第179話 帝国皇女の決断――戦争を終わらせるために
ヴァルガルド帝国、帝都ヴァルガリア。
巨大な城壁に囲まれた帝都は、帝国の繁栄を象徴する都市だった。
白い石造りの宮殿。
整然と並ぶ貴族の屋敷。
そして、帝国の威光を示す巨大な広場。
だが、その華やかさとは裏腹に、帝都の空気は重く沈んでいた。
西方戦線から届く報告が、日に日に悪化していたからだ。
王国への侵攻。
開戦時の兵力、八万。
しかし、黒狼と白銀の女帝による防衛によって、帝国軍は甚大な損害を受けた。
さらに。
黒獅子。
銀月の魔女。
そして、七星の公爵令息。
王国最強の者たちが、次々と戦場へ集結した。
帝国軍の敗北は、もはや時間の問題だと囁かれ始めていた。
* * *
帝国宮殿。
第一皇女アナスタシア・ヴァルガルドは、執務室で一通の報告書を読んでいた。
十七歳。
白金色の長い髪。
紫水晶のような瞳。
そして、気品に満ちた美しい容姿。
帝国第一皇女として、多くの国民から慕われる少女だった。
だが、今。
その表情には、深い憂いが浮かんでいた。
「……また、ですか」
アナスタシアは、報告書を机へ置いた。
そこには、西方戦線での損害が記されている。
戦死者。
負傷者。
行方不明者。
そして、捕虜となった兵士たち。
その数は、彼女の想像を遥かに超えていた。
「……何故、ここまでして戦争を続けるのですか」
小さな呟きが、静かな部屋へ響く。
侍女が心配そうに声をかけた。
「……殿下」
「……大丈夫です」
アナスタシアは、静かに微笑んだ。
だが、その笑みには力がなかった。
「……ただ、少し考えていたのです」
侍女は何も言わなかった。
アナスタシアは窓の外を見つめた。
帝都の街並み。
行き交う人々。
笑い合う子供たち。
その光景を見ながら、彼女は静かに呟いた。
「……この人たちにも、大切な家族がいるのですよね」
* * *
その日の午後。
アナスタシアは、皇帝への謁見を求めた。
帝国宮殿、玉座の間。
巨大な柱が並ぶ広間の奥に、皇帝が座っていた。
アナスタシアは、静かに頭を下げた。
「……お父様」
皇帝は、娘を見つめた。
「……何用だ、アナスタシア」
彼女は顔を上げた。
「西方戦線について、お話があります」
皇帝の表情が、わずかに厳しくなった。
「……戦争のことか」
「はい」
アナスタシアは頷いた。
「……どうか、これ以上の侵攻をおやめください」
玉座の間が静まり返った。
皇帝は、しばらく娘を見つめていた。
「……理由を聞こう」
アナスタシアは、静かに答えた。
「既に、多くの兵士たちが命を落としています」
その声は、震えていなかった。
「王国軍にも、帝国軍にも、数え切れないほどの犠牲者が出ています」
皇帝は黙って聞いていた。
「これ以上戦争を続けても、得られるものはありません」
アナスタシアは続けた。
「……どうか、和平交渉をお考えください」
皇帝は、深く息を吐いた。
「……簡単に言うな」
「……お父様」
「帝国は既に、多くの兵を失っている」
皇帝の声が低くなる。
「ここで撤退すれば、その犠牲は何のためだったのかと、国民から問われるだろう」
アナスタシアは静かに答えた。
「……だからこそ、これ以上増やしてはならないのです」
皇帝の瞳が揺れた。
「……何?」
「既に失われた命を、取り戻すことはできません」
アナスタシアは、まっすぐ父を見つめた。
「ですが、これから失われる命は、まだ守れるかもしれません」
玉座の間に、長い沈黙が流れた。
* * *
皇帝は、しばらく考え込んでいた。
やがて、静かに口を開いた。
「……アナスタシア」
「……はい」
「お前の言うことは、理解できる」
彼女の瞳が、わずかに明るくなる。
「……では!」
「だが、帝国には帝国の事情がある」
皇帝は続けた。
「軍部の強硬派。貴族たちの利権。そして、国境問題」
アナスタシアは黙って聞いていた。
「戦争を止めるには、ただ命令を出せばよいというものではない」
その言葉に、彼女は静かに頷いた。
「……分かっています」
そして、顔を上げた。
「……だからこそ、私にお任せください」
皇帝が眉をひそめた。
「……何をだ?」
「王国との交渉です」
玉座の間が静まり返った。
「……お前が?」
「はい」
アナスタシアは頷いた。
「私が、王国へ向かいます」
皇帝は目を見開いた。
「……馬鹿な!」
その声が広間に響いた。
「戦場へ行くつもりか!」
「……はい」
「危険すぎる!」
アナスタシアは静かに微笑んだ。
「……危険なのは、今も戦場で戦っている兵士たちです」
皇帝は、言葉を失った。
「私は皇女です」
アナスタシアは続けた。
「国民を守る責任があります」
その紫水晶の瞳には、揺るぎない決意が宿っていた。
* * *
その夜。
アナスタシアは、自室で一通の書簡を書いていた。
宛先は、王国の外交担当者。
内容は、停戦交渉の提案だった。
侍女が心配そうに問いかける。
「……殿下。本当に、戦場へ向かわれるのですか?」
アナスタシアは、静かに頷いた。
「ええ」
「……ですが、危険です」
「分かっています」
彼女は微笑んだ。
「それでも、行かなければなりません」
侍女は、何も言えなかった。
アナスタシアは、窓の外を見つめた。
夜空には、無数の星が輝いている。
その星を見つめながら、彼女は静かに呟いた。
「……レオンハルト・ヴァルディス」
最近、帝都でも噂になり始めた名前。
七属性すべてを操る少年。
たった一人で、数千の帝国兵を制圧したという公爵令息。
そして、敵兵をできる限り殺さずに戦おうとする人物。
アナスタシアは、静かに微笑んだ。
「……どのような方なのでしょう」
その瞳には、わずかな期待が宿っていた。
「……もし、お会いできるのなら」
彼女は、静かに呟いた。
「……戦争を終わらせるために、お力を貸していただきたいです」
* * *
一方。
グランフェル要塞。
俺は、父上とともに北西方面へ向かう準備をしていた。
帝国軍が、再び民間人の集落へ迫っている。
今度は、父上も同行する。
「……レオン」
父上が声をかけた。
「はい」
「準備はできたか?」
「はい」
俺は頷いた。
「……今度こそ、誰も傷つけさせません」
父上は、静かに微笑んだ。
「……その意気だ」
そして、黒い外套を翻した。
「行くぞ」
「はい!」
俺たちは、要塞を出発した。
その先で待っているのは、帝国軍の新たな作戦。
そして。
紅蓮の女将軍ヴァレリアとの、再びの邂逅。
だが、俺はまだ知らなかった。
遠く離れた帝都で、一人の皇女が戦争を終わらせるために動き始めていることを。
王国の七星。
帝国の紅蓮。
そして、帝国第一皇女。
三人の運命が、少しずつ交わり始めていた。




