第166話 帝国軍の誤算――敗北を認めぬ総司令官
ヴァルガルド帝国軍、総司令部。
夜の作戦天幕に、怒号が響き渡った。
「一万六千の部隊が壊滅しただと!?」
総司令官が机を叩きつける。
卓上の駒が跳ね、地図の上を転がった。
参謀たちは顔を伏せたまま、誰も答えようとしない。
「答えろ! 何が起きた!」
ようやく、一人の参謀が口を開いた。
「……東南方面軍は、黒狼と白銀の女帝の連携攻撃を受けました」
「そんなことは分かっている!」
「敵は谷の進路を魔法障壁で制限し、黒狼が先頭を突破。後方の魔導兵部隊も白銀の女帝によって撃破されました」
参謀は震える手で報告書をめくった。
「現時点で確認できた戦死者は約千八百。負傷者約二千四百。捕虜となった者は八千を超えています。残る兵も散り散りとなり、部隊としての再編は困難です」
天幕が静まり返った。
一万六千の軍勢。
帝国が長い年月をかけて鍛え上げた兵士たち。
その大半が、たった二人によって戦場から消えたのだ。
「……化け物どもめ」
総司令官は歯を食いしばった。
帝国軍は開戦からわずか数日で、第一軍団、砲兵隊、南方部隊、東南方面軍に甚大な損害を受けていた。
当初の八万という兵力は、もはやそのまま戦える数字ではない。
戦死者。
負傷者。
捕虜。
逃散した兵士。
そして、武器と補給物資の損失。
軍団の旗が残っていても、兵士がいなければ軍団は動かせない。
「閣下」
年配の参謀が、慎重に口を開いた。
「一度、軍を後退させるべきです」
「……何?」
「このまま攻勢を続ければ、損害はさらに拡大します。敵の二人を正面から倒す手段は、現状ありません」
総司令官の顔が歪んだ。
「帝国の威信を捨てて逃げろというのか!」
「違います。戦力を保存し、作戦を立て直すのです」
「黙れ!」
怒声が天幕を震わせた。
だが、参謀は退かなかった。
「兵を失えば、帝国の次の戦争すら戦えなくなります!」
その言葉に、総司令官は一瞬だけ沈黙した。
しかし、やがて冷たく笑った。
「……ならば、戦い方を変えればよい」
彼は地図の上へ手を伸ばした。
「黒狼と白銀の女帝が強いことは分かった。だが、王国軍全体が強いわけではない」
赤い駒が、要塞の周囲へ並べられる。
「補給を断ち、避難民を足止めし、王国兵を休ませなければいい」
参謀たちの表情が強張った。
「……消耗戦、ですか」
「そうだ」
総司令官は頷いた。
「我々には、まだ兵がいる。敵には一万二千しかいない。黒狼が千人討とうが、別の場所で王国兵を百人失わせれば、奴らの方が先に守備を維持できなくなる」
その計算には、冷酷な合理性があった。
王国軍の兵士は、戦死すれば補充が難しい。
負傷者が増えれば、治療にも人手が必要になる。
そして、避難民を守るためには、戦闘に参加できる兵士を護衛へ回さなければならない。
総司令官は言った。
「奴らが守りたいものを、すべて守らせてやれ」
* * *
会議が終わったあと。
ヴァレリア・ローゼンベルクは、天幕の外で立ち止まっていた。
深紅の髪が、冷たい夜風に揺れる。
「……最悪だ」
彼女は小さく呟いた。
帝国軍は既に、多くの兵士を失っている。
にもかかわらず、総司令官は撤退を考えない。
勝利のためなら、さらに何千人もの兵を犠牲にするつもりなのだ。
「将軍」
副官のディルクが近づいてきた。
「中央軍の再編が完了しました」
「……そうか」
「ですが、兵士たちの士気は低下しています」
ヴァレリアは頷いた。
「当然だ。目の前で味方の軍団が壊滅している」
ディルクは声を落とした。
「兵の間では、黒狼と白銀の女帝は人間ではないという噂まで広がっています」
「……人間だ」
ヴァレリアは即座に答えた。
「彼らは人間だ。だからこそ、あれほど恐ろしい」
ディルクが驚いた顔をする。
ヴァレリアは続けた。
「剣を交えれば分かる。黒狼は力だけで戦っているのではない。兵の動きも、退路も、守るべき場所も、すべて見ていた」
彼女は拳を握りしめた。
「……私たちは、敵の強さを見誤った」
「将軍……」
「そして、今も見誤り続けている」
ヴァレリアは帝国軍の野営地を見渡した。
負傷兵の呻き声が、夜の静寂に混じっている。
その光景に、胸が痛んだ。
「ディルク」
「はっ」
「中央軍の兵には、休息を取らせろ。無理に行軍させるな」
「ですが、総司令官の命令が……」
「責任は私が取る」
ヴァレリアは静かに告げた。
「兵士は、使い捨ての駒ではない」
* * *
同じ夜。
グランフェル要塞。
王国軍の作戦室では、帝国軍の損害をまとめた報告が行われていた。
「東南方面の敵部隊は、事実上消滅しました」
将校の声には、安堵が混じっていた。
「捕虜の収容も進んでおります。敵の補給物資の一部も確保しました」
レオナードは頷いた。
「よし。負傷者の治療は?」
「王国兵を優先しつつ、帝国軍の捕虜にも治療を施しています」
「それでいい」
イザベラも静かに頷く。
「降伏した者は、もう敵ではありません。適切に扱いなさい」
「はっ!」
だが、続く報告で作戦室の空気が変わった。
「……問題は、こちらの損害です」
将校が別の報告書を開いた。
「南方護衛隊の損害に加え、北方の防衛戦でも負傷者が増えています。要塞守備隊の疲労も深刻です」
「食料は?」
「当面の分は確保しています。しかし、避難民の受け入れが増えれば消費は早まります」
「治癒薬は?」
「東方からの輸送が到着しましたが、重傷者への使用が優先され、余裕はありません」
レオナードは腕を組んだ。
「……敵を何万倒しても、こっちの兵が増えるわけじゃねえからな」
イザベラが静かに答える。
「ええ。しかも、私たちは民を守るために兵を分けなければなりません」
将校が地図を指した。
「帝国軍は、既に小部隊を各地へ分散させています。こちらの警戒兵を休ませない狙いでしょう」
レオナードの目が細くなった。
「……ようやく、連中も頭を使い始めたか」
イザベラは小さく息を吐いた。
「厄介ですわね」
「だが、負けるつもりはねえ」
レオナードは大剣を肩に担いだ。
「俺たちがいる限り、要塞は落とさせねえよ」
イザベラは微笑んだ。
「もちろんですわ」
しかし、二人とも理解していた。
自分たちが負けないことと、王国軍が無傷でいられることは違う。
そして、その差こそが、帝国軍の狙いだった。
* * *
深夜。
帝国軍の野営地では、新たな命令が各部隊へ伝えられていた。
『正面での決戦を避けよ』
『王国軍の補給と休息を妨害せよ』
『黒狼と白銀の女帝を各地へ誘導し、守備兵力を分散させよ』
その命令の中には、さらに一つの密命が含まれていた。
『避難民の移動経路を把握し、必要に応じて進軍を妨害せよ』
それは、戦場にいる兵士たちだけでなく、武器を持たない人々まで戦略の道具にする命令だった。
ヴァレリアは、その密命を知った瞬間、静かに目を閉じた。
「……どこまで、堕ちるつもりなのですか」
彼女の声は、夜風に消えた。
帝国軍は敗北を認めない。
王国軍も退くことはできない。
そして戦争は、より陰湿で、より過酷な段階へと進もうとしていた。




