第42話【IF編・後編①】黒獅子の咆哮――六万の軍勢を動かした者たち
第42話【IF編・後編①】黒獅子の咆哮――六万の軍勢を動かした者たち
王国暦八百二十三年、秋月二十三日。
午前六時。
ヴァルディス公爵家、王都別邸。
夜明けの光が、崩れた屋敷の窓から差し込んでいた。
大広間の中央には、一つの棺が置かれている。
その傍らで、銀髪の女性が静かに座っていた。
エレオノーラ・ヴァルディス。
銀月の魔女。
王国最強の魔導師の一人と呼ばれる女性だった。
だが。
今の彼女に、かつての優雅な微笑みはなかった。
ただ。
息子の冷たい手を、両手で包み込んでいた。
「……レオンちゃん」
小さな声が、静かな広間へ響く。
「……お母様ね、昨日からずっと考えていたの」
返事はない。
エレオノーラは、静かに微笑んだ。
「……何か、間違いだったんじゃないかって」
そして。
「……朝になったら、いつものように起きてくれるんじゃないかって」
彼女の瞳から、涙が零れた。
「……でも」
声が、震える。
「……やっぱり、起きてくれないのね……」
彼女は、息子の手を額へ押し当てた。
そして。
声を殺して泣いた。
◇◆◇
同じ頃。
屋敷の執務室。
アルフォンス・ヴァルディスは、机の上に並べられた書類を見つめていた。
王国軍の出動記録。
聖教会の討伐命令。
各貴族家の兵力動員表。
そして。
王国評議会の決議書。
そのすべてが、一つの事実を示していた。
――レオンハルト・ヴァルディス討伐。
アルフォンスは、静かに書類を握りしめた。
「……六万」
低い声が、響いた。
「……たった一人の少年に、六万の兵を向けたのか」
机の向こうには、セバスティアンが立っていた。
老執事の顔には、深い疲労が刻まれている。
「……はい、旦那様」
アルフォンスは、静かに尋ねた。
「……レオンは、何をした?」
セバスティアンは、首を横へ振った。
「……何も」
その声が、震えた。
「……坊ちゃまは、何もしておりません」
アルフォンスの瞳が、鋭く光った。
「……詳しく話せ」
◇◆◇
セバスティアンは、ゆっくりと語り始めた。
王太子派の貴族たちが、レオンハルトを危険視し始めたこと。
聖教会が、彼の力を『神に背く異端』と認定したこと。
そして。
王国評議会が、本人への正式な弁明の機会も与えず、討伐命令を決議したこと。
「……陛下は?」
アルフォンスが、静かに尋ねた。
セバスティアンは、俯いた。
「……国王陛下は、当初反対されていたと聞いております」
そして。
「……ですが、王太子派と聖教会の圧力によって、最終的に討伐命令が発令されました」
アルフォンスは、しばらく黙っていた。
そして。
「……そうか」
ただ、それだけを呟いた。
だが。
その瞬間。
机の上に置かれていた銀の燭台が、音もなく潰れた。
黒い闘気が、部屋の空気を圧迫する。
セバスティアンは、思わず息を呑んだ。
……旦那様。
……ここまでの怒りは、初めて見る。
◇◆◇
「……レオンは、最後まで戦ったのか?」
アルフォンスが、静かに尋ねた。
「……はい」
セバスティアンは、涙を堪えながら答えた。
「……三日間」
そして。
「……一度も、屋敷を離れませんでした」
アルフォンスは、目を閉じた。
……三日間。
……たった一人で。
……六万の軍勢を相手に。
その光景を想像した瞬間。
胸の奥が、引き裂かれるように痛んだ。
「……逃げろとは、言わなかったのか?」
セバスティアンは、静かに頷いた。
「……何度も申し上げました」
そして。
「……ですが、坊ちゃまは」
老執事の声が、震えた。
「……『皆が逃げ切るまで、俺が止める』と」
アルフォンスは、ゆっくりと拳を握った。
……レオン。
……お前は。
……本当に、優しい子だったな。
◇◆◇
午前九時。
ヴァルディス公爵家の屋敷へ、一人の男が訪れた。
王国軍務大臣、グラディウス・ヴァレンシュタイン侯爵。
アルフォンスの旧友。
そして、アリシアとロデリックの父親だった。
「……アルフォンス」
グラディウスは、深々と頭を下げた。
「……すまない」
アルフォンスは、静かに彼を見つめた。
「……何を謝る?」
グラディウスは、顔を上げられなかった。
「……軍務大臣でありながら、討伐命令を止められなかった」
その声には、深い後悔が滲んでいた。
「……私は、反対した」
そして。
「……だが、王太子派と聖教会が主導する評議会で、決議を覆せなかった」
アルフォンスは、静かに尋ねた。
「……お前の軍は、参加したのか?」
グラディウスは、首を横へ振った。
「……私の直属部隊は、出動を拒否した」
そして。
「……そのため、私は現在、軍務大臣の職務を停止されている」
アルフォンスは、しばらく黙っていた。
そして。
「……そうか」
グラディウスは、震える声で続けた。
「……レオンハルトは、最後まで兵士を殺さなかったと聞いている」
アルフォンスの瞳が、わずかに揺れた。
「……ああ」
グラディウスは、静かに頭を下げた。
「……あの子は、王国の敵などではなかった」
その瞬間。
アルフォンスの拳が、強く握られた。
◇◆◇
午前十一時。
アルフォンスは、屋敷の大広間へ向かった。
そこには、エレオノーラがいた。
息子の棺の傍らで、静かに座っている。
「……エレオノーラ」
彼女は、ゆっくりと顔を上げた。
「……あなた」
その声は、驚くほど穏やかだった。
「……わかったの?」
アルフォンスは、静かに頷いた。
「……ああ」
そして。
「……王国評議会と聖教会が、レオンの討伐を命じた」
エレオノーラは、しばらく黙っていた。
そして。
「……そう」
ただ、それだけを呟いた。
だが。
次の瞬間。
彼女の周囲に、銀色の魔力が浮かび上がった。
床に、細かな亀裂が走る。
「……ねえ、あなた」
その声は、静かだった。
「……レオンちゃんは、誰かを殺したの?」
アルフォンスは、首を横へ振った。
「……いや」
「……王国を裏切ったの?」
「……いや」
「……誰かを傷つけようとしたの?」
「……いや」
エレオノーラは、静かに微笑んだ。
だが。
その瞳から、光が消えていた。
「……それなのに」
そして。
「……どうして、あの子が死ななきゃいけなかったの?」
アルフォンスは、答えられなかった。
◇◆◇
午後一時。
王都の空に、異変が起きた。
ヴァルディス公爵家の屋敷を中心に、巨大な銀色の魔法陣が浮かび上がったのだ。
その直径は、王都の一区画を覆うほど。
王宮の魔導師たちは、驚愕した。
「……何だ、あの術式は!?」
「……銀月の魔女だ……!」
そして。
王城へ、一通の書簡が届けられた。
差出人。
アルフォンス・ヴァルディス。
エレオノーラ・ヴァルディス。
内容は、極めて簡潔だった。
『レオンハルト・ヴァルディス討伐に関与した者は、すべて王城へ集まれ』
『国王、王太子、評議会議員、聖教会幹部』
『我々は、真実を聞きに行く』
そして。
最後に、一文。
『逃亡は、認めない』
◇◆◇
王城、国王執務室。
国王アレクシスは、書簡を読んでいた。
その顔は、青ざめている。
「……アルフォンス……」
かつて、共に戦場を駆けた友。
王国最強の将軍。
黒獅子。
そして。
最愛の息子を失った父親。
国王は、静かに目を閉じた。
「……すまない」
だが。
その謝罪は、もう届かない。
◇◆◇
その夜。
ヴァルディス公爵家。
アルフォンスとエレオノーラは、息子の棺の前に立っていた。
エレオノーラが、静かに微笑んだ。
「……レオンちゃん」
そして。
「……お父様とお母様、少し出かけてくるわね」
アルフォンスは、静かに剣を腰へ差した。
黒い外套が、ゆっくりと揺れる。
「……レオン」
その声には、深い悲しみが宿っていた。
「……父は、必ず真実を明らかにする」
そして。
「……お前の名誉を、取り戻す」
エレオノーラは、息子の頬へ最後に触れた。
「……待っていてね」
その瞳に、銀色の光が宿った。
――黒獅子と銀月。
王国最強の夫婦が、ついに動き出した。
その怒りが、王国を震撼させることになるとは。
まだ、誰も理解していなかった。




