第168話 帝国最後の猛攻――黒狼と白銀の防衛線
グランフェル要塞を包む朝霧が、低い軍鼓の音に震えていた。
帝国軍の侵攻が始まって五日目。
西の平原に広がる帝国軍の陣地では、夜明け前から数万の兵士が動き始めていた。
第一軍団の壊滅。
魔導砲部隊の喪失。
南方部隊の敗走。
そして、東南方面軍一万六千の事実上の消滅。
開戦時に八万を数えた帝国軍は、既に膨大な戦死者、負傷者、捕虜を出していた。
なお戦列に立てる兵は王国軍を大きく上回っていたが、その士気は低下し、補給の負担も増している。
それでも、総司令官は撤退を命じなかった。
「本日、グランフェル要塞を陥落させる」
総司令部に集められた将校たちへ、彼はそう宣言した。
卓上の地図には、要塞正面へ集中する赤い矢印が描かれている。
「これ以上の長期戦は、我が軍にとっても不利だ。残存する主力を集中し、一挙に城門を破る」
一人の参謀が慎重に尋ねた。
「……黒狼と白銀の女帝への対処は?」
「両名を同時に引きつける。北方と南方へも小部隊を送り、敵の判断を鈍らせろ」
「しかし、それでは再び兵力が分散します」
「構わん。要塞正面で勝てば、それで終わりだ」
その言葉に、天幕の空気が冷えた。
兵を消耗品として数えている。
誰もが、それを理解していた。
深紅の鎧をまとったヴァレリア・ローゼンベルクが、一歩前へ出る。
「閣下。正面突破は危険です。黒狼の剣は、密集した陣形ほど威力を発揮します」
「ならば、散開して進めばよい」
「散開すれば、今度は要塞の弓兵と魔導兵に各個撃破されます」
総司令官は彼女を睨んだ。
「ローゼンベルク将軍。お前はまた反対するのか?」
「兵を無意味に死なせる作戦には、反対いたします」
ヴァレリアは視線を逸らさなかった。
総司令官はしばらく沈黙し、やがて冷たく告げた。
「では、お前の中央軍は後方で予備隊を務めろ。攻撃には参加させん」
「……承知しました」
それは事実上の左遷だった。
しかし、ヴァレリアは反論しなかった。
少なくとも、自分の部下たちを無謀な突撃に参加させずに済む。
そう考えたからだ。
* * *
グランフェル要塞。
城壁の上に立つレオナードは、眼前に広がる帝国軍を眺めていた。
「……おいおい」
黒い大剣を肩に担ぎ、苦笑する。
「随分と派手に集めやがったな」
隣に立つイザベラが、銀色の瞳を細めた。
「本日で決着をつけるつもりなのでしょう」
「そいつは好都合だ」
レオナードは笑った。
「向こうがまとめて来るなら、まとめて叩ける」
「ですが、こちらの兵士たちは連日の戦闘で疲弊しています」
イザベラは城壁の内側を見下ろした。
負傷兵を運ぶ担架。
治療を待つ兵士たち。
眠気を堪えながら武器を磨く若者たち。
そして、避難民へ温かい食事を配る炊事兵。
要塞は守られている。
だが、その内側にいる人々は限界へ近づいていた。
「……分かってる」
レオナードの声が低くなる。
「だから、今日は俺たちが前へ出る」
イザベラは微笑んだ。
「ええ。兵士たちには、少しでも休息を取っていただきましょう」
* * *
帝国軍の軍鼓が、一斉に鳴り響いた。
数万の兵士が前進を始める。
重装歩兵が盾を掲げ、槍兵がその後ろに続く。
魔導兵たちは詠唱を開始し、残された攻城兵器がゆっくりと動き出した。
「敵軍、接近!」
「正面に大部隊!」
王国軍の兵士たちが叫ぶ。
レオナードは大剣を構えた。
「……よし」
黒い魔力が刃へ集まる。
「イザベラ。城壁は任せたぜ」
「お任せください」
イザベラが右手を掲げる。
《白銀天幕・千重結界》
銀色の光が要塞を包み込み、幾重もの防御陣が展開された。
帝国軍の魔法が次々と激突する。
轟音。
爆炎。
しかし、結界は揺らぐことすらなかった。
「……何度撃っても同じですわ」
イザベラは静かに告げた。
「この要塞を、あなた方に渡すつもりはありません」
その瞬間、レオナードが城壁から跳躍した。
黒い影が、帝国軍の前方へ降り立つ。
大地が震えた。
「――《黒狼震天斬》!」
漆黒の斬撃が、平原を一直線に駆け抜ける。
先頭の盾兵たちが吹き飛ばされ、密集した隊列が崩壊した。
盾が砕け、鎧が裂け、地面が大きく抉れる。
戦死者と負傷者が続出し、帝国軍の第一波は進軍を停止した。
「前線が崩れた!」
「黒狼だ!」
「距離を取れ!」
帝国軍の将校が必死に叫ぶ。
しかし、レオナードは既に次の部隊へ向かっていた。
「……遅え!」
大剣が振るわれる。
黒い斬撃が魔導兵の陣形を切り裂き、詠唱を中断させた。
帝国軍の攻撃は、次々と潰されていく。
* * *
だが、総司令官は攻撃を止めなかった。
「第二波を投入しろ!」
「閣下! 第一波の損害が――!」
「構わん! 進ませろ!」
新たな兵士たちが前進する。
その後方では、さらに別の部隊が要塞の側面へ回り込もうとしていた。
イザベラは即座にその動きを察知した。
「……そちらですのね」
彼女は左手を掲げる。
《白銀流星雨》
無数の銀色の光弾が、側面へ進む帝国軍の前方に降り注いだ。
地面が裂け、隊列が崩れる。
なおも突撃を続けた兵士たちは、次々と光の刃に倒れた。
側面攻撃は、開始から間もなく頓挫した。
しかし。
要塞の北側で、別の警鐘が鳴り響いた。
「北方に敵影!」
「避難民の集結地点へ向かっています!」
イザベラの表情が変わる。
「……またですの」
レオナードにも通信が届いた。
『北方へ小部隊が侵入しました。避難民を狙っている可能性があります』
「……ちっ」
レオナードは舌打ちした。
正面には数万の帝国兵。
北方には避難民。
そして、要塞の内側には疲弊した王国軍。
敵の狙いは明白だった。
自分たちを分断すること。
守るべきものを増やし、どこかに隙を作ること。
イザベラが通信で告げる。
『レオナード。北方は私が対処します』
「……頼む」
『正面はお任せしますわ』
「ああ。任せとけ」
短い会話だった。
だが、その言葉には絶対的な信頼があった。
* * *
イザベラは銀色の光をまとい、北方へ飛び立った。
レオナードは帝国軍の大部隊へ向き直る。
「……さて」
彼は大剣を肩に担ぎ直した。
「ここからは、俺一人か」
帝国軍の兵士たちが、恐怖に震える。
しかし、レオナードは笑った。
「ちょうどいい」
黒い魔力が、再び膨れ上がる。
「……お前ら全員、俺が相手してやるよ!」
漆黒の剣が、戦場に閃いた。
グランフェル要塞を巡る最大の攻防が、始まった。




