第153話 守るべき日常、迫り来る戦雲
王立学園に、春の穏やかな日々が戻っていた。
中庭では生徒たちが談笑し、訓練場からは剣を打ち合わせる音が響いている。
黒翼事件の影響で中断されていた授業も再開され、学園は少しずつ本来の姿を取り戻していた。
もっとも、以前とまったく同じというわけではない。
学園の防護結界は大幅に強化され、外部からの魔力干渉を検知する装置が新たに設置された。
そして何より、生徒たちのレオンハルトを見る目が変わっていた。
「レオンハルト様、おはようございます!」
「王都を救ってくださって、ありがとうございました!」
廊下を歩くだけで、あちこちから声がかかる。
レオンは一人ずつ丁寧に挨拶を返しながら、少し困ったように笑った。
「……なんだか、前より目立つようになったな」
「当然でしょう」
隣を歩くエレノアが微笑む。
「王都全域を救った方が、以前と同じように扱われるはずがありません」
「俺としては、普通に授業を受けたいんだけど」
「それは少々難しいかもしれませんね」
エレノアの声には、隠しきれない誇らしさがあった。
* * *
午前の授業が終わると、レオンは学園の研究棟を訪れた。
そこではリゼットが、新しい魔法陣の解析に取り組んでいた。
「レオン様!」
彼女は机から顔を上げ、嬉しそうに微笑んだ。
「お待ちしていました」
「約束していた研究の続きだね」
「はい。今日は、複数属性の魔力を干渉させずに循環させる方法を試したくて……」
机の上には、細かな術式が描かれた羊皮紙が並んでいた。
レオンは一枚を手に取る。
「ここ、風属性の循環路と水属性の補助線が交差しているね」
「やっぱり、そこが問題でしょうか?」
「うん。でも、交差をなくす必要はないと思う」
レオンは指先に小さな水球を作り、その周囲に風の輪を発生させた。
水球は形を崩すことなく、風の流れに合わせて静かに回転する。
「互いを押し合うんじゃなくて、役割を分ければいい」
「……役割を、分ける」
リゼットは真剣な表情で見つめた。
レオンが水球の内側へ光属性の魔力を加えると、三つの属性が安定した状態で循環を始める。
「すごい……!」
リゼットは思わず身を乗り出した。
その拍子に、二人の肩が触れ合う。
「あっ……!」
彼女の顔が一瞬で赤くなった。
「ご、ごめんなさい!」
「大丈夫だよ。術式、よく見えた?」
「は、はい……!」
レオンは何事もなかったように説明を続ける。
リゼットはその横顔を見つめながら、小さく息を吐いた。
魔法のことになると、彼は誰よりも頼もしい。
けれど、こういう距離の近さには、どうしてこんなにも無自覚なのだろう。
「……レオン様」
「ん?」
「また、こうして二人で研究してもいいですか?」
「もちろん。俺も楽しいし」
その言葉だけで、リゼットの胸は温かくなった。
* * *
午後。
レオンは学園の医療棟を訪れていた。
エリシアが負傷した生徒の治療を終え、薬草棚を整理しているところだった。
「エリシア、お疲れさま」
「あっ、レオン様!」
彼女は振り返り、柔らかく微笑んだ。
「今日はどうされたんですか?」
「この前の約束、いつがいいか聞こうと思って」
「……お出かけの、ですか?」
「うん」
エリシアの頬が赤くなる。
「でしたら……今度のお休みに、街の南側にある花園へ行きたいです」
「花園?」
「はい。珍しい薬草も育てられている場所なんですけど、とても綺麗な花が咲くんです」
「いいね。じゃあ、そこへ行こう」
「本当ですか?」
「もちろん」
エリシアは胸の前で両手を合わせた。
「……楽しみにしています」
その笑顔を見て、レオンも自然と微笑んだ。
* * *
放課後。
訓練場では、アーヴィン、レオナルド、クラウディアの三人が模擬戦を行っていた。
学園序列戦でレオンと戦った上級生たちだ。
「レオンハルト!」
アーヴィンが手を上げる。
「ちょうどよかった。少し見てくれないか?」
「もちろんです」
レオンは訓練場へ足を踏み入れた。
アーヴィンは雷属性の魔力を剣にまとわせ、レオナルドへ斬り込む。
レオナルドは大剣で受け止め、力強く押し返した。
そこへクラウディアの氷魔法が地面を走る。
以前なら、三人の連携はここで途切れていた。
しかし今回は違った。
アーヴィンが雷撃の軌道を変え、氷の壁に沿って攻撃を走らせる。
レオナルドはその隙に踏み込み、模擬戦の標的を打ち砕いた。
「おお!」
周囲から歓声が上がる。
「どうだ、レオンハルト?」
アーヴィンが笑う。
「以前より、かなり良くなったと思うんだが」
「はい。三人の役割がはっきりしています」
レオンは頷いた。
「特に、クラウディア先輩の氷魔法が攻撃だけでなく、味方の動きを助ける形になっているのがいいですね」
クラウディアが静かに微笑む。
「あなたとの試合で学んだことよ。強い魔法を撃つだけでは、勝てないということを」
レオナルドも豪快に笑った。
「次はもっと驚かせてやるぜ!」
「楽しみにしています」
レオンは素直に答えた。
彼らが強くなっていく姿を見るのは、自分の勝利とはまた違う喜びがあった。
* * *
夕暮れ。
レオンが公爵邸へ戻ると、珍しく父アルフォンスが執務室に残っていた。
机の上には、王国西部の地図が広げられている。
「父上?」
「レオン。少し話がある」
アルフォンスの声は、いつもより低かった。
「帝国国境軍の動きが活発になっている」
レオンは地図へ視線を落とした。
そこには、帝国側の軍勢が集結している地点が赤い印で示されていた。
「……かなりの数ですね」
「ああ。確認されているだけで八万。さらに後続の部隊が動いている可能性もある」
「王国側は?」
「西部国境要塞に一万二千。指揮を執っているのはレオナードとイザベラだ」
レオンは少しだけ眉をひそめた。
叔父と叔母の実力を疑っているわけではない。
むしろ、正面から戦えば帝国軍の精鋭であっても二人に勝つことは難しいだろう。
だが、戦争は個人の強さだけで決まるものではない。
守るべき村。
補給路。
避難民。
広大な国境線。
いかに強い二人でも、同時にすべてを守ることはできない。
「……帝国は、数で押すつもりでしょうか」
「その可能性が高い」
アルフォンスは頷いた。
「だが、まだ宣戦布告はない。こちらから不用意に動けば、帝国に口実を与えることになる」
「分かりました」
レオンは地図を見つめた。
西部国境要塞。
その周辺に点在する村々。
そして、叔父と叔母が守るべき人々。
「父上。もし戦争になったら、俺も力を貸します」
アルフォンスは息子を見た。
「お前はまだ十五歳だ」
「分かっています。でも、家族が危険な場所にいるのに、何もしないで待つことはできません」
その瞳には、迷いがなかった。
アルフォンスはしばらく黙っていたが、やがて静かに微笑んだ。
「……お前なら、そう言うと思っていた」
「父上」
「だが、覚えておきなさい。戦場では、強い者が勝つとは限らない」
レオンは頷いた。
「守るべきものが多いほど、難しくなるからですね」
「そのとおりだ」
父は息子の肩に手を置いた。
「もし、その時が来たなら……共に戦おう」
「はい」
窓の外では、春の夕日が沈もうとしていた。
学園には笑顔があり、王都には穏やかな日常が戻っている。
そのすべてを守るために。
レオンハルトは、静かに決意を固めた。
そして西方の空では、誰にも見えない戦雲が、少しずつ厚みを増していた。




