第167話 守るべきもの――黒狼と白銀の決断
グランフェル要塞。
帝国軍の侵攻が始まってから、四日目の朝。
要塞の空には、薄い雲が広がっていた。
城壁の上では、王国軍の兵士たちが交代で見張りを続けている。
しかし、その表情には明らかな疲労が浮かんでいた。
「……昨日も、ほとんど眠れなかったな」
「ああ。夜中に三回も敵襲警報が鳴った」
「しかも、どれも小部隊だったらしい」
兵士たちは苦笑した。
帝国軍は、正面からの大規模攻撃を控えるようになっていた。
その代わり、夜間の偵察。
補給路への小規模襲撃。
村の周辺での威嚇。
そして、要塞への断続的な魔法攻撃。
そのすべてが、王国軍の兵士たちから休息を奪っていた。
* * *
要塞の作戦室。
レオナードは報告書を眺めながら、眉をひそめていた。
「……夜間襲撃が七回、補給路への攻撃が四回、村の周辺で敵影が確認されたのが九回か」
イザベラが静かに頷く。
「ええ。敵は、私たちを休ませないつもりですわ」
「俺たちは別に構わねえがな」
レオナードは笑った。
「この程度でへばるほど、鍛え方は甘くねえ」
「問題は、兵士たちです」
イザベラは地図を見つめた。
「私たちと同じように戦い続けられるわけではありません」
その言葉に、王国軍の指揮官が頷いた。
「既に、疲労による判断ミスが増えています。昨夜も、見張りの兵士が交代直前に倒れました」
「……そうか」
レオナードの表情が引き締まる。
「休ませてやれ」
「しかし、警戒兵を減らせば……」
「その分は俺が見ておく」
指揮官が目を見開いた。
「レオナード様が、ですか?」
「ああ」
レオナードは当然のように答えた。
「俺一人で、あの程度の偵察部隊なら十分だろ?」
イザベラは小さく微笑んだ。
「でしたら、私は結界の監視範囲を広げますわ」
「……お前も働きすぎんなよ」
「それは、こちらの台詞です」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
* * *
昼過ぎ。
北方の村から、緊急の伝令が届いた。
「イザベラ様!」
若い伝令兵が、息を切らして駆け込んでくる。
「北方第三村の避難が、まだ完了していません!」
「……何がありました?」
「橋が破壊されました! 帝国軍の工作兵によるものと思われます!」
作戦室が騒然となった。
北方第三村。
そこには、まだ三百人ほどの村人が残っている。
避難路となる橋が破壊されれば、彼らは村から出られない。
イザベラは即座に立ち上がった。
「私が向かいます」
だが、その瞬間。
別の伝令が飛び込んできた。
「緊急報告! 南方街道に帝国軍の騎兵部隊!」
レオナードの目が細くなる。
「……今度は南か」
「さらに、東方補給路にも敵の魔導兵が現れました!」
報告が重なる。
北方。
南方。
東方。
帝国軍は、再び複数の場所で同時に動き始めていた。
レオナードは地図を睨んだ。
「……狙ってやがるな」
イザベラが頷く。
「ええ。私たちを分散させ、守りきれない場所を作るつもりです」
* * *
王国軍の指揮官が、険しい表情で口を開いた。
「……北方の村人三百人を救うために、要塞の守備兵を動かす余裕はありません」
その言葉に、作戦室が静まり返った。
「南方街道にも避難民がいます。東方補給路が断たれれば、要塞の兵士たちが飢えることになります」
指揮官は唇を噛んだ。
「……すべてを守ることは、できません」
レオナードは何も言わなかった。
イザベラも、静かに目を伏せている。
その沈黙は、決して諦めではなかった。
彼らは、どうすれば一人でも多く救えるのかを考えていた。
やがて、レオナードが口を開いた。
「……イザベラ」
「はい」
「北方の村は、お前に任せる」
「承知しました」
「南方は俺が行く。東方は、要塞の精鋭を回す」
指揮官が慌てて口を開く。
「しかし、それでは要塞の守備が……!」
レオナードは笑った。
「心配すんな」
彼は大剣を肩に担いだ。
「要塞の前には、俺の剣が届くようにしておく」
イザベラも微笑んだ。
「私の結界も、要塞へ残していきますわ」
王国軍の指揮官は驚いた顔をした。
「……遠隔で、結界を維持されるのですか?」
「ええ。私の魔力なら可能です」
イザベラは静かに答えた。
「ただし、広範囲を完全に守ることはできません。結界の外側には、必ず兵士たちの警戒が必要です」
レオナードが頷いた。
「つまり、俺たちだけじゃ駄目ってことだ」
彼は将校たちを見渡した。
「……お前らの力を貸してくれ」
将校たちは一斉に敬礼した。
「はっ!」
* * *
北方第三村。
村人たちは、壊れた橋の前で立ち尽くしていた。
川は増水し、激しい流れが渦を巻いている。
「……どうすればいいんだ」
「帝国軍が来る前に、逃げなきゃ……!」
老人たちが震える声で呟く。
そのとき、空から銀色の光が降り注いだ。
「……ご安心なさい」
優しい声が響いた。
村人たちが顔を上げる。
銀色の髪をなびかせた女性が、空に浮かんでいた。
《白銀の女帝》イザベラ。
「私が、皆様をお連れします」
彼女が右手を掲げる。
《白銀架橋》
巨大な銀色の橋が、川の上へ形成された。
村人たちが歓声を上げる。
「橋だ!」
「助かった!」
イザベラは微笑んだ。
「慌てずに渡ってください。お子様とご年配の方を先に」
村人たちは、次々と橋を渡り始めた。
だが、そのとき。
遠方の森から、帝国軍の騎兵部隊が姿を現した。
「……敵だ!」
村人たちが悲鳴を上げる。
イザベラの瞳が、静かに冷たくなった。
「……また、民を狙うおつもりですのね」
彼女は左手を掲げた。
《白銀封鎖》
銀色の鎖が地面から伸び、騎兵たちの進路を塞ぐ。
先頭の騎兵が落馬し、後続が急停止する。
指揮官が叫んだ。
「魔導兵! 結界を破れ!」
魔法が放たれる。
しかし、イザベラの結界は微動だにしなかった。
彼女は静かに告げた。
「……武器を捨てて退きなさい」
騎兵たちは顔を見合わせた。
だが、指揮官は剣を掲げた。
「攻撃を続けろ!」
その瞬間。
銀色の光が、帝国軍の前線へ降り注いだ。
武器を構えて突撃した兵士たちが、次々と倒れる。
鎧が砕け、地面が赤く染まった。
イザベラは、静かに目を伏せた。
「……これが、戦争ですわ」
その声には、悲しみが混じっていた。
* * *
南方街道。
レオナードは、帝国軍の騎兵部隊を前に立っていた。
「……お前らも、懲りねえな」
彼は大剣を肩に担ぎ、笑った。
帝国軍の指揮官が叫ぶ。
「黒狼を包囲しろ!」
数百の騎兵が、一斉に動き出す。
だが、レオナードは動じなかった。
「……包囲ねえ」
彼は大剣を構えた。
「俺を囲めば勝てると思ってんなら、大間違いだぜ」
《黒狼震天斬》
漆黒の衝撃波が、騎兵部隊を真正面から薙ぎ払った。
轟音。
土煙。
そして、兵士たちの悲鳴。
騎兵の隊列が崩壊し、進軍が止まる。
レオナードは悠然と歩き出した。
「……さあ、次はどいつだ?」
その姿を見た帝国兵たちは、恐怖に震えた。
* * *
夕暮れ。
グランフェル要塞には、各地から報告が届いていた。
「北方第三村、住民三百名の避難完了!」
「南方街道、帝国軍騎兵部隊を撃退!」
「東方補給路、王国軍精鋭部隊が防衛に成功!」
将校たちが歓声を上げた。
しかし、その直後。
別の報告が届いた。
「……東方補給路の防衛部隊に、戦死者が出ています」
作戦室が静まり返った。
「敵を撃退しましたが、輸送隊を守るために、三十七名が命を落としました」
レオナードは静かに目を閉じた。
イザベラも、何も言わなかった。
勝った。
守った。
それでも、失われた命がある。
その現実は、変わらなかった。
レオナードは低く呟いた。
「……くそっ」
イザベラが、そっと彼の肩へ手を置いた。
「……レオナード」
「ああ。分かってる」
彼は静かに頷いた。
「俺たちが全部背負い込んでも、死んだ奴らは戻らねえ」
そして、地図を見つめる。
「……だからこそ、次はもっと上手くやる」
イザベラは微笑んだ。
「ええ。私たちには、まだ守るべき人々がいますもの」
そのとき。
作戦室へ、一通の伝令が届けられた。
王都からの、王家の紋章が押された書簡だった。
レオナードは封を切り、中身に目を通した。
そして、口元を吊り上げた。
「……ようやくか」
イザベラが顔を上げる。
「何が書かれていましたの?」
レオナードは笑った。
「……アルフォンスたちが、動き始めたらしい」
イザベラの表情が、わずかに和らいだ。
「……それは、心強いですわね」
だが、レオナードはすぐに真剣な表情へ戻った。
「まだ到着までは時間がかかる。ここからが正念場だ」
彼は大剣を肩に担いだ。
「……それまで、何があっても要塞を守り抜くぜ」
イザベラは静かに頷いた。
「ええ。私たちの大切な家族が来るまで」
西の空が、ゆっくりと赤く染まっていく。
帝国軍の侵攻は、まだ終わらない。
そして、黒狼と白銀の女帝の戦いも、続いていくのだった。




