第134話 拒絶された勇者候補――白昼の暴挙と銀剣の制裁
王国暦八二二年、新春月二十二日。
王立アストレア学園。
昼休みを告げる鐘が鳴り終わり、白い回廊には生徒たちの笑い声が響いていた。
冬の日差しは穏やかで、校舎の窓には薄い雲が映っている。
だが、その平穏は、たった一人の少年によって破られることになる。
◇
リゼット・クローディアは、図書塔から借りた三冊の魔導書を抱え、エリシア・フィオーレと並んで歩いていた。
「昨日の魔法理論、やっぱり難しかったですね」
エリシアが微笑む。
「は、はい。でも、レオン様が教えてくださった魔力循環の考え方を使えば、少し理解しやすくなりました」
リゼットは嬉しそうに頷いた。
その手には、薄紫色の栞が挟まれている。
レオンと一緒に調べた七属性魔法の資料。
次の研究会で、続きを相談する約束だった。
「レオン様って、本当に何でもご存じですよね」
「……はい。でも、分からないことは一緒に考えてくださるんです」
二人が微笑み合った、そのときだった。
「――おい、リゼット」
背後から、鋭い声が飛んできた。
振り返ると、回廊の柱の陰にカイン・ヴェルナーが立っていた。
赤みを帯びた黒髪。
金色の瞳。
そして、右腕を覆う白い包帯。
神託院の監察を受け、勇者候補資格を停止されているはずの少年だった。
「……カインさん」
リゼットの表情が強張る。
「何か、ご用でしょうか」
「ちょっと話がある。お前だけ来い」
命令するような口調だった。
リゼットは魔導書を抱き直した。
「申し訳ありません。これからエリシアさんと昼食なので……」
「五分でいいって言ってるだろ」
カインが一歩近づく。
エリシアは、自然にリゼットの隣へ立った。
「お話なら、ここでお願いします」
「お前には関係ない」
「リゼットさんが困っています」
エリシアの声は穏やかだったが、譲る気配はなかった。
カインの眉が吊り上がる。
――まただ。
ゲームでは、リゼットは最初こそ人見知りだった。
だが、主人公が魔法の才能を認めてやれば、少しずつ心を開く。
図書塔での出会い。
二人きりの魔法研究。
そして、主人公にだけ見せる笑顔。
それらは、すべて自分のものになるはずだった。
なのに。
「……お前、レオンハルトと何を研究してる?」
「……え?」
「七属性の魔法だよ。あいつに何を教えてるんだ」
リゼットは戸惑った。
「わ、私が教えるというより、一緒に調べているだけです」
「俺とも研究すればいいだろ」
「……すみません」
「何でだよ」
カインの声が低くなる。
「俺は勇者候補なんだぞ」
「……それと、研究をご一緒するかどうかは別のお話です」
リゼットは勇気を振り絞って答えた。
「私は、レオン様と研究する時間が好きなんです」
その瞬間。
カインの顔から表情が消えた。
「……また、あいつか」
回廊の空気が、わずかに冷えた。
◇
「だったら、俺の方を向かせてやる」
カインが突然、リゼットへ手を伸ばした。
「きゃっ!」
彼の左手が、リゼットの手首を掴む。
抱えていた魔導書が床へ落ちた。
乾いた音が、回廊に響く。
「や、やめてください!」
リゼットが腕を引く。
だが、カインは離さなかった。
「少し話すだけだろ!」
「痛い……!」
「カインさん、離してください!」
エリシアが間に入ろうとした。
その瞬間、カインの右腕の包帯の下で赤い紋様が脈打った。
彼の苛立ちに呼応するように、掌へ熱が集まる。
「邪魔するな!」
爆ぜるような音。
赤い火花が散った。
エリシアは咄嗟にリゼットの前へ出る。
「――《聖光障壁》!」
淡い光の膜が二人を包んだ。
火花が障壁へ触れ、白い光となって消える。
しかし、その衝撃でリゼットは膝をつき、エリシアも数歩後退した。
周囲の生徒たちが悲鳴を上げる。
「魔法を使ったぞ!」
「先生を呼べ!」
「離れろ、巻き込まれる!」
回廊にいた生徒が一斉に退いた。
誰かが転び、別の生徒が手を貸す。
窓際の花瓶が床へ落ち、粉々に砕けた。
リゼットの手首には、赤い指の跡が残っていた。
エリシアは彼女を庇いながら、震える声を押し殺した。
「……これ以上、近づかないでください」
カインは荒く息をしていた。
「俺は……俺は、ただ……!」
彼自身、火花が出たことに驚いていた。
魔剣を失ったはずの右腕が、まだ熱い。
傷ついた魔力回路が、感情に反応して暴走しかけている。
それでも彼は、引かなかった。
「リゼット! 俺を選べば、もっと強くなれる!」
「……嫌です」
小さな声だった。
だが、確かに響いた。
リゼットは立ち上がった。
涙を浮かべながらも、真っ直ぐカインを見つめる。
「私は、誰かのものではありません」
カインが目を見開く。
「私が誰と研究するか、誰を好きになるかは……私が決めます!」
一瞬、回廊が静まり返った。
次の瞬間。
カインの顔が、怒りで歪んだ。
「……だったら!」
再び手が伸びる。
だが、その指がリゼットに届くことはなかった。
キィン!
澄んだ金属音が響いた。
銀色の剣が、カインの腕と少女たちの間へ滑り込んでいた。
「――そこまでです」
冷たい声。
振り向いたカインの前に、銀髪の少女が立っていた。
エレノア・シルヴェイン。
レオンハルトの専属メイド。
そして、護衛騎士。
普段の柔らかな微笑みは、どこにもなかった。
青い瞳が、凍てつく刃のようにカインを見据えている。
「……お前」
「その手を、下ろしてください」
エレノアは静かに告げた。
「これ以上、彼女たちへ危害を加えることは許しません」
「……俺は勇者候補だぞ!」
「現在は資格停止中と伺っております」
一切の迷いがない返答。
「それに、肩書きが何であれ、拒絶する相手を力で従わせる権利などございません」
カインのこめかみに青筋が浮かんだ。
「……黙れ!」
彼は右手を振り上げた。
包帯の隙間から、赤い火が噴き出す。
――《炎牙突》。
本来なら剣を用いる技。
それを、負傷した腕から無理やり放とうとしていた。
エレノアの目が細くなる。
彼女は後退しなかった。
一歩、踏み込む。
右足をカインの外側へ置き、剣の平で彼の手首を押し上げる。
炎の軌道が天井へ逸れた。
同時に、左手で彼の肘を制する。
「――《銀閃・絡手》」
銀光が一筋、走った。
斬ったのではない。
剣の角度と足運びだけで、カインの姿勢を崩したのだ。
「ぐっ!?」
彼の膝が床へ落ちる。
エレノアは剣先を向けず、間合いを保った。
「武装解除を要求します。これ以上の抵抗はおやめください」
カインは歯を食いしばった。
周囲には、何十人もの生徒。
その全員が、自分を見ていた。
恐怖。
非難。
そして、軽蔑。
……何でだ。
何で、こんなことになってる。
主人公は、俺のはずなのに。
◇
「――エレノア」
その声が響いた瞬間。
回廊の空気が変わった。
レオンハルト・ヴァルディス。
黒髪の公爵令息が、廊下の向こうから歩いてきた。
その後ろには、生徒会長フィオナ・エルグランデと数名の教官がいる。
俺はまず、床に散らばった魔導書を見た。
次に、リゼットの赤くなった手首。
エリシアの乱れた制服。
そして、エレノアに制圧されたカイン。
……。
胸の奥が、冷たくなった。
「リゼット、エリシア。怪我は?」
「レ、レオン様……」
リゼットの声が震える。
俺は彼女の前へ膝をついた。
「もう大丈夫。ゆっくり話して」
その言葉を聞いた途端、彼女の目から涙が零れた。
「……怖かった、です」
……。
俺は、静かに頷いた。
「うん」
エリシアが、リゼットの手首へ治癒魔法をかける。
赤い痕が、少しずつ薄れていった。
「レオン様、私たちは大丈夫です」
「ありがとう、エリシア」
俺は二人が落ち着いたことを確認してから、カインへ向き直った。
「……カイン」
彼が顔を上げる。
「……何だよ」
「何をしたか、分かってる?」
「俺は、話をしようとしただけだ!」
「相手が断ったら、そこで終わりだ」
俺の声は、自分でも驚くほど静かだった。
「手を掴んで、魔法まで使って。これが話し合いだと思うのか?」
「……っ!」
「君が強くなりたいのは、自由だ」
一歩、近づく。
「でも、そのために他人の意思を踏みにじるなら、俺は見過ごせない」
カインの右腕から、再び火花が散った。
「……お前さえ、いなければ……!」
「カイン!」
フィオナの鋭い声が響く。
「これ以上の魔力行使を禁じます!」
だが、カインの耳には届いていなかった。
赤い魔力が、右腕を包む。
傷ついた回路が悲鳴を上げるように軋んだ。
俺は、左手を軽く上げた。
「――《水鏡封環》」
薄い水の輪が、カインの右腕を包む。
続いて光属性の魔力が流れ、暴走しかけた炎を静かに鎮めた。
「……なっ!」
カインが息を呑む。
俺は彼を見下ろした。
「君の腕は、まだ治ってない」
「……!」
「今、無理に魔法を使えば、二度と剣を握れなくなるかもしれない」
カインの顔から血の気が引いた。
俺は、教官たちへ視線を向けた。
「彼の魔力回路を診てください。かなり不安定です」
「承知した」
教官が頷く。
フィオナは、硬い表情で宣言した。
「カイン・ヴェルナー。あなたには、学生への暴行および危険な魔力行使の疑いがあります」
回廊が静まり返る。
「直ちに授業への参加を停止し、監督下で事情聴取を行います。被害を受けた生徒の証言も、正式に記録します」
「……そんな……」
カインが呟く。
「……俺が、処分……?」
フィオナは一歩も引かなかった。
「あなたが何者であろうと、学園の規則は変わりません」
……。
カインは、俯いた。
拳が、震えていた。
◇
騒動の後。
医務室。
リゼットは、窓際の椅子に座っていた。
手首の痛みは、エリシアの治癒魔法でほとんど消えている。
だが、まだ少し震えが残っていた。
俺は、彼女の隣に腰を下ろした。
「……ごめん」
「……え?」
「もっと早く気づけたらよかった」
リゼットは、慌てて首を振った。
「レオン様のせいではありません!」
そして。
少しだけ、俺の袖を掴んだ。
「……でも」
「うん?」
「……来てくださって、嬉しかったです」
……。
俺は、静かに微笑んだ。
「これからも、困ったことがあったら言ってね」
「……はい」
エリシアも、隣で微笑んだ。
「エレノアさんも、本当にありがとうございました」
エレノアは、静かに頭を下げた。
「当然のことをしたまでです」
そして、リゼットへ目を向ける。
「ですが、リゼット様」
「……はい?」
「先ほど、ご自分の意思をはっきりと伝えられたこと。とても立派でした」
リゼットの瞳が、揺れた。
「……私、怖くて……」
「怖くても、拒絶できたのです」
エレノアは、優しく微笑んだ。
「どうか、その勇気を忘れないでください」
……。
リゼットは、ゆっくりと頷いた。
「……ありがとうございます」
俺は、その光景を見ながら思った。
……強さって、剣や魔法だけじゃないんだな。
◇
その日の夕方。
神託院の特別監察室。
カインは、無言で椅子に座っていた。
扉の向こうでは、監察官たちが処分について話し合っている。
学園への出席停止。
監察の強化。
そして、勇者候補資格の正式な剥奪まで検討されていた。
……。
カインは、机の上を見つめた。
頭から離れないのは、リゼットの言葉だった。
『私は、誰かのものではありません』
……。
そして、レオンハルト。
あいつは、また自分の前に立った。
また、自分より強かった。
また、周囲の人間から信頼されていた。
……。
「……何でだよ」
声が、震える。
「……何で、俺だけ……」
……。
そのとき。
扉の向こうから、聞き覚えのある声が響いた。
「……随分、追い詰められているようですね」
……。
セルディオ・クロイツ。
神託院特別研究局の男だった。
「……まだ、諦めるには早いですよ」
……。
カインは、ゆっくりと顔を上げた。
その金色の瞳に、暗い光が宿った。




