第178話 紅蓮の決意――帝国軍に走る亀裂
ヴァルガルド帝国軍、西方戦線総司令部。
夜明け前の天幕には、重苦しい空気が漂っていた。
机の上には、無数の報告書が積み上げられている。
北東前進基地、陥落。
守備兵約三千名、武装解除のうえ捕虜。
補給物資の大半を喪失。
王国軍の東方補給路、再び安定。
そのすべてが、帝国軍にとって深刻な打撃だった。
「……ふざけるな!」
総司令官が机を叩いた。
「たった一人の小僧に、三千もの兵を奪われただと!?」
参謀たちは俯いたまま答えない。
誰もが理解していた。
今回の侵攻作戦は、既に当初の計画から大きく外れている。
黒狼レオナード。
白銀の女帝イザベラ。
黒獅子アルフォンス。
銀月の魔女エレオノーラ。
そして、七星の公爵令息レオンハルト。
王国側に集結した五人の実力者は、帝国軍の想定を遥かに超えていた。
だが、総司令官は敗北を認めようとしなかった。
「……まだだ」
男は地図を睨みつけた。
「まだ、我々には兵がいる!」
一人の参謀が、恐る恐る口を開いた。
「しかし閣下。兵力が残っていても、食料と魔石が不足しております」
「奪えばよい!」
「……は?」
「王国側の集落から奪えばよいのだ!」
天幕の空気が凍りついた。
その瞬間。
「――お待ちください」
凛とした声が響いた。
深紅の鎧をまとった少女が、一歩前へ出る。
ヴァレリア・ローゼンベルク。
十九歳にして帝国軍の将軍となった、紅蓮の剣士だった。
「……何だ、ローゼンベルク」
総司令官が不機嫌そうに睨む。
ヴァレリアは一歩も退かなかった。
「民間人の集落を襲い、物資を奪うというのですか?」
「そうだ」
「……それは、略奪です」
総司令官の眉が動いた。
「戦時徴発だ」
「敵国の民間人から武力で奪うのであれば、呼び方を変えても本質は同じです」
周囲の将校たちが息を呑んだ。
総司令官は冷たく笑った。
「……貴様は、随分と王国の肩を持つようになったな」
「違います」
ヴァレリアは即答した。
「私は、帝国軍の将軍として申し上げています」
その黄金の瞳が、鋭く光る。
「民間人を襲えば、王国軍は徹底抗戦するでしょう。補給を得るどころか、さらに敵を増やすことになります」
「……黙れ」
「それに、兵士たちの誇りまで失わせるおつもりですか?」
総司令官の顔が赤く染まった。
「ローゼンベルク!」
怒号が天幕に響く。
「貴様は命令に従えばよい!」
ヴァレリアは、静かに拳を握りしめた。
* * *
会議終了後。
ヴァレリアは、自分の部隊の天幕へ戻っていた。
副官ディルクが、心配そうに声をかける。
「……将軍。あそこまで言って、大丈夫でしょうか」
「構わん」
ヴァレリアは椅子へ腰を下ろした。
「間違っていると思ったことを、間違っていると言えなくなれば、私は将軍でいる意味がない」
ディルクは静かに頷いた。
「……ですが、総司令官は本気です」
「ああ」
ヴァレリアは地図を見つめた。
「おそらく、我々とは別の部隊へ命令を下すだろう」
ディルクの表情が曇る。
「……止められますか?」
「分からん」
ヴァレリアは正直に答えた。
自分は帝国軍の将軍だ。
軍規を無視して勝手に動けば、部下たちまで処罰される可能性がある。
だが。
命令だからといって、罪のない民を襲うことを見過ごせるのか。
ヴァレリアは、静かに目を閉じた。
脳裏に、一人の少年の姿が浮かぶ。
黒髪。
落ち着いた眼差し。
そして、敵国の将軍である自分に向けられた、穏やかな言葉。
『帝国軍の兵士にも、家族がいるでしょうから』
ヴァレリアは、ゆっくりと目を開いた。
「……ディルク」
「はっ」
「我が部隊には、民間人への攻撃を禁じる命令を徹底させろ」
「承知しました」
「降伏した敵兵にも手を出すな。負傷者は敵味方を問わず保護する」
ディルクは深く頭を下げた。
「……将軍らしいご判断です」
ヴァレリアは苦笑した。
「……甘いと思うか?」
「いいえ」
ディルクは首を横に振った。
「私は、そういう将軍だからこそ、あなたに従っているのです」
その言葉に、ヴァレリアは少しだけ微笑んだ。
* * *
一方。
グランフェル要塞。
俺は父上とともに、作戦室で帝国軍の動きを確認していた。
「……敵の補給拠点を一つ潰しただけでは、まだ足りないですね」
「ああ」
父上は頷いた。
「だが、確実に効果は出ている」
俺は地図を見つめた。
帝国軍の部隊は、少しずつ後退している。
前進基地を失ったことで、補給が滞り始めているのだ。
「……このまま補給線を断てば、敵は撤退せざるを得なくなる」
父上が静かに言った。
俺は頷いた。
「……なら、もっと早く終わらせられますね」
そのとき。
叔父上が作戦室へ入ってきた。
「おーい、アルフォンス!」
「……何だ、レオナード」
「帝国軍の動きが、ちょっとおかしいぜ」
叔父上は地図の北西を指した。
「小部隊が、村の方角へ移動してる」
俺は眉をひそめた。
「……また、避難民を狙うんですか?」
「可能性はあるな」
父上の表情が厳しくなる。
「レオン。確認できるか?」
「はい」
俺は魔力探知を広げた。
遠方。
森の奥。
複数の帝国軍部隊が移動している。
数は、合わせて千を超えていた。
そして。
その進行方向には、小さな集落があった。
「……間違いありません」
俺は顔を上げた。
「村へ向かっています」
父上は静かに頷いた。
「……分かった」
そして、俺を見つめた。
「レオン。今度は、私も同行する」
「……父上が?」
「ああ」
父上の瞳が、鋭く光った。
「帝国軍には、これ以上民を襲わせん」
* * *
同じ頃。
帝国軍の野営地。
ヴァレリアは、一通の密かな報告を受け取っていた。
『北西方面、徴発部隊出発』
彼女の表情が変わった。
「……やはり、動いたか」
ディルクが頷いた。
「将軍。どうなさいますか?」
ヴァレリアは立ち上がった。
深紅の外套を肩へ掛ける。
「……現地へ向かう」
「しかし、正式な命令は――」
「偵察任務だ」
ヴァレリアは静かに答えた。
「総司令官から許可された範囲内で、状況を確認する」
ディルクは、彼女の意図を理解した。
「……承知しました」
ヴァレリアは、腰の剣へ手を置いた。
紅蓮の魔力が、わずかに揺らめく。
「……これ以上、帝国の名を汚させるわけにはいかん」
その瞳には、強い決意が宿っていた。
そして。
王国の黒獅子と七星。
帝国の紅蓮。
三者の進む先が、同じ村へ重なろうとしていた。




