「昨日、王女殿下の馬車が襲われた」


「……それは、何とも恐ろしい事件ですな」


「幸い、全員捕らえたけどな」


 その瞬間。


 マルクスの指先が、わずかに動いた。


「……全員、ですか?」


「ああ。八十人近くいたが、一人も逃がしていない」


 俺はにっこりと笑った。


「もちろん、全員生きている」


「…………」


 マルクスの笑顔が、少しだけ引きつった。


 ……なるほど。


 やっぱり、この男は何か知っている。


「それでな」


 俺は続けた。


「盗賊団の持ち物から、教会関係者が使う印章が見つかった」


「……ほう」


「何か心当たりはないか?」


 マルクスは、ゆっくりと首を振った。


「残念ながら、存じ上げません」


「……そうか」


「教会の印章は、多くの聖職者が使用しております。盗難や偽造の可能性もございますな」


 ……まあ、そう答えるよな。


 俺は小さく頷いた。


「なるほど。確かに、その可能性もある」


 マルクスの表情が、わずかに緩む。


 だが、俺は続けた。


「だから、正式に調査する必要があると思ってな」


「……調査?」


「ああ」


 俺は懐から、一枚の書類を取り出した。


 王女襲撃事件の捜査協力要請書。


 王国宰相府の印章が押されている。


「王宮には、すでに報告してある」


 マルクスの顔色が変わった。


「……これは」


「教会の資金管理記録と、印章の使用履歴を確認したい」


 俺は静かに告げた。


「もちろん、正式な手続きに従ってな」


 マルクスは、しばらく黙っていた。


 そして、作り笑いを浮かべる。


「……承知いたしました。ただし、教会内部の記録には機密事項もございますので……」


「わかってる。必要な範囲だけでいい」


 俺は立ち上がった。


「協力してくれるなら、助かる」


「……もちろんですとも」


 マルクスは深々と頭を下げた。


 だが、その表情からは、先ほどまでの余裕が消えていた。


 ◇◆◇


 応接室を出た後。


 俺はエレノアと共に、大聖堂の回廊を歩いていた。


「……レオンハルト様」


「ん?」


「先ほどの司祭、かなり動揺しておりましたね」


「ああ」


 俺は小さく笑った。


「だが、あれだけじゃ証拠にならない」


「……では、どうなさいますか?」


「焦る必要はないさ」


 俺は窓の外へ視線を向けた。


「向こうが動けば、必ず何か残る」


 マルクスは、今頃必死に考えているだろう。


 証拠を隠すか。


 関係者を逃がすか。


 あるいは、俺を排除するか。


 ……どれでも構わない。


 動いてくれれば、それだけ追いやすくなる。


 そのときだった。


「……あの!」


 背後から、少女の声が響いた。


 振り返る。


 そこには、金髪の美しい少女が立っていた。


 白い聖女の衣装。


 澄んだ碧い瞳。


 そして、少し緊張した表情。


 ……来たか。


 俺は心の中で呟いた。


 エリシア・フィオーレ。


 原作ゲームの主要ヒロイン。


 聖女と呼ばれる少女。


「……あなたが、レオンハルト・ヴァルディス様ですか?」


「ああ。そうだけど」


 エリシアは、真っ直ぐに俺を見つめた。


「……一つ、お聞きしたいことがあります」


「何だ?」


 彼女は少しだけ迷った後、口を開いた。


「……あなたは、本当に神を信じていないのですか?」


 ……は?


 俺は思わず目を丸くした。


 何だ、その質問。


 だが、エリシアの表情は真剣だった。


 どうやら、冗談ではないらしい。


「……どうして、そう思う?」


「教会の方々から、あなたは神を軽んじ、教会の活動を妨害していると聞きました」


 ……なるほど。


 完全に吹き込まれてるな。


 俺は小さく息を吐いた。


「……エリシア、だったか?」


「……はい」


「一つ聞いていいか?」


「……何でしょう?」


「神を信じることと、教会の言うことを全部聞くことは、同じなのか?」


「……え?」


 エリシアが目を見開いた。


 俺は静かに続ける。


「神が本当に人々の幸せを願っているなら、貧しい人間から無理やり金を取り上げることを喜ぶと思うか?」


「……それは……」


「病気の子供がいて、薬を買う金もない家族がいる」


 俺は彼女を見つめた。


「その家族に、献金しなければ神の加護を失うと言うのは、正しいことなのか?」


 エリシアの表情が、わずかに揺れた。


「……そんなこと、教会がするはず……」


「本当に?」


「…………」


 少女は答えられなかった。


 俺は、少しだけ声を和らげた。


「……別に、信仰を否定してるわけじゃない」


 そして、静かに続ける。


「ただ、神の名を使って人を苦しめる奴が嫌いなだけだ」


 その言葉に、エリシアは息を呑んだ。


 彼女の瞳が、わずかに揺れる。


「……あなたは」


 小さな声だった。


「……本当に、噂通りの方なのですか?」


 俺は肩をすくめた。


「さあな。自分で確かめればいいんじゃないか?」


 エリシアは、しばらく俺を見つめていた。


 そして、ゆっくりと頭を下げた。


「……失礼いたしました」


「気にするな」


 俺は軽く手を振った。


 そのまま立ち去ろうとしたとき。


 背後から、再び声が聞こえた。


「……レオンハルト様!」


 振り返る。


 エリシアは、真剣な表情でこちらを見つめていた。


「……もし、あなたのおっしゃることが本当なら」


 少女は、胸元に手を当てた。


「私は、自分の目で確かめたいと思います」


 俺は、少しだけ笑った。


「……それがいい」


 そして、歩き出した。


 ◇◆◇


 その日の午後。


 大聖堂の地下。


 マルクス・エルディンは、暗い部屋の中で一人の男と向かい合っていた。


「……どういうことだ」


 マルクスの声は、怒りで震えていた。


「なぜ、レオンハルトがここまで動いている!?」


 向かいの男は、黒い外套をまとっている。


 顔は、深いフードに隠されていた。


「……想定外です」


「想定外で済むか!」


 マルクスは机を叩いた。


「王宮が正式に調査を始めれば、資金の流れが露見する!」


「……ご安心を。すでに記録の一部は処分しております」


「馬鹿者!」


 マルクスは怒鳴った。


「記録を処分した事実そのものが、疑惑を深めるのだ!」


 黒衣の男は黙り込んだ。


 マルクスは荒い息を吐く。


 そして、低い声で告げた。


「……レオンハルトを止めろ」


「……暗殺、でございますか?」


「手段は問わん」


 その瞳には、冷たい光が宿っていた。


「ただし、ヴァルディス公爵夫妻には気づかれるな」


 黒衣の男が、わずかに身を震わせる。


「……あのお二人を敵に回すのは、危険です」


「わかっている!」


 マルクスは苛立たしげに叫んだ。


「だからこそ、事故に見せかけるのだ!」


 そして、静かに続けた。


「レオンハルトさえ消えれば、すべて元通りになる」


 その言葉を最後に、部屋は静寂に包まれた。


 だが、彼らはまだ理解していなかった。


 レオンハルト・ヴァルディスという少年が、どれほど危険な存在なのかを。


 そして。


 その少年を愛する両親が、どれほど恐ろしい存在なのかを。


 ◇◆◇


 夕方。


 王都別邸へ戻った俺は、執務室で報告書を整理していた。


「……さて」


 マルクス司祭。


 アルベルト。


 教会の資金。


 盗賊団への依頼。


 少しずつ、線が繋がり始めている。


 だが、まだ決定的な証拠はない。


 ……まあ、焦る必要はないか。


 俺は椅子へ深く腰を下ろした。


 そのとき。


 コンコン。


「レオンハルト様」


 エレノアの声が聞こえた。


「どうした?」


「……その」


 珍しく、彼女の声が少し困っている。


「……お客様がいらっしゃいました」


「客?」


「はい」


 俺は首を傾げた。


「誰だ?」


 エレノアは、少しだけ間を置いた。


 そして、静かに答えた。


「……旦那様と、奥様でございます」


「…………は?」


 次の瞬間。


 廊下から、聞き覚えのある声が響いた。


「レオンちゃぁぁぁん!!」


 ……あ。


 これ、逃げられないやつだ。


 バタンッ!


 勢いよく扉が開く。


 そこに立っていたのは、銀髪の美しい女性。


 エレオノーラ・ヴァルディス。


 俺の母親だった。


「レオンちゃん!!」


「……母上!?」


 次の瞬間。


 俺の身体は、母の腕の中に収まっていた。


「よかったぁぁぁ! 無事だったのねぇぇぇ!」


「ちょ、母上! 苦しいって!」


「だって! だって! 八十人もの悪者と戦ったって聞いたんですもの!」


 母は涙目で俺を抱きしめる。


 ……いや。


 俺、世界最強クラスなんだけど。


 そんなことは、母には関係ないらしい。


「……エレオノーラ」


 背後から、低い声が響いた。


 見ると、黒髪の大柄な男が立っていた。


 アルフォンス・ヴァルディス。


 俺の父親だ。


 普段は冷徹な公爵として恐れられる男。


 その父が、今は珍しく困ったような顔をしている。


「……少し落ち着け。レオンハルトが苦しそうだ」


「あなたは黙っていて!」


「……うむ」


 ……父上、弱っ。


 思わず笑いそうになる。


 だが、次の瞬間。


 父が俺へ近づいてきた。


 そして、大きな手を俺の頭へ置く。


「……よくやったな、レオンハルト」


 低く、穏やかな声。


「王女殿下を救い、民を守った。誇らしいぞ」


「……父上」


「だが」


 父の目が、わずかに鋭くなる。


「次からは、もう少し父を頼れ」


 俺は、少しだけ驚いた。


「……俺なら、大丈夫ですよ」


「知っている」


 父は静かに頷いた。


「お前が強いことなど、誰よりも理解している」


 そして、少しだけ笑った。


「だがな。息子を心配するのは、父親の特権だ」


 ……ああ。


 何だよ、それ。


 ずるいだろ。


 俺は、思わず目を伏せた。


 レオンハルトの記憶。


 その奥にある、温かな感情。


 幼い頃、父に剣を教わったこと。


 母に魔法を教わったこと。


 三人で食卓を囲んだこと。


 そして、婚約破棄の後も、変わらず自分を愛してくれたこと。


 ……そうだ。


 俺には、こんなにも大切な家族がいる。


「……ありがとうございます、父上」


 俺は静かに答えた。


「母上も。心配かけて、ごめんなさい」


 その瞬間。


 母の目から、涙が溢れた。


「……レオンちゃん……!」


 そして、さらに強く抱きしめられた。


「ぐえっ!?」


 ……待て待て待て!


 世界最強の俺が、母親の抱擁で窒息しかけてるんだが!?


 父は、その様子を見ながら静かに微笑んでいた。


 エレノアも、嬉しそうに目を細めている。


 ……まったく。


 敵には無敵でも、家族には勝てないらしい。


 だが。


 悪くない。


 こういうのも。


 ◇◆◇


 その夜。


 ヴァルディス公爵家の王都別邸。


 久しぶりに、家族三人で夕食を囲んだ。


 父は王都の政治情勢について話し、母は俺の食事量を気にしていた。


 エレノアも、いつもより柔らかな表情で給仕をしている。


 穏やかな時間。


 温かな食卓。


 何気ない会話。


 そのすべてが、俺には妙に眩しく感じられた。


 ……守りたいな。


 心から、そう思った。


 原作では、こんな時間は二度と訪れなかった。


 父と母は、息子の死を知らないまま遠い異国にいた。


 そして、帰還したときには、すべてが終わっていた。


 ……絶対に、そんな未来にはさせない。


 俺は、静かに決意を固めた。


 そのとき。


「……レオンハルト」


 父が、ふと真剣な表情になった。


「一つ、聞きたいことがある」


「……何でしょう?」


「今回の王女襲撃事件」


 父は、ゆっくりとワイングラスを置いた。


「……お前は、誰が黒幕だと思っている?」


 俺は、少しだけ目を細めた。


 ……さすがだな。


 父は、すでに何かを察しているらしい。


「……まだ、証拠はありません」


「構わん」


 父は静かに答えた。


「お前の考えを聞きたい」


 俺は、しばらく考えた。


 そして、ゆっくりと口を開く。


「……教会です」


 その瞬間。


 父の目が、鋭く光った。


「……ほう」


「正確には、教会内部の一部勢力。そして、その背後にいる人物」


「……誰だ?」


 俺は、静かに答えた。


「……アルベルト・レイフォード」


 父は、しばらく黙っていた。


 そして、ゆっくりと頷いた。


「……なるほど」


 母も、先ほどまでの柔らかな表情を消していた。


「……レオンちゃん」


「はい?」


「その人たち、あなたに危害を加えようとしているの?」


 ……おっと。


 これは、まずい質問だ。


 俺は少しだけ考えた。


「……まだ、わかりません」


 母は、静かに微笑んだ。


 だが。


 その笑顔は、先ほどまでとはまるで違っていた。


「……そう」


 そして、優しい声で告げた。


「もし、レオンちゃんに何かしたら……」


 母の周囲に、淡い銀色の魔力が漂い始める。


「……お母様、ちょっと怒っちゃうかもしれないわね」


 ……ちょっと?


 いや。


 絶対、ちょっとじゃ済まないだろ。


 父も、静かにワイングラスを置いた。


「……レオンハルト」


「はい」


「何かあれば、必ず私に言え」


 その瞳には、揺るぎない決意が宿っていた。


「ヴァルディス公爵家は、お前の味方だ」


 俺は、ゆっくりと頷いた。


「……ありがとうございます」


 その瞬間。


 胸の奥に、温かなものが広がった。


 俺は一人じゃない。


 エレノアがいる。


 セバスティアンがいる。


 ガルディオがいる。


 そして、父と母がいる。


 ……だったら。


 原作の運命なんて、怖くない。


 俺は静かに笑った。


「……大丈夫ですよ、父上」


 そして、心の中で呟く。


 ――今度こそ、誰も失わない。


 ◇◆◇


 同じ頃。


 王都の大聖堂。


 エリシア・フィオーレは、一人で書庫にいた。


 目の前には、古い帳簿が開かれている。


 レオンハルトの言葉。


『神を信じることと、教会の言うことを全部聞くことは、同じなのか?』


 その問いが、頭から離れなかった。


 だから、確かめようと思った。


 教会の献金記録。


 孤児院への支援金。


 治癒魔法の施術記録。


 そして、貧しい人々から徴収された寄付金。


 ……何か、おかしい。


 エリシアは、ゆっくりと眉をひそめた。


 孤児院へ送られるはずだった支援金。


 その一部が、別の名目で処理されている。


 しかも、金額が大きい。


「……どうして……?」


 少女は、小さく呟いた。


 そのとき。


 背後から、低い声が響いた。


「……何をしているのですかな、エリシア様」


 振り返る。


 そこには、マルクス司祭が立っていた。


 穏やかな笑み。


 だが、その瞳は笑っていなかった。


「……マルクス司祭様」


 エリシアは、ゆっくりと立ち上がった。


「少し、確認したいことがありまして……」


「……確認?」


 マルクスは、静かに帳簿へ視線を落とした。


 そして。


 その表情から、笑みが消えた。


「……なるほど」


 低い声。


「……レオンハルト・ヴァルディスに、何か吹き込まれましたか?」


「……いえ、その……」


 エリシアは言葉に詰まった。


 マルクスは、ゆっくりと近づいてくる。


「……エリシア様」


 その声は、驚くほど優しかった。


「あなたは、教会の大切な聖女なのです」


 そして、静かに続ける。


「……余計なことを、知る必要はありません」


 エリシアの背筋に、冷たいものが走った。


 初めてだった。


 自分を育ててくれた教会の人間を、怖いと思ったのは。


 その瞬間。


 彼女は、ようやく気づき始めた。


 自分が信じてきた世界には、何か大きな嘘が隠されているのではないかと。


 そして。


 その嘘を暴こうとしているのが、あの黒き暴君なのではないかと。


 ――聖女エリシアの運命もまた、静かに動き始めていた。

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