第159話 黒狼の剣、紅蓮の誇り
グランフェル要塞前方。
黒い魔力と紅蓮の炎が、平原で激しくぶつかり合っていた。
ヴァレリア・ローゼンベルクは、既に十数合の剣を交えていた。
しかし、その表情には焦りが浮かんでいる。
「はあっ!」
炎をまとった剣が、鋭く振り抜かれる。
レオナードは大剣で受け止めた。
甲高い金属音が響く。
ヴァレリアは間髪入れずに追撃した。
上段。
中段。
そして、足元を狙う低い斬撃。
いずれも帝国屈指の剣士として鍛え上げた技だった。
だが。
「……遅え」
レオナードの大剣が動いた。
次の瞬間、ヴァレリアの剣が大きく弾き上げられる。
「っ!」
彼女は咄嗟に後方へ跳んだ。
直後、漆黒の斬撃が地面を抉った。
もし回避が一瞬でも遅れていれば、彼女の身体は鎧ごと断ち切られていただろう。
「……なんという剣圧」
ヴァレリアは荒い息を吐いた。
対するレオナードは、まったく息を乱していない。
「どうした? もう終わりか?」
「……まだです!」
ヴァレリアは剣を構え直した。
彼女の背後では、三千の帝国兵が固唾を呑んで見守っていた。
彼らにとって、ヴァレリアは誇りだった。
若くして将軍となり、数々の戦場で勝利を収めてきた英雄。
その彼女が、今まさに圧倒されている。
「……将軍が」
「押されている……?」
兵士たちの間に動揺が広がる。
しかし、ヴァレリアは退かなかった。
彼女には、守るべき誇りがあった。
そして、背負うべき兵士たちの命があった。
* * *
「――《紅蓮烈火陣》!」
ヴァレリアが地面へ剣を突き立てた。
巨大な炎の魔法陣が展開され、レオナードの周囲を取り囲む。
次の瞬間、無数の火柱が噴き上がった。
灼熱の炎が黒狼を包み込む。
「今だ!」
帝国軍の兵士たちが叫ぶ。
しかし。
「……ぬるいな」
炎の中心から、低い声が響いた。
次の瞬間、漆黒の魔力が爆発する。
《黒狼烈破》
黒い衝撃波が四方へ広がり、炎の魔法陣を一瞬で吹き飛ばした。
「なっ……!」
ヴァレリアは目を見開いた。
レオナードは炎の中から、何事もなかったように姿を現した。
鎧には焦げ跡一つない。
「魔法も悪くねえ。だが、俺を倒すには火力が足りねえな」
彼は大剣を肩に担いだ。
「……そろそろ、俺からも行くぜ」
その言葉と同時に、レオナードの姿が消えた。
「……っ!?」
ヴァレリアは反射的に剣を構えた。
だが、次の瞬間には、黒狼が目の前にいた。
大剣が振り下ろされる。
ヴァレリアは必死に受け止めた。
――轟音。
地面が陥没した。
衝撃が両腕を貫き、膝が折れそうになる。
「ぐっ……!」
「ほう。受けたか」
レオナードは感心したように笑った。
「たいしたもんだ」
しかし、次の一撃はさらに速かった。
大剣が横薙ぎに振るわれる。
ヴァレリアは剣で防いだが、衝撃に耐えきれず後方へ吹き飛ばされた。
地面を転がり、ようやく剣を突き立てて止まる。
「……くっ!」
口元から血が流れた。
それでも、彼女は立ち上がった。
レオナードの表情が、わずかに変わる。
「……まだ立つか」
「当然です……!」
ヴァレリアは震える腕で剣を構えた。
「私は、帝国軍の将軍……!」
彼女の背後には、三千の兵士がいる。
彼らを置いて逃げることなどできなかった。
* * *
グランフェル要塞の城壁。
王国軍の将校が、遠眼鏡を覗いていた。
「……レオナード様が優勢です!」
「帝国の女将軍、相当な使い手ですが……」
「相手が悪すぎる」
兵士たちは安堵の表情を浮かべた。
そのとき、銀色の通信魔法が現れた。
『レオナード。聞こえますか?』
「おう、イザベラ」
『敵の動きが妙です。中央軍の一部が、あなたとの戦闘中に移動を始めています』
レオナードの目が細くなる。
「……どっちだ?」
『南側です。補給路に向かう可能性があります』
「なるほどな」
レオナードは、目の前のヴァレリアを見つめた。
彼女は真正面から戦っている。
卑怯な策を好むようには見えない。
だが、帝国軍全体が同じ考えとは限らない。
「……お嬢ちゃん」
レオナードが口を開いた。
「お前、自分の軍が何をやってるか知ってるか?」
「……何のことです?」
「南側に別働隊が動いてる」
ヴァレリアの表情が変わった。
「……南側?」
「村と補給路がある方向だ」
その言葉に、ヴァレリアは一瞬だけ息を呑んだ。
彼女は総司令官から、中央軍の指揮を任されていた。
しかし、南側への別働隊については何も聞かされていない。
「……まさか」
嫌な予感が胸をよぎる。
総司令官の言葉が蘇った。
『黒狼の足を止めるだけでも構わん』
あの言葉の意味を、ようやく理解した。
「……私は、囮にされたのか」
ヴァレリアは低く呟いた。
レオナードは彼女を見つめた。
「……どうやら、知らなかったみてえだな」
彼は大剣を下ろした。
「お前さんの剣は嫌いじゃねえ。だが、戦場じゃ上の連中の考えまで見抜かなきゃ、部下を守れねえぞ」
ヴァレリアは唇を噛んだ。
悔しさが胸に広がる。
自分は黒狼に挑み、帝国軍の誇りを守ろうとした。
しかし、その戦いさえ、総司令官の策に利用されていたのだ。
* * *
帝国軍南方別働隊。
五千の兵士が、森に沿って密かに進軍していた。
目標は、王国軍の補給路。
そして、その先にある避難民の集結地点。
「中央軍が黒狼を引きつけている!」
「今のうちに進め!」
指揮官が叫ぶ。
彼らの前方には、荷馬車の列が見え始めていた。
食料。
医薬品。
そして、避難する民間人たち。
戦場から逃れようとする人々だった。
「……見つけたぞ」
別働隊の指揮官が笑う。
「補給路を断ち、避難民を押さえれば、黒狼も白銀の女帝も動かざるを得まい」
兵士たちは武器を構えた。
だが、その瞬間。
空から銀色の光が降り注いだ。
「……何だ!?」
巨大な魔法陣が、南方の空に浮かび上がっていた。
その中心に、銀髪の女性が立っている。
《白銀の女帝》イザベラ・シルヴェイン。
「……まったく」
彼女は冷たい瞳で帝国軍を見下ろした。
「どこまで愚かなことを繰り返すおつもりですの?」
次の瞬間、銀色の魔力が大地を覆った。
《白銀断罪陣》
巨大な光の刃が、帝国軍の先頭部隊へ降り注ぐ。
轟音とともに地面が裂け、兵士たちが次々と倒れた。
「うわあああっ!」
「敵襲! 白銀の女帝だ!」
「撤退しろ! 撤退――!」
しかし、既に遅かった。
イザベラの魔法は、逃走路を含めた戦場全体を正確に制圧していた。
前進すれば斬撃。
側面へ逃れようとすれば、銀色の結界が行く手を阻む。
部隊は瞬く間に混乱した。
イザベラは静かに告げた。
「王国の民を脅かす者に、容赦するつもりはありません」
その声には、怒りが宿っていた。
* * *
同じ頃。
レオナードはヴァレリアへ向き直った。
「……さて、お嬢ちゃん」
彼は大剣を構え直した。
「俺は、そろそろ要塞に戻らなきゃならねえ」
ヴァレリアは剣を握りしめた。
「……まだ、勝負は終わっていません」
「そうだな」
レオナードは頷いた。
「だが、戦場は決闘場じゃねえ」
その言葉に、ヴァレリアの瞳が揺れた。
「俺には守るべき連中がいる。お前にもいるんだろ?」
彼は帝国軍の兵士たちへ視線を向けた。
「だったら、まずはそいつらを生きて帰すことを考えな」
ヴァレリアは何も言えなかった。
レオナードは大剣を肩へ戻した。
「……次に会うときまで、もっと強くなっとけ」
そう言い残し、彼は要塞へ向かって歩き出した。
ヴァレリアは、その背中を見つめていた。
追いかけようと思えば、追いかけられる。
だが、剣を振るうことはできなかった。
それは恐怖だけが理由ではない。
黒狼の言葉が、彼女の胸に深く突き刺さっていたからだ。
――戦場は、決闘場ではない。
ヴァレリアはゆっくりと剣を下ろした。
「……全軍、後退」
副官が驚いて顔を上げる。
「将軍!?」
「これ以上、無意味な犠牲を出す必要はない」
ヴァレリアは静かに告げた。
「負傷者を収容し、陣形を立て直す。私たちは、まだ戦争の途中にいるのだから」
副官は一瞬だけ彼女を見つめ、やがて敬礼した。
「……はっ!」
帝国軍中央部隊が、ゆっくりと後退を始める。
その姿を、レオナードは振り返ることなく見送った。
黒狼の剣は、紅蓮の女将軍を圧倒した。
だが、彼女の誇りまでは砕かなかった。
そして、この戦いはヴァレリアに、一つの問いを残した。
――将軍として、本当に守るべきものは何なのか。
その答えを、彼女はまだ知らなかった。




