第18話 紅蓮の騎士令嬢と、兄が隠した真実
第18話 紅蓮の騎士令嬢と、兄が隠した真実
王国暦八百二十一年、春月二十八日。
王立騎士学院の第一訓練場には、朝から乾いた剣戟の音が響いていた。
アリシア・ヴァレンシュタインは、木剣を握ったまま荒い息を吐いていた。
昨日起きた出来事が、どうしても頭から離れない。
レオンハルト・ヴァルディス。
兄を剣術試合で打ち負かし、その誇りを傷つけた少年。
そう信じて、ずっと憎んできた。
だが、実際に剣を交えた彼は、想像していた暴君とはまるで違っていた。
『お前は強い。でも、怒りだけで剣を振るうと動きが読まれやすくなる』
その言葉が、耳から離れない。
「……何よ。偉そうに」
アリシアは木剣を振り下ろした。
だが、剣先がわずかに流れる。
昨日なら気づかなかった小さな乱れだった。
「……また」
彼女は構え直す。
踏み込み、斬り上げ、切り返す。
それでも、最後の一撃だけが安定しない。
「ヴァレンシュタイン」
背後から教官の声がした。
「今日は珍しく、剣が荒れているな」
「……申し訳ありません」
「昨日の模擬試合が気になるか?」
アリシアは答えられなかった。
教官は訓練場の中央を見つめながら言った。
「レオンハルト殿は、お前の剣をよく見ていた。力任せに勝とうとしたのではない」
「……わかっています」
「なら、次はどうする?」
アリシアは木剣を握り直した。
「……勝ちます」
「そのためには?」
彼女は少し黙り、それから答えた。
「……昨日の自分より、強くなります」
教官は満足そうに頷いた。
◇◆◇
同じ頃。
ヴァルディス公爵家王都別邸では、俺が朝食を取っていた。
「レオンちゃん、昨日の女の子はどんな子だったの?」
母エレオノーラが、興味津々といった様子で尋ねてきた。
「……女の子?」
「ほら、騎士学院で勝負した子!」
「ああ。アリシア嬢ですか」
「そうそう! 可愛い子?」
……何を聞きたいんだ、この人は。
「剣術に真剣な、努力家だと思いますよ」
「まあ!」
母は目を輝かせた。
「ちゃんと見てあげてるのね!」
「……模擬試合をしたので」
「ふふっ。レオンちゃんって、女の子の良いところを見つけるのが上手ね」
俺が返事に困っていると、父アルフォンスが新聞を畳んだ。
「ヴァレンシュタイン家の娘か。あの家の剣術は、代々実戦を重んじる」
「父上は、お兄さんのこともご存じですか?」
「ああ。長男のローデリックだな」
父は少し考えてから続けた。
「お前との試合以来、表舞台には出ていないと聞く」
「……そうですか」
あの試合を思い出す。
二年前、王都で開かれた貴族子弟の剣術大会。
当時のローデリックは、優勝候補の一人だった。
技量は確かだったが、試合終盤に禁止された身体強化魔法を使った。
俺はそれを見抜き、剣を弾いて勝負を終わらせた。
だが、彼がどうして規則を破ったのかまでは知らない。
「父上。あの試合の記録は残っていますか?」
「当然だ。公式大会だからな」
「確認したいことがあります」
父は俺を見た。
「……アリシアのためか?」
「それもあります。でも、最近の事件と関係している可能性があるんです」
父の表情が引き締まった。
「セバスティアンに調べさせよう」
◇◆◇
昼前。
王都のヴァレンシュタイン侯爵邸。
「兄上!」
アリシアは、庭園の東屋で一人座っていた青年に声をかけた。
ローデリック・ヴァレンシュタイン。
二十歳。
かつては侯爵家の次期当主として期待され、剣術大会でも名を知られた青年だった。
だが今は、以前のように剣を握ろうとしない。
「……アリシアか」
兄は穏やかに微笑んだ。
「学院はどうした?」
「午前の訓練は終わったわ」
「そうか」
アリシアは、兄の向かいに座った。
しばらく沈黙が続く。
やがて、彼女は意を決して口を開いた。
「……昨日、レオンハルト・ヴァルディスと戦ったの」
ローデリックの表情が変わった。
「……何?」
「負けたわ」
アリシアは拳を握った。
「完敗だった。でも、あの人は私を侮辱しなかった」
兄は何も言わない。
「ねえ、兄上。二年前の試合で、本当に何があったの?」
ローデリックの手が止まった。
「……なぜ今さら」
「父上から聞いたの。兄上が禁止魔法を使ったって」
「…………」
「私はずっと、レオンハルトが卑怯なことをしたと思っていた。でも、そうじゃなかったの?」
長い沈黙。
庭園の木々が、風に揺れた。
やがてローデリックは、静かに口を開いた。
「……あの試合で卑怯だったのは、私だ」
アリシアは息を呑んだ。
「……兄上?」
「私は勝ちたかった。父上に認められ、次期当主として相応しいと証明したかった」
彼は苦笑した。
「だが、レオンハルトは強かった。何をしても剣が届かなかった」
「……それで、魔法を?」
「……それだけではない」
ローデリックは目を伏せた。
「試合の前日、ある人物から魔導具を渡された」
「魔導具?」
「ああ。身体強化を補助する指輪だと説明された。検査にも引っかからない、と」
アリシアの背筋が冷たくなる。
「誰が渡したの?」
「王都の武具商を名乗る男だった。紹介状には、王太子府の関係者の名前があった」
「……王太子府?」
「私は、その紹介状を信じた。そして指輪を使った」
ローデリックは、自分の右手を見つめた。
「だが、試合中に魔力が暴走した。あのまま剣を振っていれば、相手を殺していたかもしれない」
「……そんな」
「レオンハルトは、それを止めたんだ」
アリシアは言葉を失った。
「彼は私の剣を弾いた後、指輪を破壊した。観客には、ただ私が一方的に負けたように見えただろう」
「……兄上」
「私は恥ずかしかった。自分の弱さも、卑怯な手段に頼ったことも」
ローデリックは、静かに続けた。
「だから剣を置いた。あの少年に負けたからではない。自分を許せなかったからだ」
アリシアの胸が、締めつけられた。
自分は何をしていたのだろう。
兄の苦しみを理解しようともせず、勝手に憎む相手を決めていた。
「……私、あの人に酷いことを言ったわ」
「アリシア」
兄は優しく微笑んだ。
「間違えたなら、正せばいい」
その言葉に、彼女はゆっくりと頷いた。
◇◆◇
午後二時。
ヴァルディス公爵家別邸の執務室。
「……やはり、か」
俺はセバスティアンが持ってきた大会記録を見つめていた。
当時の試合記録。
審判の報告書。
そして、使用禁止魔導具に関する検査結果。
「問題の指輪は、大会後に学院の保管庫へ移されたそうです」
セバスティアンが説明する。
「しかし、三か月後に王国軍務省の研究部門へ移管されております」
「……軍務省?」
「はい。正式な移管記録が残っています」
俺は資料をめくった。
移管先は、軍務省魔導装備研究室。
そして、受領担当者の欄には見覚えのある名前が記されていた。
『ベルナール・クロイツ』
……おいおい。
外交補佐官になる前は、軍務省にいたのか。
「セバスティアン。この人物の経歴は?」
「以前は軍務省の調達部門に勤務しておりました。その後、王太子府へ異動しております」
俺は小さく息を吐いた。
偶然かもしれない。
だが、旧転移中継所の外交任務を提案した人物が、二年前の不正魔導具の移管にも関わっていた。
調べない理由はない。
「指輪の現物は?」
「現在、所在を確認中でございます」
「……急いでくれ。ただし正式な手続きを通してな」
「承知いたしました」
俺は窓の外を見た。
……二年前から、何かが動いていたのか。
原作では、ローデリックの事件は単なるレオンハルトの悪評の一つとして描かれていた。
だが、もしあの指輪が意図的に渡されたものなら。
……誰かが、俺とヴァレンシュタイン家を対立させようとした可能性もある。
◇◆◇
夕方。
公爵家の訓練場。
俺は木剣を振っていた。
剣先をわずかに下げ、踏み込みと同時に切り返す。
余計な力を抜き、最短距離で相手の中心を捉える。
そんな動きを繰り返していると、入口から声がした。
「……レオンハルト!」
振り返る。
赤い髪の少女が立っていた。
「アリシア嬢?」
彼女は、少し息を切らしていた。
「……話があるの」
「構わないよ」
俺が木剣を置くと、彼女は真っ直ぐに歩いてきた。
そして。
深く頭を下げた。
「……ごめんなさい!」
俺は目を瞬かせた。
「……どうした?」
「兄上から、本当のことを聞いたわ」
彼女は顔を上げた。
「二年前の試合。兄上が規則を破ったことも、あなたが暴走を止めてくれたことも」
「……そうか」
「私は何も知らずに、あなたを責めた」
その瞳は真剣だった。
「本当に、ごめんなさい」
俺はしばらく彼女を見つめ、それから小さく笑った。
「……謝罪は受け取ったよ」
「……怒ってないの?」
「昨日も言っただろ。俺は事実を確認したかっただけだ」
アリシアは、少しだけ目を伏せた。
「……あなたって、変な人ね」
「初対面で決闘を申し込んできた人に言われたくないな」
「……っ!」
彼女の顔が、一瞬で赤くなった。
「そ、それは……!」
俺は思わず笑った。
アリシアも、少し遅れて苦笑する。
初めて、彼女の表情から敵意が消えた気がした。
「……ねえ、レオンハルト」
「何だ?」
「また、剣を教えてくれる?」
俺は少し考えた。
「俺でよければ」
その瞬間、アリシアの顔が明るくなった。
「……本当?」
「ああ。ただし、今度は怒り任せに突っ込むなよ」
「わかってるわよ!」
そう言い返してから、彼女ははっとしたように口を押さえた。
……いや、今の返事も十分勢い任せだと思うぞ。
◇◆◇
訓練場の端。
エレノアは、二人の様子を静かに見守っていた。
アリシアが笑っている。
昨日まで敵意を向けていた少女が、今はレオンハルトへ素直な笑顔を見せていた。
……また、お一人。
エレノアは小さく息を吐いた。
レオンハルトは、相手を力で屈服させようとはしない。
誤解を解き、相手の言葉を聞き、必要なら手を差し伸べる。
だからこそ、人が集まってくる。
……嬉しいことです。
それは本心だった。
だが同時に、胸の奥が少しだけ痛む。
「……エレノア?」
不意にレオンハルトが振り返った。
「どうした? 疲れたか?」
「……いいえ」
彼女は微笑んだ。
「レオンハルト様。お飲み物をご用意いたしますね」
「ありがとう」
その何気ない笑顔に、胸が温かくなる。
……今は、これで十分。
そう思おうとした。
けれど。
いつまでも、それだけで満足できる自信はなかった。
◇◆◇
同じ夜。
王都の地下にある密室。
「……ローデリックが話した?」
黒衣の男は、報告を聞いて眉をひそめた。
「はい。妹のアリシアに、二年前の指輪の件を打ち明けたようです」
「……余計なことを」
男は机を指先で叩いた。
古い書類の上には、黒い封蝋が置かれている。
「指輪の保管場所は?」
「軍務省の封印保管庫です」
「まだ残っているのか」
「はい。ただし、王国監察官が照会を始めています」
男は、しばらく考えた。
そして、静かに命じた。
「……証拠を処分しろ」
「ですが、監察官が動いております」
「なら、処分する理由を作ればいい」
男は薄く笑った。
「保管庫で事故が起きたことにすれば済む」
部下は息を呑んだ。
「……火災、ですか?」
「そうだ」
男は書類を閉じた。
「古い指輪一つのために、計画全体を危険に晒すわけにはいかん」
その目には、冷たい光が宿っていた。
「……明日の夜までに終わらせろ」
――二年前の小さな剣術試合。
その裏側に隠された真実は、王国を揺るがす陰謀の新たな扉を開こうとしていた。




