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『悪役公爵令息レオンハルト』  作者: 覇王が好き
第三章 運命を奪われた勇者

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第150話 王女の願いと、二人だけの温室

 春の陽光が、ルミナス王宮の白い尖塔を照らしていた。


 黒翼事件から一週間。


 王都を覆っていた不安は少しずつ薄れ、街には以前の賑わいが戻りつつあった。神託院の調査は今も続いているが、少なくとも人々が空を見上げて怯える日々は終わった。


 そして今日、レオンハルト・ヴァルディスは王宮の正門に立っていた。


「……少し早く着きすぎたかな」


 約束の時刻までは、まだ三十分ほどある。


 普段の学園制服ではなく、黒を基調とした上品な礼装。胸元には王国七星功労章が控えめに輝き、左手首にはリゼットから贈られた銀色の腕輪があった。


 その姿を確認した近衛騎士たちが、揃って敬礼する。


「レオンハルト様。殿下がお待ちです」


「ありがとうございます」


 案内されたのは、王宮の奥にある広大な温室だった。


 透明な天井から柔らかな光が降り注ぎ、色とりどりの花々が咲き誇っている。中央には小さな噴水があり、水面には淡い光を放つ魔法植物が浮かんでいた。


 その噴水の傍らに、一人の少女が立っていた。


「レオン!」


 セレスティア・ルミナス。


 いつもの学園制服ではなく、淡い青色のドレスを身にまとっている。美しく結い上げられた髪には小さな花飾りが添えられ、普段の王女としての気品に、年頃の少女らしい柔らかさが加わっていた。


「今日は来てくれてありがとう」


「こちらこそ。約束していたからね」


 レオンが微笑むと、セレスティアは嬉しそうに目を細めた。


「……本当に、忘れていなかったのね」


「忘れるわけないだろう」


「ふふ。そう言ってもらえると嬉しいわ」


 彼女は一歩近づき、少しだけ声を落とした。


「今日は王女としてではなく、ただのセレスティアとして過ごしたいの。……いいかしら?」


「もちろん」


 その返事に、セレスティアの頬がほんのり赤く染まった。


 * * *


 温室の奥には、王国でも珍しい魔法植物が集められていた。


 七色の花弁を持つ《虹晶花》。


 夜になると銀色に輝く《月光百合》。


 触れた者の魔力に反応して音色を変える《風鈴草》。


 セレスティアは一つ一つの植物を楽しそうに紹介した。


「この《月光百合》はね、私が小さい頃から育てているの」


「随分と大切にしているんだね」


「ええ。昔、あなたがここへ遊びに来たとき、一緒に植えたものだから」


「……そうだったのか」


 レオンは花を見つめた。


 幼い頃の記憶が、ゆっくりと蘇る。


 小さなセレスティアが土で汚れた手を気にしながら、懸命に苗を植えていたこと。


 そして、その隣で自分が水魔法を使い、勢い余って彼女の靴まで濡らしてしまったこと。


「あのとき、俺が失敗したんだよな」


「覚えていたの?」


「今、思い出した」


「もう。私はずっと覚えていたのに」


 セレスティアは笑った。


「でも、嬉しかったわ。王宮では、みんな私を王女として扱うでしょう? あなたは違った。泥だらけになっても一緒に笑ってくれた」


 レオンは何も言わず、彼女の言葉を聞いていた。


「だから、この花は私にとって特別なの」


 セレスティアは月光百合へそっと触れた。


「どれほど時間が経っても、変わらず咲いていてほしいと思えるものがあるのね」


 その横顔は、どこか寂しそうだった。


「……最近、父上から縁談の話が出ているのか?」


 レオンが尋ねると、セレスティアは驚いたように顔を上げた。


「どうして?」


「王女という立場なら、そういう話もあるだろうと思って」


 セレスティアはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。


「正式な話ではないわ。でも、他国との関係を考えれば、いずれ避けられないでしょうね」


「……そうか」


「けれど、私は自分の未来を、誰かの都合だけで決めたくない」


 彼女はレオンへ向き直った。


「私には、もう大切にしたい人がいるから」


 真っ直ぐな青い瞳が、レオンを見つめる。


 その意味を、レオンも完全に理解できないわけではなかった。


 冬の舞踏会以来、少女たちが自分に向ける想いについて、考えることが増えていたからだ。


「セレスティア……」


「今すぐ答えてほしいわけじゃないの」


 彼女は少し慌てたように微笑んだ。


「ただ、知っていてほしかっただけ。私は王女である前に、一人の女の子でもあるのよ」


 レオンは静かに頷いた。


「分かった。君の気持ちを、軽く扱うつもりはないよ」


「……ありがとう」


 セレスティアの表情が和らいだ。


 * * *


 温室の中央へ戻ると、用意されていたテーブルには紅茶と菓子が並んでいた。


 二人は向かい合って座り、学園での出来事や幼い頃の思い出を語り合った。


 レオンが失敗した魔法の話。


 セレスティアが初めて剣を握った日のこと。


 王宮の廊下を二人で走り回り、侍従長に叱られたこと。


 話題は尽きなかった。


「そういえば、レオン」


「何?」


「最近、エレノアと随分仲が良いわね」


「昔から仲は良いよ?」


「……そういう意味ではないのだけれど」


 セレスティアは紅茶のカップを置いた。


「シャルロットも、リゼットも、エリシアも。みんな、あなたを大切に思っているわ」


「……うん」


「私も負けるつもりはないから」


 微笑みながら告げられた言葉に、レオンは少し困ったように笑った。


「みんなに対して、誠実でいたいと思ってる」


「それは分かっているわ。だからこそ、好きになったのよ」


 あまりにも自然に言われたため、レオンは一瞬言葉を失った。


 セレスティアはその反応を見て、楽しそうに笑った。


「ふふ。珍しいわね。あなたがそんな顔をするなんて」


「……セレスティアには敵わないな」


「戦いなら絶対に勝てないもの。こういうところでくらい、私にも勝たせて?」


 レオンも思わず笑った。


 * * *


 夕方。


 温室の出口まで来たところで、セレスティアが足を止めた。


「レオン。最後に一つだけ、お願いしてもいい?」


「何でも言って」


「……手を、繋いでくれる?」


 レオンは少し驚いたが、すぐに右手を差し出した。


 セレスティアの指が、その手にそっと重なる。


 剣を握るときとは違う、柔らかな温もり。


 彼女は嬉しそうに微笑んだ。


「ありがとう。今日は、本当に楽しかった」


「俺もだよ」


「また、こうして会いましょうね」


「ああ。約束する」


 二人はしばらく、夕日に染まる庭園を並んで歩いた。


 その姿を遠くから見守っていた王宮の侍女たちは、誰も声をかけようとしなかった。


 今だけは、王女にとって大切な時間なのだと分かっていたからだ。


 * * *


 その夜。


 レオンが公爵邸へ戻ると、エレノアが玄関で出迎えた。


「お帰りなさいませ、レオン様」


「ただいま、エレノア」


「本日は楽しかったですか?」


「ああ。昔のことをいろいろ思い出したよ」


「……そうですか」


 エレノアは微笑んだが、その瞳には少しだけ複雑な色が浮かんでいた。


 レオンはそれに気づき、彼女へ向き直る。


「エレノア」


「はい?」


「次の休みは、君と出かけよう」


 エレノアが目を見開いた。


「……本当ですか?」


「前に約束しただろう。護衛としてじゃなくて、二人で過ごそうって」


 彼女は一瞬言葉を失い、やがて胸元に手を添えた。


「……はい。楽しみにしております」


 その笑顔は、王宮の温室で見たどの花よりも美しく思えた。


 レオンはまだ知らない。


 穏やかな春の日々の向こうで、王国の運命を揺るがす戦雲が、静かに広がり始めていることを。



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