第163話 黒狼の怒り――守れなかった命
南方街道。
帝国軍の騎兵たちが、黒い鎧の男を見つめていた。
巨大な大剣を肩に担ぎ、悠然と歩いてくる男。
《黒狼》レオナード・ヴァルディス。
その姿を認めた瞬間、帝国軍の兵士たちの間に動揺が広がった。
「……黒狼だ」
「何で、ここに……!」
「要塞正面にいるはずじゃ……!」
レオナードは答えなかった。
彼の視線は、倒れた王国兵たちへ向けられていた。
血に染まった盾。
折れた槍。
そして、二度と立ち上がらない若い兵士たち。
その中には、避難民の馬車を守ろうとして倒れたエドガーの姿もあった。
「……間に合わなかったか」
レオナードは低く呟いた。
その声には、怒りよりも深い悔しさが滲んでいた。
彼は強い。
帝国軍の一個軍団を相手にしても、容易には負けない。
だが、どれほど強くても、離れた場所で起こるすべての戦いに間に合うわけではない。
それが、戦争だった。
* * *
「……おい」
レオナードは、帝国軍の騎兵たちへ声をかけた。
「お前ら、何をしようとしてた?」
騎兵隊長が剣を構える。
「……王国の兵を討つ。それが我々の任務だ!」
「そうか」
レオナードは静かに頷いた。
「なら、覚悟はできてるんだろうな」
次の瞬間。
彼の身体から、漆黒の魔力が噴き上がった。
大地が震える。
周囲の空気が重くなる。
帝国兵たちは、本能的に後ずさった。
「……な、何だ、この魔力は……!」
レオナードは大剣を構えた。
「――《黒狼烈破》」
漆黒の衝撃波が、騎兵部隊へ襲いかかった。
轟音。
土煙。
そして、兵士たちの悲鳴。
重装騎兵の隊列が、一瞬で崩壊した。
鎧が砕け、武器が折れ、兵士たちが次々と倒れる。
数百騎を誇った騎兵部隊は、わずか一撃で戦闘能力を失った。
レオナードは大剣を肩に担いだ。
「……次だ」
彼の視線が、森の向こうに控える帝国軍本隊へ向けられた。
* * *
帝国軍南方部隊。
バルド将軍は、前線から届いた報告に耳を疑った。
「……黒狼が来ただと!?」
「はい! 騎兵部隊が壊滅しました!」
「馬鹿な! 奴は要塞正面にいるはずだ!」
副官が震える声で答える。
「正面の王国軍が、帝国中央軍を押し返したようです。その隙に黒狼が移動したものと……!」
バルドは拳を握りしめた。
「……くそっ!」
彼はすぐさま命令を下した。
「全軍、迎撃態勢!」
しかし、その命令が伝わるより早く、森の向こうから黒い斬撃が飛んできた。
轟音。
前線の盾兵が、まとめて吹き飛ばされる。
「うわあああっ!」
「陣形が崩れます!」
レオナードが、帝国軍本隊へ突入した。
大剣が振るわれるたびに、兵士たちが倒れていく。
剣を構えた者は斬り伏せられ、魔法を放とうとした者は衝撃波に飲み込まれる。
その進撃を止められる者は、一人もいなかった。
「……化け物め!」
バルドが叫ぶ。
レオナードはその声を聞き、顔を上げた。
「……お前が指揮官か」
バルドは剣を抜いた。
「帝国軍南方部隊将軍、バルド・ガイゼン! 貴様を討ち取って――!」
その言葉が終わる前に、レオナードが踏み込んだ。
一瞬。
黒い斬撃が走る。
バルドの剣が砕け、鎧が裂けた。
「……なっ……」
将軍の身体が崩れ落ちる。
帝国軍南方部隊の指揮官は、たった一合で討ち取られた。
周囲の兵士たちは、呆然と立ち尽くした。
「……バルド将軍が……」
「一撃で……?」
レオナードは静かに告げた。
「指揮官は倒した。まだ戦う奴は前へ出ろ」
誰も動かなかった。
やがて、一人の帝国兵が剣を地面へ落とした。
続いて、別の兵士も武器を捨てる。
「……降伏する」
「俺たちは、もう……!」
レオナードは彼らを見渡した。
「……分かった。武器を捨てた奴には手を出さねえ」
その言葉に、帝国兵たちは安堵したように膝をついた。
戦闘は終わった。
だが、失われた命が戻ることはなかった。
* * *
南方街道。
ガレスは、残った兵士たちを集めていた。
八百人いた護衛兵は、戦死・負傷・行方不明を合わせて四百人以上の損害を受けていた。
生き残った兵士たちは、疲れ果てた表情で座り込んでいる。
レオナードが歩み寄る。
「……よく耐えたな」
ガレスは敬礼した。
「申し訳ありません。多くの部下を失いました」
「謝るな」
レオナードは静かに答えた。
「お前たちは、守るべきものを守った」
ガレスの目が揺れた。
「……ですが、もっと早く援軍が来ていれば……」
その言葉に、レオナードは何も答えなかった。
自分も、同じことを考えていたからだ。
もっと早く来ていれば。
正面の敵を、もっと早く片付けていれば。
別の判断をしていれば。
だが、戦場に「もしも」はない。
レオナードは、倒れた兵士たちへ視線を向けた。
「……あいつらの名前を、全員記録しておけ」
ガレスが顔を上げる。
「はっ」
「家族にも、きちんと伝えろ。こいつらが何を守って死んだのかを」
ガレスは唇を噛み、深く頭を下げた。
「……承知しました」
* * *
同じ頃。
北方村落群。
イザベラは、帝国軍一万五千を相手に防衛戦を続けていた。
銀色の結界が村々を覆い、帝国軍の魔法攻撃を防いでいる。
その外側では、銀色の光の刃が次々と敵軍へ降り注いでいた。
《白銀流星雨》
魔力弾が帝国軍の隊列を貫き、前線部隊を壊滅させる。
戦死者と負傷者が続出し、帝国軍は進軍を止めざるを得なかった。
「……これ以上、進ませませんわ」
イザベラは静かに告げた。
だが、そのとき。
遠方の森から、別の帝国軍部隊が現れた。
「……まだ、いましたのね」
彼女の銀色の瞳が細くなる。
敵は、正面から突破するつもりではない。
村々を取り囲み、避難路を断とうとしている。
イザベラは通信魔法を展開した。
『レオナード。南方はどうなりました?』
すぐに返事が届く。
『片付いた。だが、王国軍の損害が大きい』
『……そうですか』
短い沈黙。
イザベラは静かに目を閉じた。
『こちらも敵の増援が来ています。北方の村はまだ避難が完了していません』
『俺が向かうか?』
『いいえ。あなたは要塞へ戻ってください』
レオナードが黙る。
『……正面の防衛線が薄くなっています。これ以上、要塞を空けるわけにはいきません』
『……分かった』
通信が切れる。
イザベラは、眼下の村を見つめた。
そこには、まだ多くの民が残っている。
そして、遠方には新たな帝国軍が迫っていた。
「……守り抜きますわ」
彼女は静かに呟いた。
「たとえ、どれほどの軍勢が来ようとも」
銀色の魔法陣が、再び空へ広がった。
だが、帝国軍の攻撃は終わらない。
北方。
南方。
東方。
そして、要塞正面。
戦場は、確実に広がり続けていた。
黒狼と白銀の女帝は、決して負けていない。
それでも、王国軍の兵士たちは命を落としている。
その現実こそが、戦争の残酷さだった。
そして、この戦いの記録は、やがて一人の少年へ伝えられることになる。
レオンハルト・ヴァルディス。
誰よりも優しく、誰よりも強大な力を持つ少年。
彼が戦場へ立つとき、初めて知ることになるのだ。
――敵を倒す力があるだけでは、すべての命を守れないということを。




