第162話 南方街道の死闘――八百の盾
ルミナス王国西部、南方街道。
森を切り開いて造られた街道には、数百台の馬車が長い列を作っていた。
荷台に身を寄せ合う老人たち。
幼い子供を抱き締める母親。
そして、何度も故郷の方角を振り返る村人たち。
彼らは戦争から逃れてきた、ごく普通の人々だった。
だが、その平穏な暮らしを奪った帝国軍が、今まさに森の向こうから押し寄せていた。
「盾兵、前へ!」
王国軍南方護衛隊長、ガレス・オルディンの怒号が響く。
四十二歳。
幾度もの国境紛争を経験してきた歴戦の騎士だった。
彼の率いる護衛兵は八百。
対する帝国軍は一万。
兵力差は十二倍以上。
まともにぶつかれば、勝ち目などない。
それでも、ガレスは剣を抜いた。
「ここから先には、王国の民がいる!」
彼は背後の馬車を振り返った。
「我々が退けば、あの者たちは逃げられん!」
兵士たちが盾を構える。
「ならば、この街道を我らの最後の防壁とする!」
「おおおおっ!」
王国軍の雄叫びが森に響き渡った。
* * *
帝国軍南方部隊。
指揮官のバルド将軍は、前方に展開する王国軍を見て鼻で笑った。
「……八百か」
副官が頷く。
「はい。こちらは一万。正面から押し潰せます」
「よし。第一陣三千を投入しろ」
バルドは馬上から街道を眺めた。
「避難民の馬車は押さえろ。連中を確保すれば、黒狼も白銀の女帝も自由には動けまい」
「抵抗する護衛兵は?」
「排除しろ」
その命令は冷酷だった。
やがて、帝国軍の進軍太鼓が鳴り響く。
三千の歩兵が、森の出口から一斉に姿を現した。
「突撃!」
地面が震えた。
帝国軍の兵士たちが、盾と槍を構えて押し寄せる。
ガレスは剣を掲げた。
「弓兵、放て!」
王国軍の矢が一斉に放たれた。
先頭の帝国兵が倒れる。
続いて、魔導兵たちが炎と雷の魔法を放った。
爆発が起こり、帝国軍の隊列が乱れる。
しかし、敵の進軍は止まらなかった。
「第二射!」
「撃て!」
再び矢が降り注ぐ。
だが、倒れた兵士の後ろから、次々と新たな帝国兵が現れる。
ガレスは歯を食いしばった。
「……やはり、数が違いすぎるか」
それでも、退くわけにはいかなかった。
* * *
最初の衝突は、凄まじいものだった。
帝国軍の槍兵が王国軍の盾へ突撃する。
金属音。
悲鳴。
剣と槍が激しくぶつかり合う。
「押し返せ!」
「盾を崩すな!」
王国軍の兵士たちは必死に耐えた。
だが、帝国軍は次々と兵を投入してくる。
盾兵の一人が槍に貫かれ、倒れた。
「ロイド!」
隣の兵士が叫ぶ。
倒れた若い兵士は、震える手で仲間の腕を掴んだ。
「……後ろを……頼む……」
その言葉を最後に、彼の手から力が抜けた。
仲間の兵士は唇を噛み、再び盾を構えた。
「……絶対に、通さねえ!」
彼の目には涙が浮かんでいた。
だが、剣を握る手は震えていなかった。
* * *
街道の後方。
避難民たちは、戦闘の音を聞きながら必死に馬車を進めていた。
「急いで!」
「車輪がぬかるみに!」
荷馬車の一台が泥にはまり、動けなくなっていた。
若い母親が、幼い娘を抱き締める。
「お母さん……怖い……」
「大丈夫よ。兵隊さんたちが守ってくれているから」
母親はそう答えた。
だが、その声は震えていた。
娘は母親の胸に顔を埋める。
「……おうちに帰りたい」
その言葉に、母親は何も答えられなかった。
彼女たちの故郷は、既に帝国軍の進軍経路に入っていた。
もう、以前のような日常へ戻れる保証などなかった。
* * *
戦闘開始から一時間。
王国軍の防衛線は、徐々に押し込まれていた。
「隊長! 左翼が突破されそうです!」
「予備兵を回せ!」
「予備兵は、もう……!」
副官の言葉に、ガレスは顔を歪めた。
八百人いた兵士は、既に五百人を下回っていた。
戦死者。
負傷者。
行方不明者。
戦場には、数え切れないほどの犠牲が出ていた。
それでも、帝国軍の兵力はまだ十分に残っている。
「……くそっ」
ガレスは剣を握り直した。
「あと少し……あと少しで、民が逃げ切れる……!」
そのとき、帝国軍の新たな部隊が森から現れた。
重装騎兵。
数百騎の騎兵が、王国軍の左翼へ向かって突撃してくる。
「騎兵だ!」
「左翼が持ちません!」
ガレスは即座に叫んだ。
「槍兵、前へ!」
だが、槍兵は既に多くが倒れていた。
残った兵士たちが必死に隊列を組む。
しかし、重装騎兵の突撃は凄まじかった。
盾が砕ける。
兵士たちが吹き飛ばされる。
防衛線に、大きな穴が開いた。
「突破された!」
帝国軍の騎兵が、避難民の馬車へ向かって駆け出す。
ガレスは叫んだ。
「止めろ!」
だが、間に合わない。
騎兵たちは、既に馬車の列へ迫っていた。
* * *
そのとき。
一人の若い王国兵が、騎兵の前へ飛び出した。
名はエドガー。
まだ十八歳の新兵だった。
彼は槍を構え、馬車の前に立ちはだかった。
「……ここは、通さない!」
騎兵が剣を振り上げる。
エドガーは必死に槍を突き出した。
だが、重装騎兵の勢いを止めることはできなかった。
剣が振り下ろされる。
エドガーの身体が地面へ倒れた。
その背後で、母親が悲鳴を上げる。
「いやあああっ!」
幼い娘が泣き叫ぶ。
騎兵は、さらに馬車へ迫った。
その瞬間。
遠方から、黒い光が空を裂いた。
轟音。
漆黒の衝撃波が、騎兵部隊の前方へ叩き込まれた。
大地が裂け、馬が悲鳴を上げる。
騎兵たちが次々と吹き飛ばされた。
「な、何だ!?」
帝国軍の兵士たちが顔を上げる。
森の向こう。
黒い魔力をまとった男が、ゆっくりと歩いてきた。
巨大な大剣。
漆黒の鎧。
そして、獰猛な笑み。
「……悪いな」
男は低く呟いた。
「ちょっと遅れちまった」
ガレスの目が大きく見開かれる。
「……レオナード様……!」
《黒狼》レオナード・ヴァルディス。
王国最強の剣士の一角が、南方街道へ到着したのだった。




