第160話 紅蓮の誇り――敗北の先に見えたもの
ヴァルガルド帝国軍、中央野営地。
日が西へ傾き始めた頃、ヴァレリア・ローゼンベルクは野戦病院の天幕を訪れていた。
周囲には薬草と血の匂いが漂っている。
寝台には負傷した兵士たちが横たわり、治癒術師たちが休む間もなく治療を続けていた。
「将軍……!」
入口近くにいた若い兵士が、慌てて起き上がろうとした。
「そのままでいい」
ヴァレリアは静かに制した。
「傷を悪化させるな」
兵士は恐縮したように頭を下げる。
「申し訳ありません……我々がもっと強ければ……」
「謝るのは私の方だ」
ヴァレリアは彼の寝台の傍らに膝をついた。
「お前たちを戦場へ連れていったのは、私だ」
若い兵士は首を横に振った。
「将軍は、俺たちを守ってくださいました」
「……」
「黒狼と戦っているときだって、俺たちを前に出さなかった。だから、こうして生きています」
ヴァレリアは答えられなかった。
自分は黒狼に敗れた。
それも、決して僅差ではない。
あの男は最後まで余力を残していた。
剣技も、魔力も、戦場を見る目も。
何もかもが違っていた。
それでも、目の前の兵士は自分に感謝している。
その事実が、胸に重くのしかかった。
「……必ず、全員を故郷へ帰す」
ヴァレリアは静かに告げた。
兵士は弱々しく笑った。
「はい。信じています、将軍」
* * *
野戦病院を出ると、副官のディルクが待っていた。
ヴァレリアより十歳ほど年上の、実直な騎士だった。
「将軍。中央軍の損害がまとまりました」
「報告してくれ」
「戦死四十七、重傷百三十二、軽傷二百余。大半は黒狼との交戦に伴う衝撃と、後退時の混乱によるものです」
ヴァレリアは目を閉じた。
四十七。
数だけを見れば、第一軍団の損害に比べれば少ない。
だが、その一つ一つに人生があった。
家族がいて、故郷があって、帰りを待つ者がいる。
「……遺族への報告は、私の名で出す」
「承知しました」
「それと、戦死者の名前を全員分、書き出しておいてくれ」
ディルクが驚いた顔をする。
「将軍ご自身が確認されるのですか?」
「ああ」
ヴァレリアは迷わず答えた。
「命令を出した者が、失われた命を数字だけで覚えていてはならない」
ディルクはしばらく黙り、深く頭を下げた。
「……御意」
* * *
帝国軍総司令部。
夜を迎えた作戦天幕には、重苦しい空気が漂っていた。
中央の卓上には、王国西部の地図が広げられている。
グランフェル要塞を中心に、いくつもの赤い駒が配置されていた。
「黒狼と白銀の女帝。この二人がいる限り、正面突破は困難だ」
総司令官が告げた。
「だが、二人に八万の軍勢すべてを相手にすることはできん」
参謀が地図の南側を指し示す。
「南方の別働隊五千は、白銀の女帝によって阻止されました。現在、残存部隊を再編しております」
「損害は?」
「戦死・負傷・行方不明を合わせて約千五百。残る部隊も統制を失い、後退しています」
総司令官の顔が歪んだ。
「……またしても、あの女か」
そこへ、ヴァレリアが入室した。
「中央軍、帰還いたしました」
「ご苦労だったな、ローゼンベルク将軍」
総司令官の声には、皮肉が混じっていた。
「黒狼との一騎討ちは、随分と見事な敗北だったそうではないか」
ヴァレリアは真っ直ぐに答えた。
「はい。私の力は及びませんでした」
周囲の将校たちがざわめく。
だが、彼女は続けた。
「だからこそ申し上げます。これ以上、黒狼と白銀の女帝へ正面から兵をぶつけるべきではありません」
「その程度のことは分かっている」
総司令官は地図を叩いた。
「明日から作戦を変更する」
赤い駒が、北と南へ大きく広げられた。
「北方の村落群へ二個軍団。南方街道へ一個軍団。中央は要塞を牽制し、東側の補給路には軽騎兵を投入する」
ヴァレリアの眉が動いた。
「……村落群?」
「そうだ。王国軍は民を守らねばならん。ならば、そこを攻めればよい」
「民間人を攻撃するおつもりですか?」
総司令官は冷たく笑った。
「戦争だぞ、将軍」
「だからといって、無抵抗の民を標的にすることは許されません」
ヴァレリアの声が鋭くなる。
「我々は軍人です。武器を持たぬ者を襲うために剣を取ったのではありません!」
天幕が静まり返った。
総司令官はゆっくりとヴァレリアを見つめた。
「……随分と立派な理想だな」
「理想ではありません。軍の規律です」
「規律で勝てるなら苦労はせん」
総司令官は立ち上がった。
「お前の任務は中央軍を率いて要塞を牽制することだ。余計な口を出すな」
ヴァレリアは拳を握りしめた。
ここで命令を拒めば、指揮権を奪われる可能性がある。
そうなれば、自分の兵士たちを守ることすら難しくなる。
「……承知しました」
絞り出すように答え、彼女は天幕を後にした。
* * *
夜風が冷たかった。
ヴァレリアは野営地の外れで足を止めた。
「……戦争だから、か」
総司令官の言葉が頭から離れない。
戦争で人が死ぬことは理解している。
自分自身、これまで幾人もの敵兵を討ってきた。
それを悔やむだけでは、将軍など務まらない。
だが、武器を持たない民を狙うことまで、戦争の名で正当化してよいのだろうか。
彼女の脳裏に、黒狼の言葉が蘇った。
『戦場は、決闘場じゃねえ』
『お前にも守るべき連中がいるんだろ?』
ヴァレリアは空を見上げた。
「……あの男は、分かっていたのか」
自分が何を守るために戦うのか。
その答えを。
ディルクが静かに近づいてきた。
「将軍。明日の作戦ですが……」
「ああ。聞いている」
「北方の村には、まだ避難民が残っているそうです」
ヴァレリアは目を閉じた。
そして、決意したように口を開く。
「ディルク。中央軍には厳命しろ」
「はっ」
「降伏した敵兵と民間人への攻撃を禁じる。違反した者は、私が裁く」
「……承知しました」
「それから、北方部隊の指揮官に通じる者を探してくれ。避難民を攻撃すれば帝国軍の名誉を失うと、警告を送る」
ディルクは一瞬だけ驚き、やがて頷いた。
「手配します」
ヴァレリアは西の夜空を見つめた。
その向こうには、黒狼と白銀の女帝が守る要塞がある。
「……レオナード・ヴァルディス」
彼女は静かに呟いた。
「次に剣を交えるときまでに、私は将軍としての答えを見つけてみせる」
紅蓮の女将軍は、まだ知らなかった。
翌朝、帝国軍が開始する作戦が、彼女の信念をさらに激しく揺さぶることを。




