第150話 王女の願いと、二人だけの温室
春の陽光が、ルミナス王宮の白い尖塔を照らしていた。
黒翼事件から一週間。
王都を覆っていた不安は少しずつ薄れ、街には以前の賑わいが戻りつつあった。神託院の調査は今も続いているが、少なくとも人々が空を見上げて怯える日々は終わった。
そして今日、レオンハルト・ヴァルディスは王宮の正門に立っていた。
「……少し早く着きすぎたかな」
約束の時刻までは、まだ三十分ほどある。
普段の学園制服ではなく、黒を基調とした上品な礼装。胸元には王国七星功労章が控えめに輝き、左手首にはリゼットから贈られた銀色の腕輪があった。
その姿を確認した近衛騎士たちが、揃って敬礼する。
「レオンハルト様。殿下がお待ちです」
「ありがとうございます」
案内されたのは、王宮の奥にある広大な温室だった。
透明な天井から柔らかな光が降り注ぎ、色とりどりの花々が咲き誇っている。中央には小さな噴水があり、水面には淡い光を放つ魔法植物が浮かんでいた。
その噴水の傍らに、一人の少女が立っていた。
「レオン!」
セレスティア・ルミナス。
いつもの学園制服ではなく、淡い青色のドレスを身にまとっている。美しく結い上げられた髪には小さな花飾りが添えられ、普段の王女としての気品に、年頃の少女らしい柔らかさが加わっていた。
「今日は来てくれてありがとう」
「こちらこそ。約束していたからね」
レオンが微笑むと、セレスティアは嬉しそうに目を細めた。
「……本当に、忘れていなかったのね」
「忘れるわけないだろう」
「ふふ。そう言ってもらえると嬉しいわ」
彼女は一歩近づき、少しだけ声を落とした。
「今日は王女としてではなく、ただのセレスティアとして過ごしたいの。……いいかしら?」
「もちろん」
その返事に、セレスティアの頬がほんのり赤く染まった。
* * *
温室の奥には、王国でも珍しい魔法植物が集められていた。
七色の花弁を持つ《虹晶花》。
夜になると銀色に輝く《月光百合》。
触れた者の魔力に反応して音色を変える《風鈴草》。
セレスティアは一つ一つの植物を楽しそうに紹介した。
「この《月光百合》はね、私が小さい頃から育てているの」
「随分と大切にしているんだね」
「ええ。昔、あなたがここへ遊びに来たとき、一緒に植えたものだから」
「……そうだったのか」
レオンは花を見つめた。
幼い頃の記憶が、ゆっくりと蘇る。
小さなセレスティアが土で汚れた手を気にしながら、懸命に苗を植えていたこと。
そして、その隣で自分が水魔法を使い、勢い余って彼女の靴まで濡らしてしまったこと。
「あのとき、俺が失敗したんだよな」
「覚えていたの?」
「今、思い出した」
「もう。私はずっと覚えていたのに」
セレスティアは笑った。
「でも、嬉しかったわ。王宮では、みんな私を王女として扱うでしょう? あなたは違った。泥だらけになっても一緒に笑ってくれた」
レオンは何も言わず、彼女の言葉を聞いていた。
「だから、この花は私にとって特別なの」
セレスティアは月光百合へそっと触れた。
「どれほど時間が経っても、変わらず咲いていてほしいと思えるものがあるのね」
その横顔は、どこか寂しそうだった。
「……最近、父上から縁談の話が出ているのか?」
レオンが尋ねると、セレスティアは驚いたように顔を上げた。
「どうして?」
「王女という立場なら、そういう話もあるだろうと思って」
セレスティアはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「正式な話ではないわ。でも、他国との関係を考えれば、いずれ避けられないでしょうね」
「……そうか」
「けれど、私は自分の未来を、誰かの都合だけで決めたくない」
彼女はレオンへ向き直った。
「私には、もう大切にしたい人がいるから」
真っ直ぐな青い瞳が、レオンを見つめる。
その意味を、レオンも完全に理解できないわけではなかった。
冬の舞踏会以来、少女たちが自分に向ける想いについて、考えることが増えていたからだ。
「セレスティア……」
「今すぐ答えてほしいわけじゃないの」
彼女は少し慌てたように微笑んだ。
「ただ、知っていてほしかっただけ。私は王女である前に、一人の女の子でもあるのよ」
レオンは静かに頷いた。
「分かった。君の気持ちを、軽く扱うつもりはないよ」
「……ありがとう」
セレスティアの表情が和らいだ。
* * *
温室の中央へ戻ると、用意されていたテーブルには紅茶と菓子が並んでいた。
二人は向かい合って座り、学園での出来事や幼い頃の思い出を語り合った。
レオンが失敗した魔法の話。
セレスティアが初めて剣を握った日のこと。
王宮の廊下を二人で走り回り、侍従長に叱られたこと。
話題は尽きなかった。
「そういえば、レオン」
「何?」
「最近、エレノアと随分仲が良いわね」
「昔から仲は良いよ?」
「……そういう意味ではないのだけれど」
セレスティアは紅茶のカップを置いた。
「シャルロットも、リゼットも、エリシアも。みんな、あなたを大切に思っているわ」
「……うん」
「私も負けるつもりはないから」
微笑みながら告げられた言葉に、レオンは少し困ったように笑った。
「みんなに対して、誠実でいたいと思ってる」
「それは分かっているわ。だからこそ、好きになったのよ」
あまりにも自然に言われたため、レオンは一瞬言葉を失った。
セレスティアはその反応を見て、楽しそうに笑った。
「ふふ。珍しいわね。あなたがそんな顔をするなんて」
「……セレスティアには敵わないな」
「戦いなら絶対に勝てないもの。こういうところでくらい、私にも勝たせて?」
レオンも思わず笑った。
* * *
夕方。
温室の出口まで来たところで、セレスティアが足を止めた。
「レオン。最後に一つだけ、お願いしてもいい?」
「何でも言って」
「……手を、繋いでくれる?」
レオンは少し驚いたが、すぐに右手を差し出した。
セレスティアの指が、その手にそっと重なる。
剣を握るときとは違う、柔らかな温もり。
彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう。今日は、本当に楽しかった」
「俺もだよ」
「また、こうして会いましょうね」
「ああ。約束する」
二人はしばらく、夕日に染まる庭園を並んで歩いた。
その姿を遠くから見守っていた王宮の侍女たちは、誰も声をかけようとしなかった。
今だけは、王女にとって大切な時間なのだと分かっていたからだ。
* * *
その夜。
レオンが公爵邸へ戻ると、エレノアが玄関で出迎えた。
「お帰りなさいませ、レオン様」
「ただいま、エレノア」
「本日は楽しかったですか?」
「ああ。昔のことをいろいろ思い出したよ」
「……そうですか」
エレノアは微笑んだが、その瞳には少しだけ複雑な色が浮かんでいた。
レオンはそれに気づき、彼女へ向き直る。
「エレノア」
「はい?」
「次の休みは、君と出かけよう」
エレノアが目を見開いた。
「……本当ですか?」
「前に約束しただろう。護衛としてじゃなくて、二人で過ごそうって」
彼女は一瞬言葉を失い、やがて胸元に手を添えた。
「……はい。楽しみにしております」
その笑顔は、王宮の温室で見たどの花よりも美しく思えた。
レオンはまだ知らない。
穏やかな春の日々の向こうで、王国の運命を揺るがす戦雲が、静かに広がり始めていることを。




