第170話 黒獅子の戦旗――七星、戦場に立つ
グランフェル要塞、東方街道。
夜明けの光が、長く続く街道を黄金色に染めていた。
その道を、王国軍の騎士団が整然と進んでいる。
先頭に掲げられたのは、漆黒の獅子を描いた大旗。
ヴァルディス公爵家の戦旗だった。
風を受けて大きく翻るその旗は、王国において特別な意味を持っている。
王国最強の剣士。
不敗の黒獅子。
アルフォンス・ヴァルディスが、戦場へ現れた証だった。
そして、その隣には銀色の髪をなびかせた美しい女性がいる。
《銀月の魔女》エレオノーラ・ヴァルディス。
王国最高峰の魔導師にして、アルフォンスの妻。
さらに、二人の少し後ろを進む一人の少年。
黒髪に整った顔立ち。
十五歳とは思えないほど落ち着いた眼差し。
その左手首には、紫色の宝石が埋め込まれた銀の腕輪が輝いていた。
レオンハルト・ヴァルディス。
七属性すべてを操り、規格外の力を持つ公爵令息。
その少年が、初めて本物の戦場へ足を踏み入れようとしていた。
* * *
「……ここが、グランフェル要塞か」
俺は馬上から、遠くに見える巨大な城壁を見つめていた。
王都を出発してから、何度も戦況報告は受けている。
帝国軍八万による大規模侵攻。
王国軍一万二千による国境防衛。
叔父上と伯母上の奮戦。
そして、両軍に生じた甚大な損害。
報告書に書かれた数字は、理解していたつもりだった。
だが、実際に目にした光景は、想像していたものとはまるで違っていた。
焼け焦げた大地。
無数の馬蹄の跡。
砕けた盾や折れた槍。
街道の脇には、壊れた荷馬車が何台も残されている。
遠方の平原には、帝国軍の野営地が広がっていた。
「……凄まじいな」
思わず呟く。
すると、隣を進んでいた父上が口を開いた。
「これでも、戦いが一段落した後だ」
「……これで、ですか?」
「ああ」
父上は静かに頷いた。
「レオナードとイザベラが敵の主力を何度も撃退している。二人がいなければ、今頃この街道も帝国軍に占領されていただろう」
俺は再び要塞を見つめた。
叔父上と伯母上。
二人の強さは、よく知っている。
叔父上の剣技は、父上に匹敵するほど凄まじい。
伯母上の魔法も、母上と並んで王国最高峰だ。
そんな二人がいても、戦争は終わっていない。
その事実が、胸に引っかかった。
「レオン」
母上が優しく声をかけてきた。
「緊張していますか?」
「……少しだけ」
俺は苦笑した。
「戦うこと自体は、怖くありません。ただ……」
「ただ?」
「……俺が何をすれば、みんなを守れるのか。それが、まだ分からないんです」
母上はしばらく俺を見つめていた。
そして、穏やかに微笑んだ。
「それを考えられることは、大切ですよ」
「母上……」
「ですが、一つだけ覚えておきなさい」
母上の声が、少しだけ真剣になる。
「戦場では、迷っている間にも時間が流れます。あなたが何かを選ぶまで、敵も味方も待ってはくれません」
俺は静かに頷いた。
「……はい」
その言葉の意味を、俺はまだ十分に理解していなかった。
* * *
グランフェル要塞。
城壁の上に立っていた王国兵が、東方街道に現れた軍勢を発見した。
「……あれは?」
兵士は目を凝らした。
黒い戦旗。
銀色の紋章。
そして、整然と進む王国軍の騎士団。
次の瞬間。
「援軍だ!」
兵士が叫んだ。
「王都からの援軍が来たぞ!」
その声は、瞬く間に要塞全体へ広がっていった。
「黒獅子様だ!」
「アルフォンス公爵閣下が到着された!」
「銀月の魔女様もご一緒だ!」
兵士たちの間から歓声が上がる。
疲れ切っていた者たちが、顔を上げた。
負傷兵を運んでいた騎士が、思わず足を止める。
炊事場で働いていた兵士たちも、城門の方角へ目を向けた。
彼らにとって、それは単なる援軍の到着ではなかった。
戦争が始まって以来、初めて見えた明確な希望だった。
* * *
要塞の城門が開く。
その向こうから、黒い鎧をまとった大柄な男が歩いてきた。
「おおおっ!」
聞き慣れた豪快な声が響く。
「ようやく来やがったな、アルフォンス!」
叔父上だ。
《黒狼》レオナード・ヴァルディス。
父上の弟にして、王国屈指の剣士。
その鎧には戦いの跡が残っていたが、本人はいつもと変わらず元気そうだった。
父上は馬から降りると、叔父上へ歩み寄った。
「待たせたな、レオナード」
「まったくだぜ!」
叔父上は笑いながら、父上の肩を叩いた。
「こっちは毎日、帝国軍の相手で大忙しだったんだからな!」
「報告は聞いている」
父上は真剣な表情で答えた。
「よく守り抜いてくれた」
その言葉に、叔父上は一瞬だけ目を細めた。
「……ああ」
そして、いつもの笑みを浮かべる。
「当然だろ。俺たちの国なんだからよ」
父上は小さく頷いた。
二人の間に、それ以上の言葉は必要なかった。
* * *
そのとき。
「……エレオノーラ!」
澄んだ声が響いた。
城門の奥から、銀色の髪をなびかせた女性が歩いてくる。
イザベラ・シルヴェイン。
《白銀の女帝》。
母上の実の姉であり、俺にとっては母方の伯母にあたる人だ。
その姿を見た瞬間、母上の表情が明るくなった。
「姉様!」
母上は足早に歩み寄った。
「ご無事で何よりです!」
「ふふっ。心配をかけましたわね」
伯母上は優しく微笑み、母上を抱き締めた。
「あなたこそ、無事に到着できて安心しました」
「姉様が最前線にいらっしゃるのですもの。心配しないはずがありません」
「あら。私のことを誰だと思っていますの?」
伯母上は少し得意げに微笑んだ。
「白銀の女帝ですわよ?」
母上は思わず笑った。
「もう……姉様ったら」
そのやり取りは、まるで戦場ではなく、家族の屋敷で再会したときのようだった。
だが、伯母上の瞳には深い疲労とは別の、静かな悲しみが宿っていた。
母上もそれに気づいたのだろう。
笑顔を収め、そっと姉の手を握った。
「……大変だったのですね」
「ええ」
伯母上は小さく頷いた。
「私たちは無事です。でも、守れなかった命もあります」
母上は何も言わず、その手を握り返した。
* * *
「おーい、レオン!」
叔父上が俺を見つけ、大きく手を振った。
「久しぶりじゃねえか!」
「叔父上!」
俺は馬から降り、駆け寄った。
叔父上は豪快に笑いながら、俺の頭をわしゃわしゃと撫でる。
「ははっ! また少し大きくなったか?」
「そんなに変わってませんよ!」
「いやいや、男ってのは戦場に来るだけで顔つきが変わるもんだ!」
相変わらずの叔父上だった。
その明るさに、少しだけ緊張が和らぐ。
すると、伯母上も近づいてきた。
「レオン」
「イザベラ伯母様!」
伯母上は優しく微笑んだ。
「無事に来られて何よりですわ」
「伯母様も、ご無事でよかったです」
「ふふっ。心配してくれたのですね」
伯母上は俺の頬にそっと手を添えた。
「でも、ここからはあなたにも頑張っていただくことになります」
俺は真剣な表情で頷いた。
「はい。俺にできることなら、何でもします」
その言葉に、伯母上は一瞬だけ目を細めた。
「……何でも、ですか」
「はい」
伯母上は静かに微笑んだ。
「では、まずは見て、知ってください」
「……何をですか?」
「私たちが、この数日間で守ってきたものを。そして、守れなかったものを」
その声は、とても優しかった。
だからこそ、胸に深く響いた。
* * *
要塞の内部へ入った瞬間。
俺は、言葉を失った。
広場には、無数の天幕が張られていた。
その中では、負傷した兵士たちが治療を受けている。
腕を失った騎士。
足に深い傷を負った兵士。
顔に包帯を巻いた若者。
そして、眠るように横たわったまま動かない者たち。
俺は思わず立ち止まった。
「……これは……」
叔父上が隣に立った。
「……戦争だ」
その声には、普段の豪快さがなかった。
「俺たちがどれだけ敵を倒しても、味方が傷つかないわけじゃねえ」
俺は周囲を見渡した。
そこにいたのは、ただの兵士ではない。
一人一人が、誰かの息子であり、父親であり、兄弟だった。
故郷で帰りを待つ人がいる。
その人たちの人生が、ここで変わってしまったのだ。
「……治癒魔法を使います」
俺は反射的に言った。
「俺なら、重傷者も治せるはずです!」
母上が静かに頷いた。
「ええ。できる限り助けましょう」
俺はすぐに治療用の天幕へ向かった。
* * *
治療天幕。
俺は両手を掲げた。
「――《神聖治癒》」
七属性のうち、光の魔力が柔らかな輝きとなって広がる。
負傷兵たちの身体が、次々と光に包まれた。
深い傷が塞がり、折れた骨が元の位置へ戻っていく。
失われかけていた生命力が、少しずつ回復していった。
「……おおっ!」
「傷が……!」
「痛みが消えた!」
兵士たちが驚きの声を上げる。
俺は魔力をさらに広げた。
俺の魔力は、尽きることがない。
だから、目の前にいる負傷者を治すこと自体は難しくなかった。
だが。
「……レオン様」
一人の老兵が、俺に声をかけてきた。
「ありがとうございます」
「いえ。まだ治療が必要な方は――」
「ですが……」
老兵は、隣の空いた寝台を見つめた。
「……あいつにも、間に合ってほしかった」
俺は言葉を失った。
「昨日まで、ここで一緒に笑っていたんです」
老兵は震える声で続けた。
「故郷に帰ったら、娘の結婚式に出るんだって……」
俺は何も言えなかった。
治癒魔法は、傷を癒やすことができる。
だが、既に失われた命を、何事もなかったように取り戻すことはできない。
どれだけ魔力があっても。
どれだけ強くても。
間に合わなければ、救えない命がある。
その事実が、胸を締めつけた。
* * *
夕刻。
作戦室には、父上、母上、叔父上、伯母上、そして俺が集まっていた。
王国軍の将校たちが、現在の戦況を報告している。
「帝国軍は開戦時の八万から大きく戦力を減らしました。しかし、なお数万の兵が戦列に残っています」
「王国軍も損害が大きく、守備兵の休息と再編が必要です」
「避難民の保護と補給路の確保が、引き続き最優先となります」
父上は静かに頷いた。
「分かった。まずは守備兵を交代させる」
そして、援軍の指揮官へ視線を向ける。
「新たに到着した騎士団は、城壁の防衛を引き継げ。ここまで戦った者たちには、十分な休息を与える」
「はっ!」
母上が続けた。
「私は医療班と協力し、負傷者の治療を進めます」
伯母上も頷いた。
「では、私は避難民の保護と結界の再配置を担当しますわ」
叔父上は大剣を肩に担いだ。
「俺は引き続き、正面を抑えるぜ」
父上は静かに答えた。
「いや。今度は私も出よう」
その瞬間、叔父上の目が輝いた。
「……おお!」
黒狼と黒獅子。
兄弟であり、王国最強クラスの剣士二人。
その二人が、同じ戦場に立つ。
将校たちは息を呑んだ。
だが、父上は続けた。
「ただし、無闇に敵を追撃するつもりはない。敵の主力を牽制し、補給路と避難路を確保する」
叔父上は頷いた。
「分かってるって」
そして、父上が俺へ視線を向けた。
「……レオン」
「はい、父上」
「お前には、まず戦場全体を見てもらいたい」
「……戦場全体、ですか?」
「ああ」
父上は地図を指した。
「敵を倒すことだけが、戦争ではない」
その指先が、補給路へ移る。
「食料を届ける者がいる」
次に、避難民の集結地点。
「民を守る者がいる」
そして、要塞の城壁。
「命を懸けて時間を稼ぐ者がいる」
父上は静かに続けた。
「そのすべてが、戦いだ」
俺は地図を見つめた。
赤い駒。
青い駒。
これまでは、ただの戦力を示すものだと思っていた。
だが、今は違う。
その一つ一つの向こうに、人間の命がある。
俺はゆっくりと頷いた。
「……分かりました」
* * *
会議が終わったあと。
俺は一人、要塞の中庭を歩いていた。
そこには、戦死した王国兵たちの名前が記された板が並んでいた。
名前。
年齢。
所属部隊。
そして、戦死した場所。
俺は、一枚の板の前で足を止めた。
『エドガー・リンドル。十八歳。南方護衛隊』
その下には、小さな文字で記されていた。
『避難民を守り、戦死』
十八歳。
俺と、たった三歳しか違わない。
その若さで、誰かを守るために命を落とした。
俺は拳を握りしめた。
「……俺が、もっと早く来ていれば」
思わず呟く。
そのとき、背後から声がした。
「……レオン」
振り返ると、父上が立っていた。
「父上……」
父上は俺の隣に立ち、名簿を見つめた。
「お前が早く来ていれば、救えた命もあったかもしれん」
俺は唇を噛んだ。
「……はい」
「だが、お前が王都を離れれば、今度は王都で何が起きたか分からん」
父上は静かに続けた。
「王都には、まだ黒翼の残党が潜んでいる可能性がある。王国軍の動員にも時間が必要だった」
俺は顔を上げた。
「……だから、今まで動けなかったのですね」
「ああ」
父上は頷いた。
「王国を守るというのは、一つの戦場だけを見ることではない」
その言葉に、俺は静かに頷いた。
* * *
夜。
要塞の城壁に立つと、遠方には帝国軍の野営地が見えた。
数え切れないほどの篝火。
その一つ一つの下に、兵士たちがいる。
俺は静かに呟いた。
「……できるだけ、誰も殺したくない」
その言葉に、隣に立つ叔父上が笑った。
「……お前らしいな」
俺は叔父上を見た。
「……甘いでしょうか」
叔父上は少し考えた。
そして、静かに答えた。
「……甘いかどうかは、これから分かる」
俺は目を見開いた。
「……これから?」
「ああ」
叔父上は大剣を肩に担いだ。
「お前は強い。俺なんかより、ずっとな」
その言葉に、俺は首を横に振ろうとした。
だが、叔父上は続けた。
「だがな。強いからって、何でも思いどおりになるわけじゃねえ」
彼は遠方の帝国軍を見つめた。
「敵を生かしたせいで、味方が死ぬこともある。敵を殺したせいで、救えなくなるものもある」
俺は何も言えなかった。
「……大事なのは、何を守るために剣を振るうかだ」
その言葉が、胸に深く残った。
俺はゆっくりと頷いた。
「……はい」
そして、帝国軍の野営地を見つめた。
俺には力がある。
七つの属性。
無限の魔力。
そして、これまで積み重ねてきた剣と魔法。
だが。
その力を、どう使うべきなのか。
俺はまだ、本当の意味では理解していないのかもしれない。
* * *
同じ夜。
帝国軍総司令部へ、一通の報告が届いた。
「……閣下」
伝令の声が震えていた。
「王国軍に、援軍が到着しました」
総司令官は顔を上げる。
「……何?」
「黒獅子アルフォンス・ヴァルディス」
参謀たちが息を呑む。
「銀月の魔女エレオノーラ・ヴァルディス」
天幕の空気が凍りついた。
「……そして」
伝令は唾を飲み込んだ。
「……公爵令息レオンハルト・ヴァルディスも、同行しています」
沈黙。
総司令官の顔から、血の気が引いた。
「……馬鹿な」
彼は震える声で呟いた。
「……あの家の怪物どもが、全員揃ったというのか……!」
その頃。
グランフェル要塞の城壁では、黒い戦旗が夜風になびいていた。
黒狼。
白銀の女帝。
黒獅子。
銀月の魔女。
そして、七星の公爵令息。
王国最強の者たちが、ついに同じ戦場へ集結した。
だが、レオンハルトはまだ知らない。
この戦争が、自分の優しさを根底から揺さぶることになるということを。
そして。
誰かを守るために、自らの手で命を奪う決断を迫られる日が、すぐそこまで近づいていることを。




