第177話 紅蓮と七星――戦場に交わる二つの信念
帝国軍北東前進基地が陥落した翌朝。
グランフェル要塞の西方では、帝国軍の部隊が慌ただしく動き始めていた。
補給拠点を失ったことで、帝国軍の作戦は大きく狂い始めている。
兵糧の不足。
魔石の消耗。
負傷兵の増加。
そして、前線の士気低下。
そのすべてが、帝国軍を追い詰めていた。
だが、総司令官は撤退を認めなかった。
「……このまま引き下がれるか!」
総司令官は怒鳴った。
「帝国の威信が懸かっているのだ!」
参謀たちは、誰も口を開かなかった。
そのとき。
深紅の鎧をまとった少女が、一歩前へ出た。
「……閣下」
ヴァレリア・ローゼンベルクだった。
「私に、前線の偵察をお任せください」
総司令官は眉をひそめた。
「……何?」
「敵の動きを確認し、今後の作戦を判断するためです」
総司令官は、しばらく彼女を見つめていた。
そして、冷たく笑った。
「……よかろう」
ヴァレリアは静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
だが、彼女の本当の目的は別にあった。
七星の公爵令息。
レオンハルト・ヴァルディス。
その少年が、どのような人物なのか。
自分の目で確かめたかったのだ。
* * *
同じ頃。
俺は、要塞の北西方面へ向かっていた。
昨日制圧した帝国軍の前進基地から、さらに西へ進んだ丘陵地帯。
そこには、帝国軍の偵察部隊が出没しているという報告があった。
俺の任務は、敵の動向を確認すること。
必要があれば、補給路へ近づく部隊を阻止することだった。
「……今日は、少し静かだな」
俺は馬を進めながら呟いた。
魔力探知を広げる。
周囲には、いくつかの反応。
だが、昨日のような大規模部隊は見当たらない。
そのとき。
遠方の丘の上に、一人の騎士が立っているのが見えた。
深紅の鎧。
長い赤髪。
そして、腰に下げた美しい剣。
……女性?
俺は馬を止めた。
相手も、こちらに気づいたようだった。
そして、ゆっくりと馬を進めてきた。
* * *
ヴァレリアは、目の前の少年を見つめていた。
黒髪。
整った顔立ち。
十五歳ほどの年齢。
だが、その瞳には不思議な落ち着きがある。
……この少年が。
ヴァレリアは静かに口を開いた。
「……お前が、レオンハルト・ヴァルディスか?」
俺は頷いた。
「はい。そうですが」
少女は、わずかに目を細めた。
「……そうか」
そして、静かに名乗った。
「私は、ヴァレリア・ローゼンベルク」
俺は目を見開いた。
「……ヴァレリア?」
その名前には、聞き覚えがあった。
叔父上と戦ったという、帝国軍の若き女将軍。
紅蓮の剣を操る、十九歳の天才剣士。
「……あなたが、叔父上と戦った人ですか」
ヴァレリアは頷いた。
「ああ」
そして、少しだけ苦笑した。
「……見事に負けたがな」
俺は思わず微笑んだ。
「叔父上は、強いですから」
「……ああ。恐ろしいほどにな」
ヴァレリアは静かに頷いた。
その表情には、悔しさよりも敬意が浮かんでいた。
* * *
しばらくの沈黙。
やがて、ヴァレリアが口を開いた。
「……一つ、聞きたいことがある」
「……何でしょうか?」
「お前は、敵兵を殺さずに制圧することが多いそうだな」
俺は頷いた。
「……はい」
「何故だ?」
その問いに、俺は少し考えた。
「……できることなら、誰も死なない方がいいと思うからです」
ヴァレリアは、静かに俺を見つめた。
「……敵兵もか?」
「はい」
俺は頷いた。
「帝国軍の兵士にも、家族がいるでしょうから」
その言葉に、ヴァレリアの瞳が揺れた。
「……そうか」
俺は続けた。
「でも、だからといって、何でも許すつもりはありません」
ヴァレリアが顔を上げる。
「……何?」
「誰かを殺そうとしている人を、止めなければならないこともあります」
俺は静かに答えた。
「……そのときは、必要な判断をします」
ヴァレリアは、しばらく黙っていた。
そして、静かに笑った。
「……なるほど」
その笑みには、どこか安心したような色があった。
「……噂ほど甘いだけの少年ではないようだな」
俺は苦笑した。
「……そうでしょうか」
ヴァレリアは頷いた。
「ああ」
* * *
そのとき。
遠方の森から、兵士たちの叫び声が聞こえた。
「……何だ?」
ヴァレリアが振り返る。
俺も魔力探知を広げた。
……いる。
帝国軍の兵士たち。
そして、王国軍の小規模な偵察隊。
両者が、森の入口で衝突しようとしていた。
「……まずい!」
俺は馬から降りた。
ヴァレリアも剣を抜いた。
「……待て!」
彼女が叫ぶ。
「私の部下がいる!」
俺は振り返った。
「……なら、一緒に止めましょう!」
ヴァレリアは目を見開いた。
「……何?」
「このままでは、どちらかが死にます!」
俺は静かに続けた。
「……それは、あなたも望んでいないでしょう?」
ヴァレリアは、しばらく俺を見つめた。
そして、剣を鞘へ戻した。
「……分かった」
彼女は頷いた。
「……行くぞ!」
* * *
森の入口。
王国軍の偵察隊と、帝国軍の小部隊が対峙していた。
双方とも、剣を抜いている。
一触即発の状況だった。
その瞬間。
「――止まれ!」
ヴァレリアの声が響いた。
帝国軍の兵士たちが、一斉に振り返る。
「……ローゼンベルク将軍!?」
同時に。
俺は王国軍の前へ降り立った。
「……武器を下ろしてください!」
王国軍の騎士たちが目を見開く。
「レオンハルト様!?」
両軍の兵士たちは、困惑しながら互いを見つめた。
ヴァレリアは帝国兵たちへ命じた。
「剣を収めろ!」
「……しかし、将軍!」
「命令だ!」
その声には、絶対的な威厳があった。
帝国兵たちは、渋々剣を収めた。
俺も王国軍の騎士たちへ頷いた。
「こちらも、戦う必要はありません」
王国軍の騎士たちは、ゆっくりと武器を下ろした。
* * *
戦闘は、回避された。
ヴァレリアは、静かに息を吐いた。
「……助かった」
俺は微笑んだ。
「こちらこそ」
彼女は俺を見つめた。
「……不思議な男だな、お前は」
「……そうですか?」
「ああ」
ヴァレリアは、少しだけ笑った。
「敵国の将軍と、こんなふうに話すとはな」
俺は肩をすくめた。
「……戦わなくて済むなら、その方がいいですから」
ヴァレリアは、しばらく俺を見つめていた。
そして、静かに口を開いた。
「……レオンハルト」
「はい」
「次に会うときは、敵として剣を交えるかもしれん」
俺は頷いた。
「……そうですね」
「……それでも、お前は私を殺さずに済ませようとするのか?」
俺は少し考えた。
そして、静かに答えた。
「……あなたが、誰かを殺そうとしない限りは」
ヴァレリアは目を見開いた。
そして。
「……ふっ」
小さく笑った。
「……面白い」
その瞳に、強い興味が宿る。
「……覚えておこう」
* * *
夕暮れ。
俺は、グランフェル要塞へ戻っていた。
父上へ報告すると、父上は少し驚いた顔をした。
「……ヴァレリア・ローゼンベルクと会ったのか?」
「はい」
俺は頷いた。
「……不思議な人でした」
叔父上が豪快に笑った。
「ははっ! あの嬢ちゃんか!」
「叔父上、知っているんですよね?」
「おう。なかなか骨のある剣士だったぜ!」
伯母様も微笑んだ。
「ですが、帝国軍の将軍であることを忘れてはいけませんわ」
「……はい」
俺は頷いた。
敵国の将軍。
それでも、彼女は無意味な戦いを止めようとした。
その姿が、頭から離れなかった。
* * *
同じ頃。
帝国軍の野営地。
ヴァレリアは、天幕の中で静かに座っていた。
副官ディルクが問いかける。
「……将軍。どうでしたか?」
「……何がだ?」
「七星の公爵令息です」
ヴァレリアは、少しだけ微笑んだ。
「……想像以上だった」
ディルクが眉をひそめた。
「……強さが、ですか?」
「……いや」
ヴァレリアは首を横に振った。
「……人間として、だ」
その言葉に、ディルクは目を見開いた。
ヴァレリアは、静かに続けた。
「……あの少年は、敵を殺さないことに執着しているわけではない」
そして、遠方の要塞を見つめた。
「……守るために、戦っている」
その瞳に、かすかな憧れが宿っていた。
「……ああいう男が、王国にはいるのだな」
帝国と王国。
二つの国の間には、なお深い溝がある。
だが。
その日。
紅蓮の女将軍と七星の公爵令息の間に、小さな理解が生まれた。
それが、やがて二つの国の運命を変えることになるとは。
このとき、まだ誰も知らなかった。




