第164話 黒狼と白銀――二人が背負った戦場
ルミナス王国西部、グランフェル要塞。
帝国軍の大規模侵攻が始まってから、二日目の夜。
要塞の城壁には、無数の松明が灯されていた。
その下では、王国軍の兵士たちが慌ただしく動き回っている。
負傷者を運ぶ担架。
血に染まった包帯。
次々と運び込まれる医薬品。
そして、二度と帰らぬ者たちの名前を記録する書記官。
王国軍は、今日も要塞を守り抜いた。
しかし、その代償は決して小さくなかった。
「南方護衛隊、戦死百八十六名。重傷百四十二名。軽傷を含めた損害は四百名を超えます」
作戦室で、王国軍の将校が報告を続ける。
「北方村落群は、イザベラ様の防衛により避難が進んでおります。ただし、第三村の住民約三百名がまだ残っています」
「東方補給路は?」
「帝国軍の軽騎兵が出没しています。輸送隊は迂回を余儀なくされ、到着が遅れております」
レオナードは地図を見つめたまま、腕を組んでいた。
「……そうか」
その声は、普段よりも低かった。
隣に立つイザベラも、静かに目を伏せている。
「南方の兵士たちは、よく耐えましたわ」
「ああ」
レオナードは頷いた。
「八百で一万を相手にして、民を逃がした。たいした連中だ」
将校たちは、誰も口を開かなかった。
それがどれほど凄まじい戦いだったのか、皆が理解していたからだ。
レオナードは静かに続ける。
「……だが、死んだ奴らは戻らねえ」
その言葉に、作戦室の空気が重くなった。
* * *
深夜。
レオナードは要塞の城壁に立っていた。
眼下には、帝国軍の野営地が広がっている。
無数の篝火が、夜の平原を赤く染めていた。
「……眠れませんの?」
背後から、穏やかな声が響いた。
振り返ると、イザベラが立っていた。
銀色の髪が月明かりを受けて輝いている。
「お前こそ」
「私は、少し夜風に当たりたくなっただけですわ」
イザベラは隣に並んだ。
二人はしばらく、何も言わずに帝国軍の野営地を眺めていた。
やがて、レオナードが口を開く。
「……昔を思い出すな」
「ええ」
イザベラは静かに頷いた。
「十二年前の、アストリア渓谷ですわね」
レオナードは苦笑した。
「あのときも、敵の数だけは馬鹿みてえに多かった」
「あなたは敵の本陣へ一人で突撃して、私を随分と困らせましたわ」
「結果的には勝っただろ?」
「ええ。ですが、勝ったからといって、すべてが正しかったわけではありません」
レオナードの笑みが消えた。
十二年前。
アストリア渓谷で起きた国境紛争。
若き日のレオナードとイザベラは、王国軍の一部隊を率いて戦っていた。
敵軍は王国軍の三倍以上。
だが、二人の実力は当時から突出していた。
レオナードは敵の主力を粉砕し、イザベラは巨大な結界で味方を守った。
戦いそのものは、王国軍の勝利に終わった。
しかし。
「……あの村は、守れなかった」
レオナードが低く呟いた。
敵の本陣を討ち取ることに成功した直後、別働隊が渓谷の奥にある村へ侵入した。
二人が駆けつけたときには、既に多くの村人が犠牲になっていた。
「……私たちは、強かった」
イザベラが静かに言った。
「ですが、強いだけでは足りなかったのです」
レオナードは拳を握りしめた。
「ああ。俺たちが敵を倒すことばかり考えていたせいで、守るべき場所を見失った」
「だからこそ、今は違います」
イザベラは彼の手に、そっと自分の手を重ねた。
「私たちは、あのときの過ちを繰り返さないために、ここにいるのですから」
レオナードは静かに頷いた。
「……そうだな」
* * *
そのとき、要塞の鐘が小さく鳴った。
夜間の緊急伝令だった。
将校が城壁へ駆け上がってくる。
「レオナード様! イザベラ様!」
「どうした?」
「帝国軍の動きに変化が!」
将校は息を切らしながら報告した。
「北方の部隊が一部後退しました。しかし、南方と東方の部隊が合流しつつあります!」
イザベラの目が細くなる。
「……補給路を狙うつもりですわね」
「おそらく。さらに、帝国軍の後方では新たな魔導兵部隊が集結しています」
レオナードは帝国軍の野営地を見つめた。
「……なるほどな」
彼は口元を吊り上げた。
「連中、まだ懲りてねえらしい」
イザベラは静かに答える。
「ならば、こちらも手を変える必要がありますわ」
レオナードが振り返る。
「……何か考えがあるのか?」
イザベラは微笑んだ。
「ええ。明日は、少しこちらから仕掛けましょう」
その瞳には、鋭い光が宿っていた。
「敵がこちらの防衛線を分散させるつもりなら、先に敵の連携を断てばよいのです」
レオナードは豪快に笑った。
「……ははっ! いいねえ!」
彼は大剣を肩に担いだ。
「久しぶりに、二人で派手にやるか!」
「ええ。ただし、無闇に突っ込むのは禁止ですわよ」
「分かってるって!」
「本当に?」
「……たぶんな」
イザベラは呆れたようにため息をついた。
だが、その口元には小さな笑みが浮かんでいた。
* * *
翌朝。
グランフェル要塞の作戦室。
レオナードとイザベラは、王国軍の将校たちを集めていた。
「今日の作戦を説明する」
レオナードが地図を指した。
「帝国軍は、南方と東方の部隊を合流させようとしている。狙いは補給路だ」
イザベラが続ける。
「ですが、その合流地点には狭い谷があります。大軍が一度に通るには、不向きな地形です」
彼女は銀色の魔法陣を地図の上へ浮かべた。
「そこで、私が結界を展開し、敵の進軍経路を限定します」
「そして俺が、そこを叩く」
レオナードが笑った。
「敵の指揮系統と主力をまとめて潰す」
将校たちが息を呑んだ。
「……敵兵力は、少なくとも一万五千以上です」
「だから何だ?」
レオナードは平然と答えた。
「敵が何人いようが、俺の剣が届く範囲に集まってくれりゃ話は早い」
イザベラは静かに微笑んだ。
「それに、今回は私も一緒ですもの」
将校たちは顔を見合わせた。
黒狼と白銀の女帝。
二人が本格的に連携して攻勢へ転じる。
その意味を理解した瞬間、作戦室の空気が変わった。
「……勝てる」
一人の将校が呟いた。
「これなら、帝国軍の進軍を止められる……!」
レオナードは頷いた。
「ああ。ただし、忘れるな」
その声が引き締まる。
「俺たちの目的は、敵を何人殺すかじゃねえ」
彼は地図の東側を指した。
「補給路を守り、民を逃がし、王国軍を生き残らせることだ」
イザベラも頷いた。
「敵を討つのは、そのために必要だからです。戦うこと自体が目的になってはいけません」
将校たちは深く敬礼した。
「はっ!」
* * *
作戦会議が終わったあと。
レオナードは城壁へ向かった。
その途中、南方街道から帰還したガレスとすれ違う。
「……レオナード様」
「おう。傷は大丈夫か?」
「はい。まだ動けます」
ガレスは敬礼した。
「南方で倒れた部下たちの名簿を、まとめました」
レオナードはその紙を受け取った。
そこには、百八十六名の名前が並んでいた。
一人一人に、家族がいた。
帰る場所があった。
未来があった。
レオナードは静かに名簿を折り畳んだ。
「……必ず、無駄にはしねえ」
その声には、強い決意が宿っていた。
そして彼は、要塞の外に広がる帝国軍を見据えた。
「……さて」
黒狼は大剣を肩に担いだ。
「そろそろ、こっちの番だ」
王国軍の反撃が、始まろうとしていた。




