第30話 銀髪の王女と、初めてのお忍びデート
第30話 銀髪の王女と、初めてのお忍びデート
王国暦八百二十一年、夏月七日。
王都ルミナス、中央商業区。
休日の大通りは、朝から大勢の人々で賑わっていた。
焼きたてのパンの香り。
行商人たちの威勢のいい声。
石畳を走る馬車の車輪の音。
そんな賑やかな街角で、俺は一人の少女を待っていた。
……少し早く着きすぎたか。
約束の時間までは、まだ十五分ほどある。
俺は時計塔を見上げ、小さく息を吐いた。
今日は、セレスティアとの約束の日だ。
王女としてではなく、ただのセレスとして街を歩きたい。
彼女がそう望んだのだから、できる限り普通の休日にしてやりたい。
もっとも、王女の外出が完全に無警備で許されるはずもない。
国王陛下の許可を得たうえで、私服の近衛騎士が少し離れた場所から警護している。
こちらもセバスティアンの部下を数名、周辺に配置していた。
……普通のデートにしては、随分と物々しいな。
そんなことを考えていると。
「……レオン!」
聞き慣れた声がした。
振り返った瞬間、俺は思わず言葉を失った。
そこに立っていたのは、淡い水色のワンピースを着た銀髪の少女だった。
普段の豪華な王女服とは違い、装飾は控えめ。
髪も複雑に結い上げず、細い青いリボンでまとめている。
だが、むしろその姿の方が、彼女の美しさを際立たせていた。
「……どう、かな?」
セレスが、少し不安そうに尋ねてくる。
「……変じゃない?」
俺は首を振った。
「いや。よく似合ってる」
「……本当?」
「ああ。すごく綺麗だ」
その瞬間。
セレスの頬が、一気に赤く染まった。
「き、綺麗って……!」
「……まずかったか?」
「まずくない!」
即答だった。
そして彼女は、慌てて視線を逸らした。
「……そういうこと、普通に言わないでよ」
……難しいな。
俺は苦笑した。
◇◆◇
最初に向かったのは、中央市場だった。
セレスは、露店に並ぶ品々を興味深そうに眺めていた。
「ねえ、レオン。あれは何?」
「焼き菓子だな。蜂蜜を練り込んだ生地を鉄板で焼くらしい」
「美味しそう……」
「食べるか?」
「いいの?」
「もちろん」
俺は店主へ声をかけ、焼きたての菓子を二つ購入した。
セレスは、両手でそれを受け取る。
「……温かい」
そして、小さく一口かじった。
「……っ!」
彼女の瞳が、ぱっと輝いた。
「美味しい!」
「それはよかった」
「ねえ、レオンも食べて!」
「俺の分も買ってあるぞ」
「そうじゃなくて!」
セレスは、俺の前へ自分の菓子を差し出した。
「……こっちを、食べてみて」
……同じものじゃないのか?
そう思ったが、彼女が期待に満ちた目で見つめてくる。
俺は素直に一口食べた。
「……うん、美味いな」
セレスは、満足そうに微笑んだ。
「でしょう?」
そして。
自分が何をしたのか気づいたらしい。
顔を真っ赤にして、菓子を胸元へ引っ込めた。
「……い、今のは忘れて!」
「……何を?」
「もうっ!」
俺は、思わず笑ってしまった。
◇◆◇
昼前。
俺たちは、商業区の奥にある小さな雑貨店へ入った。
店内には、手作りの髪飾りや小物が並んでいる。
セレスは、一つの髪飾りの前で足を止めた。
銀色の細工に、小さな青い宝石が埋め込まれたものだった。
「……綺麗」
彼女が、そっと呟いた。
俺は店主へ尋ねた。
「これ、試着しても構いませんか?」
「もちろんですとも」
俺は髪飾りを受け取り、セレスへ差し出した。
「つけてみるか?」
「……うん」
セレスは、少し恥ずかしそうに頷いた。
俺は彼女の銀髪へ、そっと髪飾りを留めた。
指先に、柔らかな髪が触れる。
セレスが、ぴくりと肩を揺らした。
「……痛かったか?」
「ち、違うわ!」
彼女は、真っ赤な顔で首を振った。
「……近いから」
「ああ、悪い」
俺は一歩下がった。
そして、改めて彼女を見た。
「……似合うな」
セレスは、鏡を覗き込んだ。
その表情が、ゆっくりと柔らかくなる。
「……ありがとう」
俺は、その髪飾りを購入した。
「今日の記念だ」
「……え?」
「気に入ったんだろ?」
セレスは、しばらく髪飾りを見つめていた。
そして。
「……大切にする」
小さく、そう呟いた。
その声が妙に真剣だったので、俺は少しだけ驚いた。
◇◆◇
午後。
俺たちは、街の南側にある公園へ向かった。
大きな噴水を中心に、緑豊かな庭園が広がっている。
ベンチへ腰を下ろすと、セレスが静かに口を開いた。
「……ねえ、レオン」
「ん?」
「今日、すごく楽しい」
俺は微笑んだ。
「それならよかった」
「……王城にいると、みんな私を王女として扱うの」
彼女は、噴水を見つめた。
「もちろん、それが嫌なわけじゃないわ。私には責任があるもの」
そして、俺へ視線を戻した。
「でも、たまには普通の女の子でいたいって思うの」
俺は、静かに頷いた。
「……わかる気がする」
「本当?」
「ああ。俺も公爵家の人間だからな」
セレスは、小さく笑った。
「そうね。あなたも、普通の男の子とは言えないわ」
「……否定できないな」
二人で笑い合った。
だが、次の瞬間。
セレスは、少しだけ真剣な表情になった。
「……レオン」
「ん?」
「あなたが、どれだけ強くても」
彼女は、ゆっくりと俺の手を握った。
「……一人で全部を背負わないでね」
俺は、彼女を見つめた。
小さな手。
だが、その温もりは確かだった。
「……約束する」
俺は、静かに答えた。
セレスの表情が、柔らかくなる。
「……絶対よ?」
「ああ」
俺は、その手を握り返した。
◇◆◇
その頃。
王城、王太子執務室。
アドリアン・ルミナスは、机の上に置かれた報告書を睨んでいた。
「……セレスティアが、レオンハルトと街へ?」
側近が、静かに頷いた。
「はい。国王陛下の許可を得て外出されたようです」
アドリアンは、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「……あの男」
拳を握りしめる。
「父上だけでなく、セレスティアまで取り込むつもりか」
側近は、慎重に口を開いた。
「……殿下」
「何だ」
「レオンハルト・ヴァルディスは、王国の権力構造を変えようとしているのかもしれません」
アドリアンの瞳が、鋭く光った。
「……どういう意味だ?」
「公爵家の軍事力。そして、第一王女との親密な関係」
側近は、静かに続けた。
「……いずれ、王位継承へ干渉する可能性もございます」
アドリアンは、しばらく黙っていた。
そして。
「……調べろ」
低い声で命じた。
「レオンハルトの動きを、すべてだ」
側近は、深々と頭を下げた。
「承知いたしました」
その口元には、誰にも見えない薄い笑みが浮かんでいた。
◇◆◇
夕暮れ。
王城の門前。
俺は、セレスを送り届けていた。
「……今日は、ありがとう」
セレスが、静かに微笑んだ。
「こちらこそ、楽しかった」
「……本当?」
「ああ」
俺が頷くと、彼女は嬉しそうに笑った。
そして。
少しだけ迷った後、俺へ近づいた。
「……レオン」
「ん?」
次の瞬間。
彼女は、俺の頬へそっと唇を触れさせた。
「……っ!?」
俺は、思わず固まった。
セレスは、顔を真っ赤にしていた。
「……きょ、今日のお礼!」
そして。
「……また、誘ってね!」
そう言い残して、王城の中へ駆け込んでいった。
俺は、しばらくその場に立ち尽くした。
……まさか。
セレスが、あんなことを。
頬に残る柔らかな感触。
俺は、思わず苦笑した。
「……参ったな」
だが。
不思議と、嫌な気持ちはしなかった。
◇◆◇
その夜。
王都の地下。
黒衣の男は、一枚の報告書を読んでいた。
「……王太子が、動き始めたか」
男は、静かに笑った。
「……よろしい」
そして。
机の上に置かれた黒い封蝋へ、指を伸ばした。
「……次は、王宮の内部から崩してやろう」
――銀髪の王女との甘い一日。
その幸福な時間の裏で、新たな陰謀が静かに動き始めていた。




