第156話 黒狼咆哮――一騎、万軍を退ける
ルミナス王国西部、グランフェル要塞前方。
春の朝霧が晴れた平原に、帝国軍の軍旗が果てしなく連なっていた。
重装歩兵、騎兵、魔導兵、攻城兵器。
八万の大軍を誇るヴァルガルド帝国は、開戦初日から圧倒的な物量を投入していた。
その先鋒に立つ第一軍団は、既に予想外の損害を受けていた。
原因は、たった一人。
黒い鎧をまとい、巨大な剣を肩に担ぐ男。
《黒狼》レオナード・ヴァルディス。
帝国軍の進軍を阻むように立つその姿は、巨大な軍勢を前にしても微動だにしなかった。
「……どうした。もう来ねえのか?」
レオナードの声が戦場に響く。
その足元には、折れた槍や砕けた盾が散乱していた。
そして、その向こうには、先ほどの戦闘で倒れた帝国兵たちの姿がある。
負傷して動けない者。
仲間に肩を貸されて後退する者。
そして、二度と立ち上がることのない者。
ここは訓練場ではない。
互いの命を懸けた戦場だった。
「敵は一人だぞ! 何を怯んでいる!」
帝国軍第一軍団の指揮官が怒鳴る。
しかし、前線の兵士たちは容易に動けなかった。
彼らは見てしまったのだ。
黒狼の一振りが、どれほど多くの命を奪うのかを。
* * *
「第二波、前進!」
指揮官の命令で、数千の重装歩兵が一斉に動き出した。
巨大な盾を並べ、その隙間から長槍を突き出す。
後方の魔導兵が防御結界を重ね、騎兵が左右から包囲を狙う。
単独の敵を相手にするには、過剰ともいえる陣形だった。
だが、レオナードは口元を吊り上げた。
「……なるほど。少しは考えたな」
大剣を両手で握る。
黒い魔力が刃を包み込み、周囲の空気が震え始めた。
「だがよ」
レオナードは一歩踏み込んだ。
「俺を止めるには――まだ足りねえ!」
《黒狼震天斬》
漆黒の斬撃が、大地を裂くように走った。
最前列の盾が砕け散る。
重装歩兵の隊列が崩れ、衝撃波がその後方へ突き抜けた。
防御結界は次々と破壊され、騎兵部隊の進路まで巻き込まれる。
轟音とともに土煙が舞い上がった。
「ぐあああっ!」
「盾陣が……!」
「後退しろ! 後退――!」
命令は最後まで届かなかった。
斬撃が通過した場所では、多くの帝国兵が倒れ、第一軍団の第二波は一瞬で戦闘能力を失った。
戦死者と負傷者が続出し、指揮系統も混乱する。
レオナードは静かに大剣を下ろした。
「……戦争を仕掛けてきた以上、覚悟はしてもらうぜ」
その声には、先ほどまでの豪快な笑みとは違う冷たさがあった。
彼は敵を殺すことに喜びを感じる男ではない。
だが、敵軍が王国へ侵攻し、家族や民を脅かすなら、迷わず剣を振るう。
それが、戦場を知る男の覚悟だった。
* * *
帝国軍後方。
「第一軍団第二波、壊滅!」
「戦死者多数! 負傷者の収容が追いつきません!」
「魔導兵部隊も半数以上が戦闘不能です!」
報告を受けた指揮官は、信じられないという表情を浮かべた。
「……たった一人で?」
参謀が青ざめた顔で頷く。
「はい。敵は、黒狼レオナードただ一人です」
指揮官は震える手で地図を握りしめた。
八万の大軍。
圧倒的な兵力差。
それなのに、先鋒の一角がわずかな時間で崩壊した。
「……化け物め」
その言葉は、誰にも否定できなかった。
* * *
グランフェル要塞の城壁。
王国軍の兵士たちは、目の前の光景に息を呑んでいた。
「……あれが、黒狼」
「帝国軍の重装歩兵が、あんなに簡単に……」
「レオナード様がいる限り、正面は突破されないぞ!」
兵士たちの士気が一気に高まる。
その様子を見つめながら、イザベラ・シルヴェインは静かに微笑んだ。
「当然ですわ。あの人は昔から、戦場では誰よりも頼りになりますもの」
銀色の髪が風に揺れる。
しかし、彼女の視線はすぐに北方へ向けられた。
そこには、帝国軍の騎兵部隊が密かに移動する姿があった。
「……やはり、別働隊を動かしましたわね」
イザベラは小さく息を吐く。
「正面で勝てないなら、他を狙う。予想どおりです」
彼女は指先に銀色の魔法陣を展開した。
『レオナード。北方の丘陵地帯に敵の騎兵が向かっています』
すぐに返事が届く。
『分かった。俺が行くか?』
『いいえ。正面はあなたにお任せします。北側は私が対処しますわ』
『……了解。頼んだぜ』
『ええ。そちらもお気をつけて』
通信が切れる。
イザベラは城壁の兵士たちへ向き直った。
「皆さん。北方の避難路を守りに行きます」
「はっ!」
その声には、迷いがなかった。
* * *
帝国軍本陣。
総司令官の前には、次々と損害報告が積み上げられていた。
「第一軍団、損害甚大!」
「先鋒の再編には時間を要します!」
「要塞正面の突破は、現状では不可能です!」
総司令官は拳を握りしめた。
「……八万の兵を集めて、たった一人に止められるだと?」
その声には、怒りよりも困惑が滲んでいた。
そこへ、一人の女性将軍が進み出た。
深紅の長髪。
金色の瞳。
帝国軍若手将軍、ヴァレリア・ローゼンベルク。
「閣下。これ以上の正面攻撃は、兵を無駄に失うだけです」
「……ならば、どうしろと言う?」
「まずは態勢を立て直すべきです。黒狼の戦闘能力は、事前の想定を遥かに上回っています」
総司令官は彼女を睨んだ。
「お前なら勝てるのか?」
ヴァレリアは静かに答えた。
「……勝利を約束することはできません」
その言葉に、周囲の将軍たちがざわめいた。
だが、ヴァレリアは続けた。
「だからこそ、無策で兵を失わせるべきではないのです」
総司令官はしばらく黙っていたが、やがて冷たく言った。
「ならば、次の攻撃ではお前が前線を指揮しろ」
「……承知しました」
ヴァレリアは頭を下げた。
その瞳には、恐怖ではなく覚悟が宿っていた。
* * *
戦場の中央。
帝国軍が後退していく。
レオナードは大剣を肩に担ぎ、その背中を見送った。
追撃すれば、さらに多くの敵を討てるだろう。
だが、要塞の防衛線を離れすぎれば、敵の別働隊に隙を与える。
「……まったく。面倒な戦争を始めやがって」
レオナードは低く呟いた。
その足元には、激戦の痕跡が広がっていた。
帝国軍は確かに兵力を失った。
しかし、八万という大軍は、まだその大半を残している。
そして敵は、黒狼を倒すことだけを考えているわけではなかった。
「……来るなら来い」
レオナードは要塞の背後に広がる王国領を振り返った。
「俺たちの守るものには、指一本触れさせねえ」
黒狼の戦いは、まだ始まったばかりだった。




