第6話 最強公爵夫妻の溺愛と、聖女の誤解
王国暦八百二十一年、春月十六日。
王都にあるヴァルディス公爵家の別邸。
朝食を終えた俺は、執務室で一通の手紙を眺めていた。
「……何だ、これ」
手紙の差出人は、父アルフォンス・ヴァルディス。
王国最強の軍事貴族であり、ヴァルディス公爵家の現当主。
国王でさえ軽々しく命令できないほどの権力を持つ男だ。
その父から届いた手紙には、こう書かれていた。
『愛する我が息子、レオンハルトへ。
王女殿下を救ったと聞いた。実に見事だ。お前は私の誇りである。
しかし、八十人もの武装集団と戦ったというではないか。
怪我はないか? 食事はきちんと取っているか? 夜は眠れているか?
お前が強いことは誰よりも理解しているが、父としては心配でならん。
必要ならば、我が精鋭騎士団三千を王都へ派遣する。
遠慮するな。
追伸。母上がお前の無事を確かめるまで帰らないと言い出した。私も同意見だ。
父、アルフォンス』
「…………」
俺は無言で手紙を置いた。
そして、隣に控えるエレノアへ視線を向ける。
「……父上って、こんな人だったっけ?」
「はい。昔から変わっておられませんよ」
エレノアは当然のように答えた。
「レオンハルト様が十歳の頃、剣術訓練で手のひらに小さな傷を負われた際も、騎士団の訓練を三日間中止なさいました」
「……何で?」
「危険な訓練内容を見直すためでございます」
「……たかが手のひらの傷で?」
「はい」
……親バカにもほどがあるだろ。
いや、レオンハルトの記憶には確かに残っている。
父アルフォンス。
普段は冷静沈着で、貴族たちから恐れられる男。
戦場では一度も敗北したことがなく、敵国からは《黒獅子》と呼ばれている。
だが、息子のことになると判断力が少々おかしくなる。
……少々どころじゃない気もするが。
「それと、奥様からもお手紙が届いております」
エレノアが、もう一通の封筒を差し出した。
淡い桃色の封筒。
花の香りがする。
嫌な予感がした。
俺は慎重に封を切る。
『世界で一番可愛いレオンちゃんへ。
お母様です♡
王女様を助けたんですってね!
とっても偉いわ! さすが私とあなたのお父様の息子ね!
でも、お母様は心配で心配で、昨夜は三時間しか眠れませんでした。
レオンちゃんが怪我をしていないか、ちゃんとご飯を食べているか、寒い思いをしていないか……。
考えるだけで胸が苦しくなってしまいます。
だから、決めました。
お母様、王都へ行きます!
今すぐ抱きしめて、頭を撫でて、無事を確認しないと安心できません。
逃げちゃ駄目よ?
愛する母、エレオノーラより♡』
「…………」
俺は手紙を閉じた。
深く息を吸う。
そして、天井を見上げた。
「……逃げられないのか?」
「難しいかと」
エレノアが真顔で答える。
「奥様は空間転移魔法をお使いになれますので」
「……そうだったな」
母エレオノーラ・ヴァルディス。
元王国宮廷魔導師団の天才魔法使い。
七属性のうち六属性を極め、空間魔法まで操る規格外の人物。
王国では《銀月の魔女》と呼ばれている。
そんな母が、息子を抱きしめるためだけに空間転移を使う。
……何という無駄遣い。
いや。
母にとっては、これ以上ない重要な用途なのだろう。
「……まあ、元気そうで何よりだ」
俺は苦笑した。
父も母も、昔から俺を大切にしてくれている。
レオンハルトの記憶を辿れば、それは痛いほどわかる。
ヴィオレッタに裏切られたときも、両親は俺の味方だった。
父はローゼンベルク侯爵家との取引を全面的に見直そうとした。
母に至っては、直接侯爵家へ乗り込もうとしていた。
それを止めたのは、ほかでもないレオンハルト自身だ。
『父上、母上。俺のことで、家同士の争いを起こさないでください』
そう言って。
すべてを飲み込んだ。
……馬鹿だな、昔の俺。
もっと甘えてもよかっただろうに。
俺は手紙を丁寧に畳んだ。
「……帰ってきたら、ちゃんと話そう」
「はい」
エレノアが嬉しそうに微笑む。
「きっと、お二人ともお喜びになります」
その笑顔を見ながら、俺はふと思い出した。
原作ゲーム。
レオンハルトが討伐された、あの日。
父と母は、王国の外交任務で国外にいた。
王国軍六万。
教会の精鋭。
貴族連合。
古代兵器。
それらすべてが投入されたにもかかわらず、レオンハルトを倒すまでに三日間を要した。
……そうか。
今ならわかる。
なぜ、あの戦いに父と母がいなかったのか。
偶然ではない。
あの二人がいれば、そもそも討伐作戦など成立しない。
だから、敵は両親の不在を狙った。
……ふざけた話だ。
俺は、静かに拳を握った。
原作の結末は、絶対に繰り返さない。
俺も、エレノアも。
父も、母も。
誰一人、あんな結末にはさせない。
◇◆◇
午前十時。
俺とエレノアは、王都中央にある大聖堂へ向かっていた。
目的は、マルクス・エルディン司祭。
アルベルト・レイフォードの支援者であり、王女襲撃事件に関与している疑いがある人物だ。
「……立派な建物だな」
大聖堂を見上げ、思わず呟く。
白い大理石で造られた巨大な建物。
天へ伸びる尖塔。
色鮮やかなステンドグラス。
正面には、女神を象った巨大な彫像が立っている。
ルミナス王国において、教会の権力は非常に大きい。
国民の多くが女神教を信仰し、教会は医療や教育にも深く関わっている。
その一方で、政治への影響力も強い。
特に、勇者と聖女の存在は、教会にとって重要な権威の象徴だ。
「レオンハルト様」
エレノアが小さな声で告げる。
「周囲に、こちらを監視している者がいます」
「ああ。気づいてる」
大聖堂の入口。
左右の回廊。
そして、向かいの建物の二階。
少なくとも五人。
全員が、こちらの動きを警戒している。
「……歓迎されてないみたいだな」
「当然かと」
エレノアは涼しい顔で答えた。
「レオンハルト様は、教会の方々からあまり好かれておりませんので」
「……知ってる」
原作のレオンハルトは、教会と非常に仲が悪かった。
理由は単純。
教会が貴族や民衆に対して行っていた不当な寄付金の徴収を、何度も批判していたからだ。
さらに、ヴァルディス領では教会による強制的な献金を禁止している。
そのため、教会上層部からは危険人物として扱われていた。
……まあ、嫌われる理由はわかるな。
だが、俺としては別に困らない。
教会が嫌おうが、王国が嫌おうが。
間違っているものは、間違っている。
「……行くか」
「はい」
俺たちは、大聖堂の門をくぐった。
◇◆◇
大聖堂の奥。
祈祷室では、一人の少女が祈りを捧げていた。
長く美しい金髪。
透き通るような碧い瞳。
白を基調とした聖女の衣装。
その姿は、まるで女神の使いのようだった。
エリシア・フィオーレ。
教会が誇る若き聖女。
そして、原作ゲームにおける主要ヒロインの一人。
「……女神様」
少女は静かに祈る。
「どうか、今日も苦しむ人々に救いがありますように」
彼女の祈りは、心からのものだった。
エリシアは幼い頃、貧しい孤児院で育った。
食べ物も十分になく、病気になっても医者に診てもらえない。
そんな生活の中で、教会に救われた。
そして、自分も誰かを救える人間になりたいと願った。
その結果、彼女は希少な聖属性魔法の才能を開花させた。
十五歳にして聖女の称号を与えられたのも、そのためだった。
だが、彼女には一つ大きな問題があった。
教会の教えを、疑うことを知らなかったのだ。
「エリシア様」
祈祷室の扉が開き、一人の司祭が入ってきた。
マルクス・エルディン。
四十代半ばの痩せた男。
穏やかな笑みを浮かべているが、その瞳にはどこか冷たい光が宿っていた。
「……マルクス司祭様」
エリシアは立ち上がり、丁寧に頭を下げた。
「どうかなさいましたか?」
「少々、厄介な客人が来ておりましてね」
「……厄介な客人?」
「ヴァルディス公爵家のレオンハルトです」
その名前を聞いた瞬間。
エリシアの表情が曇った。
「……あの、黒き暴君ですか?」
「ええ」
マルクスは重々しく頷いた。
「教会の活動を妨害し、神の教えを軽んじる危険な少年です」
「……そうなのですね」
エリシアは胸元に手を当てた。
彼女も、レオンハルトの噂は何度も聞いていた。
傲慢。
冷酷。
弱者を見下す貴族。
そして、神を恐れぬ暴君。
そんな人物が、なぜ大聖堂へ来たのだろう。
「エリシア様」
マルクスが静かに告げる。
「決して、あの少年の言葉を信用してはいけません」
「……はい」
「彼は非常に狡猾です。善人を装い、人の心へ入り込むこともあるでしょう」
エリシアは真剣な表情で頷いた。
「承知いたしました」
マルクスは満足そうに微笑む。
「では、私は客人の対応をしてまいります」
そう言って、祈祷室を後にした。
残されたエリシアは、静かに目を伏せた。
「……レオンハルト・ヴァルディス」
その名を、そっと呟く。
彼女はまだ知らない。
自分が信じている教会の中に、どれほど深い闇が潜んでいるのかを。
そして、その闇へ最初に手を伸ばす人物こそ、彼女が恐れている少年であることを。
◇◆◇
「……これはこれは」
大聖堂の応接室。
俺たちを出迎えたマルクス司祭は、満面の笑みを浮かべていた。
「ヴァルディス公爵家のご令息が、わざわざお越しくださるとは」
「突然の訪問で悪いな」
「とんでもございません。教会は、すべての人々に開かれた場所ですから」
……よく言う。
俺は内心で苦笑した。
この男が、王女襲撃事件に関与している可能性は高い。
だが、現時点では証拠が足りない。
だからこそ、慎重に動く必要がある。
「……実は、少し聞きたいことがあってな」
「ほう?」
「最近、王都周辺で盗賊団が活動しているのは知っているか?」
マルクスの表情が、ほんの一瞬だけ固まった。
……おっと。
わかりやすいな。
「……盗賊団、でございますか?」
「ああ」
俺は椅子へ腰を下ろした。
「昨日、王女殿下の馬車が襲われた」
「……それは、何とも恐ろしい事件ですな」
「幸い、全員捕らえたけどな」
その瞬間。
マルクスの指先が、わずかに動いた。
「……全員、ですか?」
「ああ。八十人近くいたが、一人も逃がしていない」
俺はにっこりと笑った。
「もちろん、全員生きている」
「…………」
マルクスの笑顔が、少しだけ引きつった。
……なるほど。
やっぱり、この男は何か知っている。
「それでな」
俺は続けた。
「盗賊団の持ち物から、教会関係者が使う印章が見つかった」
「……ほう」
「何か心当たりはないか?」
マルクスは、ゆっくりと首を振った。
「残念ながら、存じ上げません」
「……そうか」
「教会の印章は、多くの聖職者が使用しております。盗難や偽造の可能性もございますな」
……まあ、そう答えるよな。
俺は小さく頷いた。
「なるほど。確かに、その可能性もある」
マルクスの表情が、わずかに緩む。
だが、俺は続けた。
「だから、正式に調査する必要があると思ってな」
「……調査?」
「ああ」
俺は懐から、一枚の書類を取り出した。
王女襲撃事件の捜査協力要請書。
王国宰相府の印章が押されている。
「王宮には、すでに報告してある」
マルクスの顔色が変わった。
「……これは」
「教会の資金管理記録と、印章の使用履歴を確認したい」
俺は静かに告げた。
「もちろん、正式な手続きに従ってな」
マルクスは、しばらく黙っていた。
そして、作り笑いを浮かべる。
「……承知いたしました。ただし、教会内部の記録には機密事項もございますので……」
「わかってる。必要な範囲だけでいい」
俺は立ち上がった。
「協力してくれるなら、助かる」
「……もちろんですとも」
マルクスは深々と頭を下げた。
だが、その表情からは、先ほどまでの余裕が消えていた。
◇◆◇
応接室を出た後。
俺はエレノアと共に、大聖堂の回廊を歩いていた。
「……レオンハルト様」
「ん?」
「先ほどの司祭、かなり動揺しておりましたね」
「ああ」
俺は小さく笑った。
「だが、あれだけじゃ証拠にならない」
「……では、どうなさいますか?」
「焦る必要はないさ」
俺は窓の外へ視線を向けた。
「向こうが動けば、必ず何か残る」
マルクスは、今頃必死に考えているだろう。
証拠を隠すか。
関係者を逃がすか。
あるいは、俺を排除するか。
……どれでも構わない。
動いてくれれば、それだけ追いやすくなる。
そのときだった。
「……あの!」
背後から、少女の声が響いた。
振り返る。
そこには、金髪の美しい少女が立っていた。
白い聖女の衣装。
澄んだ碧い瞳。
そして、少し緊張した表情。
……来たか。
俺は心の中で呟いた。
エリシア・フィオーレ。
原作ゲームの主要ヒロイン。
聖女と呼ばれる少女。
「……あなたが、レオンハルト・ヴァルディス様ですか?」
「ああ。そうだけど」
エリシアは、真っ直ぐに俺を見つめた。
「……一つ、お聞きしたいことがあります」
「何だ?」
彼女は少しだけ迷った後、口を開いた。
「……あなたは、本当に神を信じていないのですか?」
……は?
俺は思わず目を丸くした。
何だ、その質問。
だが、エリシアの表情は真剣だった。
どうやら、冗談ではないらしい。
「……どうして、そう思う?」
「教会の方々から、あなたは神を軽んじ、教会の活動を妨害していると聞きました」
……なるほど。
完全に吹き込まれてるな。
俺は小さく息を吐いた。
「……エリシア、だったか?」
「……はい」
「一つ聞いていいか?」
「……何でしょう?」
「神を信じることと、教会の言うことを全部聞くことは、同じなのか?」
「……え?」
エリシアが目を見開いた。
俺は静かに続ける。
「神が本当に人々の幸せを願っているなら、貧しい人間から無理やり金を取り上げることを喜ぶと思うか?」
「……それは……」
「病気の子供がいて、薬を買う金もない家族がいる」
俺は彼女を見つめた。
「その家族に、献金しなければ神の加護を失うと言うのは、正しいことなのか?」
エリシアの表情が、わずかに揺れた。
「……そんなこと、教会がするはず……」
「本当に?」
「…………」
少女は答えられなかった。
俺は、少しだけ声を和らげた。
「……別に、信仰を否定してるわけじゃない」
そして、静かに続ける。
「ただ、神の名を使って人を苦しめる奴が嫌いなだけだ」
その言葉に、エリシアは息を呑んだ。
彼女の瞳が、わずかに揺れる。
「……あなたは」
小さな声だった。
「……本当に、噂通りの方なのですか?」
俺は肩をすくめた。
「さあな。自分で確かめればいいんじゃないか?」
エリシアは、しばらく俺を見つめていた。
そして、ゆっくりと頭を下げた。
「……失礼いたしました」
「気にするな」
俺は軽く手を振った。
そのまま立ち去ろうとしたとき。
背後から、再び声が聞こえた。
「……レオンハルト様!」
振り返る。
エリシアは、真剣な表情でこちらを見つめていた。
「……もし、あなたのおっしゃることが本当なら」
少女は、胸元に手を当てた。
「私は、自分の目で確かめたいと思います」
俺は、少しだけ笑った。
「……それがいい」
そして、歩き出した。
◇◆◇
その日の午後。
大聖堂の地下。
マルクス・エルディンは、暗い部屋の中で一人の男と向かい合っていた。
「……どういうことだ」
マルクスの声は、怒りで震えていた。
「なぜ、レオンハルトがここまで動いている!?」
向かいの男は、黒い外套をまとっている。
顔は、深いフードに隠されていた。
「……想定外です」
「想定外で済むか!」
マルクスは机を叩いた。
「王宮が正式に調査を始めれば、資金の流れが露見する!」
「……ご安心を。すでに記録の一部は処分しております」
「馬鹿者!」
マルクスは怒鳴った。
「記録を処分した事実そのものが、疑惑を深めるのだ!」
黒衣の男は黙り込んだ。
マルクスは荒い息を吐く。
そして、低い声で告げた。
「……レオンハルトを止めろ」
「……暗殺、でございますか?」
「手段は問わん」
その瞳には、冷たい光が宿っていた。
「ただし、ヴァルディス公爵夫妻には気づかれるな」
黒衣の男が、わずかに身を震わせる。
「……あのお二人を敵に回すのは、危険です」
「わかっている!」
マルクスは苛立たしげに叫んだ。
「だからこそ、事故に見せかけるのだ!」
そして、静かに続けた。
「レオンハルトさえ消えれば、すべて元通りになる」
その言葉を最後に、部屋は静寂に包まれた。
だが、彼らはまだ理解していなかった。
レオンハルト・ヴァルディスという少年が、どれほど危険な存在なのかを。
そして。
その少年を愛する両親が、どれほど恐ろしい存在なのかを。
◇◆◇
夕方。
王都別邸へ戻った俺は、執務室で報告書を整理していた。
「……さて」
マルクス司祭。
アルベルト。
教会の資金。
盗賊団への依頼。
少しずつ、線が繋がり始めている。
だが、まだ決定的な証拠はない。
……まあ、焦る必要はないか。
俺は椅子へ深く腰を下ろした。
そのとき。
コンコン。
「レオンハルト様」
エレノアの声が聞こえた。
「どうした?」
「……その」
珍しく、彼女の声が少し困っている。
「……お客様がいらっしゃいました」
「客?」
「はい」
俺は首を傾げた。
「誰だ?」
エレノアは、少しだけ間を置いた。
そして、静かに答えた。
「……旦那様と、奥様でございます」
「…………は?」
次の瞬間。
廊下から、聞き覚えのある声が響いた。
「レオンちゃぁぁぁん!!」
……あ。
これ、逃げられないやつだ。
バタンッ!
勢いよく扉が開く。
そこに立っていたのは、銀髪の美しい女性。
エレオノーラ・ヴァルディス。
俺の母親だった。
「レオンちゃん!!」
「……母上!?」
次の瞬間。
俺の身体は、母の腕の中に収まっていた。
「よかったぁぁぁ! 無事だったのねぇぇぇ!」
「ちょ、母上! 苦しいって!」
「だって! だって! 八十人もの悪者と戦ったって聞いたんですもの!」
母は涙目で俺を抱きしめる。
……いや。
俺、世界最強クラスなんだけど。
そんなことは、母には関係ないらしい。
「……エレオノーラ」
背後から、低い声が響いた。
見ると、黒髪の大柄な男が立っていた。
アルフォンス・ヴァルディス。
俺の父親だ。
普段は冷徹な公爵として恐れられる男。
その父が、今は珍しく困ったような顔をしている。
「……少し落ち着け。レオンハルトが苦しそうだ」
「あなたは黙っていて!」
「……うむ」
……父上、弱っ。
思わず笑いそうになる。
だが、次の瞬間。
父が俺へ近づいてきた。
そして、大きな手を俺の頭へ置く。
「……よくやったな、レオンハルト」
低く、穏やかな声。
「王女殿下を救い、民を守った。誇らしいぞ」
「……父上」
「だが」
父の目が、わずかに鋭くなる。
「次からは、もう少し父を頼れ」
俺は、少しだけ驚いた。
「……俺なら、大丈夫ですよ」
「知っている」
父は静かに頷いた。
「お前が強いことなど、誰よりも理解している」
そして、少しだけ笑った。
「だがな。息子を心配するのは、父親の特権だ」
……ああ。
何だよ、それ。
ずるいだろ。
俺は、思わず目を伏せた。
レオンハルトの記憶。
その奥にある、温かな感情。
幼い頃、父に剣を教わったこと。
母に魔法を教わったこと。
三人で食卓を囲んだこと。
そして、婚約破棄の後も、変わらず自分を愛してくれたこと。
……そうだ。
俺には、こんなにも大切な家族がいる。
「……ありがとうございます、父上」
俺は静かに答えた。
「母上も。心配かけて、ごめんなさい」
その瞬間。
母の目から、涙が溢れた。
「……レオンちゃん……!」
そして、さらに強く抱きしめられた。
「ぐえっ!?」
……待て待て待て!
世界最強の俺が、母親の抱擁で窒息しかけてるんだが!?
父は、その様子を見ながら静かに微笑んでいた。
エレノアも、嬉しそうに目を細めている。
……まったく。
敵には無敵でも、家族には勝てないらしい。
だが。
悪くない。
こういうのも。
◇◆◇
その夜。
ヴァルディス公爵家の王都別邸。
久しぶりに、家族三人で夕食を囲んだ。
父は王都の政治情勢について話し、母は俺の食事量を気にしていた。
エレノアも、いつもより柔らかな表情で給仕をしている。
穏やかな時間。
温かな食卓。
何気ない会話。
そのすべてが、俺には妙に眩しく感じられた。
……守りたいな。
心から、そう思った。
原作では、こんな時間は二度と訪れなかった。
父と母は、息子の死を知らないまま遠い異国にいた。
そして、帰還したときには、すべてが終わっていた。
……絶対に、そんな未来にはさせない。
俺は、静かに決意を固めた。
そのとき。
「……レオンハルト」
父が、ふと真剣な表情になった。
「一つ、聞きたいことがある」
「……何でしょう?」
「今回の王女襲撃事件」
父は、ゆっくりとワイングラスを置いた。
「……お前は、誰が黒幕だと思っている?」
俺は、少しだけ目を細めた。
……さすがだな。
父は、すでに何かを察しているらしい。
「……まだ、証拠はありません」
「構わん」
父は静かに答えた。
「お前の考えを聞きたい」
俺は、しばらく考えた。
そして、ゆっくりと口を開く。
「……教会です」
その瞬間。
父の目が、鋭く光った。
「……ほう」
「正確には、教会内部の一部勢力。そして、その背後にいる人物」
「……誰だ?」
俺は、静かに答えた。
「……アルベルト・レイフォード」
父は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……なるほど」
母も、先ほどまでの柔らかな表情を消していた。
「……レオンちゃん」
「はい?」
「その人たち、あなたに危害を加えようとしているの?」
……おっと。
これは、まずい質問だ。
俺は少しだけ考えた。
「……まだ、わかりません」
母は、静かに微笑んだ。
だが。
その笑顔は、先ほどまでとはまるで違っていた。
「……そう」
そして、優しい声で告げた。
「もし、レオンちゃんに何かしたら……」
母の周囲に、淡い銀色の魔力が漂い始める。
「……お母様、ちょっと怒っちゃうかもしれないわね」
……ちょっと?
いや。
絶対、ちょっとじゃ済まないだろ。
父も、静かにワイングラスを置いた。
「……レオンハルト」
「はい」
「何かあれば、必ず私に言え」
その瞳には、揺るぎない決意が宿っていた。
「ヴァルディス公爵家は、お前の味方だ」
俺は、ゆっくりと頷いた。
「……ありがとうございます」
その瞬間。
胸の奥に、温かなものが広がった。
俺は一人じゃない。
エレノアがいる。
セバスティアンがいる。
ガルディオがいる。
そして、父と母がいる。
……だったら。
原作の運命なんて、怖くない。
俺は静かに笑った。
「……大丈夫ですよ、父上」
そして、心の中で呟く。
――今度こそ、誰も失わない。
◇◆◇
同じ頃。
王都の大聖堂。
エリシア・フィオーレは、一人で書庫にいた。
目の前には、古い帳簿が開かれている。
レオンハルトの言葉。
『神を信じることと、教会の言うことを全部聞くことは、同じなのか?』
その問いが、頭から離れなかった。
だから、確かめようと思った。
教会の献金記録。
孤児院への支援金。
治癒魔法の施術記録。
そして、貧しい人々から徴収された寄付金。
……何か、おかしい。
エリシアは、ゆっくりと眉をひそめた。
孤児院へ送られるはずだった支援金。
その一部が、別の名目で処理されている。
しかも、金額が大きい。
「……どうして……?」
少女は、小さく呟いた。
そのとき。
背後から、低い声が響いた。
「……何をしているのですかな、エリシア様」
振り返る。
そこには、マルクス司祭が立っていた。
穏やかな笑み。
だが、その瞳は笑っていなかった。
「……マルクス司祭様」
エリシアは、ゆっくりと立ち上がった。
「少し、確認したいことがありまして……」
「……確認?」
マルクスは、静かに帳簿へ視線を落とした。
そして。
その表情から、笑みが消えた。
「……なるほど」
低い声。
「……レオンハルト・ヴァルディスに、何か吹き込まれましたか?」
「……いえ、その……」
エリシアは言葉に詰まった。
マルクスは、ゆっくりと近づいてくる。
「……エリシア様」
その声は、驚くほど優しかった。
「あなたは、教会の大切な聖女なのです」
そして、静かに続ける。
「……余計なことを、知る必要はありません」
エリシアの背筋に、冷たいものが走った。
初めてだった。
自分を育ててくれた教会の人間を、怖いと思ったのは。
その瞬間。
彼女は、ようやく気づき始めた。
自分が信じてきた世界には、何か大きな嘘が隠されているのではないかと。
そして。
その嘘を暴こうとしているのが、あの黒き暴君なのではないかと。
――聖女エリシアの運命もまた、静かに動き始めていた。




