第155話 黒狼と白銀の女帝、国境に立つ
第四章『黒獅子の戦旗――七星の公爵令息と帝国戦争』
王都を揺るがした黒翼事件が終結し、レオンハルト・ヴァルディスは束の間の平穏を取り戻した。
しかし、西方の軍事大国ヴァルガルド帝国が、ルミナス王国の国境へ八万の大軍を集結させる。
国境要塞を守るのは、《黒狼》レオナード・ヴァルディスと《白銀の女帝》イザベラ・シルヴェイン。
二人の個の力は、帝国の将軍たちを遥かに凌駕する。
だが、帝国軍はその強さを承知したうえで、兵力差と広大な国境線を利用した非情な作戦を進めようとしていた。
守るべき要塞。
避難する村人たち。
戦場に散らばる無数の命。
圧倒的な強さだけでは、すべてを同時に守れない。
そんな窮地へ駆けつけるのは、《黒獅子》アルフォンス、《銀月の魔女》エレオノーラ、そして七属性を操る公爵令息レオンハルト。
一方、帝国には戦争を望まない第一皇女アナスタシアと、誇り高き若き女将軍ヴァレリアがいた。
敵国に生まれた二人の女性との出会いは、やがてレオンハルトの運命を大きく変えていく。
これは、一人の少年が家族と共に戦場へ立ち、国境を越えて人々の心を動かしていく物語。
――第四章、開幕。
ルミナス王国西部。
ヴァルガルド帝国との国境にそびえるグランフェル要塞は、王国西方防衛の要だった。
巨大な城壁。
幾重にも張り巡らされた防護結界。
そして、要塞の背後に広がる豊かな農村地帯。
ここが突破されれば、帝国軍は王国西部の平野へ雪崩れ込むことになる。
そのため、王国は一万二千の兵をこの要塞へ集結させていた。
だが、国境の向こうには、その六倍以上の軍勢が待ち構えていた。
帝国軍、八万。
その陣地は地平線の彼方まで続き、無数の軍旗が風に揺れている。
* * *
「……随分と集めたもんだな」
要塞の城壁に立ち、レオナード・ヴァルディスは帝国軍の陣地を眺めていた。
黒い鎧。
背中には大剣。
その鋭い眼差しには、恐怖など微塵もない。
《黒狼》レオナード。
ヴァルディス家が誇る最強の剣士の一人であり、幾度もの戦場を生き抜いてきた歴戦の武人だった。
その隣には、銀色の髪を風になびかせる女性が立っている。
イザベラ・シルヴェイン。
《白銀の女帝》の異名を持つ、王国屈指の魔導士。
彼女は遠くの軍勢を見つめ、静かに言った。
「八万……。正面から攻めてくるだけなら、問題ありませんわね」
「だろうな」
レオナードは豪快に笑った。
「俺が前に出て、お前が後ろから魔法を撃てば、何万いようが押し返せる」
「ええ。ただし、敵もそれを理解しているはずです」
イザベラの声が少しだけ冷たくなる。
「気になるのは、あの配置ですわ」
彼女が指差した先には、帝国軍の騎兵部隊が左右へ大きく展開していた。
中央には重装歩兵。
後方には攻城兵器と魔導砲。
そして、さらに遠くの丘陵地帯には、別働隊らしき軍勢が見える。
「……要塞を攻めるだけの陣形じゃねえな」
「ええ。こちらの注意を正面へ向け、その隙に周辺の村々へ兵を回すつもりでしょう」
レオナードの笑みが消えた。
「民間人を狙うつもりか」
「その可能性が高いですわ」
二人はしばらく無言で帝国軍を見つめた。
戦場で敵を倒すことは難しくない。
だが、守るべき人々が広範囲に散らばっているとなれば話は別だ。
「……気に食わねえな」
レオナードは低く呟いた。
「俺たちに勝てねえからって、村人を狙うとは」
「だからこそ、こちらも準備を進めなければなりません」
イザベラは静かに答えた。
* * *
要塞の作戦室。
大きな地図を囲み、王国軍の将校たちが集まっていた。
「北方の村から、避難が始まっています」
「南側の街道は、帝国軍の偵察部隊が接近しているため通行が難しくなっています」
「西部の補給路は、現在のところ確保されています」
次々と報告が上がる。
イザベラは地図へ視線を落とした。
「北方の村の住民は、要塞の東側にある避難拠点へ誘導してください。南側の街道には護衛部隊を増やします」
「しかし、それでは要塞の守備兵力が……」
将校の一人が不安げに言った。
レオナードが笑う。
「正面は俺が守る」
「レオナード様……」
「何だ? 俺じゃ不安か?」
「い、いえ! そのようなことは!」
「なら決まりだ。守るべきは石の壁じゃねえ。そこに暮らす人間だろうが」
将校たちは一斉に姿勢を正した。
「はっ!」
イザベラは小さく微笑んだ。
「あなたにしては、良いことを言いますわね」
「一言余計だ!」
作戦室に笑いが起こる。
緊張していた将校たちの表情が、少しだけ和らいだ。
* * *
同じ頃。
帝国軍本陣では、将軍たちが攻撃計画を確認していた。
「王国軍の守備兵力は一万二千。こちらは八万だ」
総司令官が地図を叩く。
「正面から圧力をかけ続ければ、いずれ兵力差が効いてくる」
「しかし、敵には黒狼と白銀の女帝がいます」
若い参謀が慎重に言った。
「通常の兵力計算は通用しません」
「分かっている」
総司令官は冷たく答えた。
「だからこそ、別働隊を使う」
彼は地図の左右を指差した。
「北方の村を押さえ、南側の避難路を遮断する。奴らが民間人を守ろうとすれば、要塞の防衛は手薄になる」
「……民間人を、ですか」
参謀の顔が曇る。
「戦争とは、そういうものだ」
総司令官は平然と言い放った。
「黒狼と白銀の女帝がどれほど強かろうと、同時にすべての場所にはいられまい」
その言葉に、誰も反論できなかった。
ただ一人、軍議室の後方に立つ深紅髪の女性だけは、険しい表情を浮かべていた。
ヴァレリア・ローゼンベルク。
彼女は静かに口を開いた。
「閣下。その作戦には反対です」
総司令官が眉をひそめる。
「何だと?」
「敵軍を誘い出すために民間人を危険にさらすなど、軍人の誇りに反します」
「甘いな、ヴァレリア」
「甘さではありません。戦場に立つ者としての矜持です」
彼女の金色の瞳が鋭く光る。
「私は王国軍と戦う覚悟はあります。ですが、無抵抗の村人を戦術の道具にするつもりはありません」
総司令官はしばらく彼女を睨んでいたが、やがて鼻を鳴らした。
「ならば、お前は中央軍の指揮を執れ。別働隊には関わるな」
「……承知しました」
ヴァレリアは頭を下げた。
しかし、その胸中には強い不安が残っていた。
* * *
翌朝。
国境の平原に、帝国軍の進軍太鼓が響いた。
重装歩兵が前進し、騎兵部隊が左右へ展開する。
攻城兵器の車輪が大地を軋ませ、魔導砲の砲身が要塞へ向けられた。
城壁の上では、王国軍の兵士たちが武器を構えていた。
その最前列に立つレオナードが、大剣を肩に担ぐ。
「……来やがったな」
隣では、イザベラが静かに魔法陣を展開していた。
「ええ。ですが、こちらにも準備があります」
帝国軍の魔導砲が、一斉に火を噴いた。
無数の光弾が空を埋め尽くし、要塞へ降り注ぐ。
兵士たちが息を呑んだ。
しかし、イザベラは微動だにしない。
「――《白銀天幕》」
巨大な銀色の結界が城壁全体を包み込む。
数百発の魔導砲撃が結界へ激突した。
轟音。
衝撃。
だが、銀色の結界には傷一つつかなかった。
「……馬鹿な!」
帝国軍の将校が叫ぶ。
その直後、レオナードが城壁の上から飛び降りた。
「よし。今度は俺の番だ!」
大地を蹴り、敵軍の先頭へ突入する。
黒い魔力が大剣を包み込んだ。
「――《黒狼烈破》!」
振り抜かれた一撃が、巨大な衝撃波となって平原を駆け抜ける。
帝国軍の最前列が吹き飛ばされ、攻城兵器が次々と砕け散った。
ただし、レオナードの斬撃は兵士の命を奪うことを目的としていない。
武器と陣形を破壊し、戦闘能力を奪うための一撃だった。
それでも、その威力は常識を超えていた。
「な、何だ……あの男は……!」
「たった一人で、先鋒が……!」
帝国軍に動揺が広がる。
レオナードは大剣を肩へ戻し、豪快に笑った。
「おいおい! 八万もいるんだろうが!」
その背後で、イザベラの銀色の魔法陣が幾重にも重なった。
「レオナード。あまり前に出すぎないでくださいね」
「分かってるって!」
二人の声が戦場に響く。
こうして、王国西部国境における最初の大規模戦闘が始まった。
帝国軍八万。
王国軍一万二千。
兵力差は圧倒的。
だが、その日、帝国軍は思い知ることになる。
王国の国境には、数だけでは決して越えられない二人の怪物が立っているのだと。




