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『悪役公爵令息レオンハルト』  作者: 覇王が好き
第二章・王立学園編

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第110話 聖女の願い――誰かのためではなく、私の幸せ

第110話 聖女の願い――誰かのためではなく、私の幸せ


王国暦八二一年、冬月十六日。


王立アストレア学園、聖療棟。


窓から差し込む冬の陽光が、白い寝台を柔らかく照らしていた。


エリシア・フィオーレは、一人の少年の手を取っていた。


「もう少しだけ、じっとしていてくださいね」


「……はい」


少年は十歳ほどだろうか。


学園の魔導研究員の息子で、父親を訪ねてきた際に転倒し、腕を痛めてしまったらしい。


エリシアの掌から、淡い金色の光が溢れる。


《聖癒光》。


傷ついた筋肉と魔力の流れを整える、彼女が得意とする治癒魔法だった。


やがて光が収まると、少年は恐る恐る腕を動かした。


「……あれ?」


もう一度、曲げ伸ばしする。


「痛くない!」


「よかったです」


エリシアは、優しく微笑んだ。


「でも、今日は激しく動かさないでくださいね」


「はい! ありがとうございます、聖女様!」


少年は元気よく頭を下げ、付き添いの父親とともに部屋を出ていった。


扉が閉まる。


エリシアは、そっと息を吐いた。


治癒魔法を使うことは、嫌いではない。


むしろ、誰かの痛みが和らぎ、笑顔が戻る瞬間が好きだった。


けれど最近、少しだけ考えることが増えていた。


聖女としての役割。


周囲から寄せられる期待。


そして、自分自身の気持ち。


「……私の、願い」


エリシアは、小さく呟いた。


聖女は、人々を救う存在。


幼い頃から、そう教えられてきた。


だから、誰かの役に立つことを優先してきた。


自分が何を望んでいるかなんて、深く考えたこともなかった。


……あの人に出会うまでは。


     ◇


数日前。


ヴァルディス公爵邸。


シャルロットとルシウスの快気祝い。


エリシアは、レオンハルトが二人と笑い合う姿を見つめていた。


彼は、王国でも屈指の魔法の才能を持つ少年だった。


七属性を操り、数々の危機を乗り越え、誰よりも強いと噂されている。


だが、エリシアが心を惹かれたのは、その強さだけではなかった。


ルシウスが走ろうとすれば、すぐに注意する。


シャルロットが疲れた様子を見せれば、さりげなく椅子を引く。


家族が笑っていれば、誰よりも嬉しそうに微笑む。


その一つ一つが、とても自然だった。


そして。


『エリシアがいてくれて、本当によかった』


祝宴の途中、レオンハルトがそう言ってくれた。


『二人がここまで回復できたのは、君のおかげだ。ありがとう』


たった、それだけの言葉。


けれど。


エリシアは、その瞬間を何度も思い返していた。


自分を聖女としてではなく、一人の人間として見てくれている。


そのことが、どうしようもなく嬉しかった。


     ◇


「……エリシア様?」


声をかけられ、エリシアは顔を上げた。


聖療棟の女性教師が、心配そうに立っていた。


「少しお疲れではありませんか?」


「……いえ、大丈夫です」


「今日はもう、治療の予定もありません。お休みになってください」


「ありがとうございます」


エリシアは、丁寧に頭を下げた。


そして、聖療棟を出た。


外には、澄み切った冬空が広がっていた。


中庭へ続く石畳を歩きながら、ふと足を止める。


噴水の向こう。


黒髪の少年が、一人で腰掛けていた。


「……レオン様?」


思わず声が漏れた。


少年が振り向く。


「エリシア?」


レオンハルトだった。


「こんなところで、どうしたんですか?」


「少し休憩してたんだ。魔法理論の授業が思ったより長引いてさ」


彼は、苦笑した。


「エリシアこそ、治療の帰りか?」


「はい。今日はもう終わりました」


「お疲れ様」


何気ない言葉だった。


それなのに。


エリシアの胸が、少しだけ温かくなった。


「……ありがとうございます」


彼女は、そっと微笑んだ。


「隣に座っても、よろしいですか?」


「もちろん」


エリシアは、レオンハルトの隣へ腰掛けた。


     ◇


しばらく、二人で静かな時間を過ごした。


噴水の音。


遠くから聞こえる生徒たちの声。


冬の風が、木々の枝を揺らしている。


「……そういえば」


レオンハルトが、口を開いた。


「シャル姉が、エリシアに改めてお礼を言いたいって」


「まあ」


エリシアは、嬉しそうに微笑んだ。


「私こそ、お元気になられて本当によかったです」


「ルシウスなんて、もう訓練を再開したがってるよ」


「ふふっ。あまり無理をなさらないよう、お伝えください」


「もちろん。俺も何度も言ってるんだけどな」


二人で笑った。


そして、少しの沈黙。


エリシアは、レオンハルトの横顔を見つめた。


その手首には、銀色の腕輪があった。


中央の紫水晶が、淡い光を放っている。


「……綺麗な腕輪ですね」


「ああ。リゼットが作ってくれたんだ」


レオンハルトは、嬉しそうに腕輪を見せた。


「七属性に対応してるんだ。すごいだろ?」


「はい。本当に素晴らしいです」


エリシアは、心からそう思った。


リゼットの技術も。


レオンハルトが、その贈り物を大切にしていることも。


けれど同時に。


胸の奥に、小さな痛みが生まれた。


……羨ましい。


その感情に、エリシア自身が驚いた。


誰かの幸せを見て、羨ましいと思うこと。


それは、今までの自分にはあまりなかった感覚だった。


「……エリシア?」


レオンハルトが、心配そうに覗き込んだ。


「どうかした?」


「……いえ」


エリシアは、慌てて微笑んだ。


「少し、考え事をしていました」


「疲れてるんじゃないか?」


「大丈夫です」


そう答えながら、彼女は気づいた。


……私は。


……リゼットさんが、羨ましかったんですね。


レオンハルトのために、何かを作れること。


自分の想いを、形にできること。


そして。


彼の嬉しそうな笑顔を、あんなに近くで見られること。


     ◇


「……レオン様」


エリシアは、静かに口を開いた。


「……ん?」


「一つ、聞いてもよろしいですか?」


「もちろん」


彼女は、少しだけ迷った。


そして、勇気を出して尋ねた。


「……レオン様は、私のことをどう思っていますか?」


レオンハルトが、目を瞬かせた。


「……エリシアのこと?」


「はい」


彼は、少し考え込んだ。


「……優しくて、努力家で」


エリシアは、黙って聞いていた。


「誰かが困ってたら、絶対に放っておけない人だと思う」


その言葉に、胸が温かくなった。


「……ありがとうございます」


けれど。


彼女は、もう一歩だけ踏み込んだ。


「……聖女として、ではなくても?」


レオンハルトが、少し驚いたように顔を上げた。


「……もちろん」


即答だった。


「聖女じゃなくても、エリシアはエリシアだろ?」


……。


その瞬間。


エリシアの瞳が、揺れた。


「……そう、ですか」


声が、少し震えた。


レオンハルトは、心配そうに眉をひそめた。


「……エリシア?」


「……すみません」


彼女は、そっと目元を押さえた。


「嬉しくて」


……。


「私、ずっと聖女として生きてきました」


静かな声だった。


「誰かを救うことが、自分の役割だと思っていました」


レオンハルトは、黙って聞いていた。


「でも、時々……自分が何を望んでいるのか、分からなくなるんです」


エリシアは、少しだけ俯いた。


「人々の幸せを願うことは、できます」


……。


「けれど、自分の幸せを願うことには、慣れていなくて」


その言葉に、レオンハルトはしばらく黙っていた。


そして。


「……エリシア」


優しく声をかけた。


「自分の幸せを願っても、いいんだよ」


……。


「誰かを助けるのと、自分が幸せになるのは、別に矛盾しない」


エリシアは、ゆっくり顔を上げた。


「……本当、ですか?」


「もちろん」


彼は、微笑んだ。


「俺だって、家族や友達に幸せでいてほしい。でも、自分も一緒に笑っていたいと思うよ」


その言葉に。


エリシアの胸の奥で、何かがほどけた。


……そうか。


自分も。


幸せになりたいと願っていい。


誰かの隣にいたいと願っていい。


大切な人に、自分を見てほしいと願っていい。


「……ありがとうございます」


彼女は、心から微笑んだ。


「レオン様」


「ん?」


「私、少しだけ分かった気がします」


「……何が?」


エリシアは、そっと胸元に手を当てた。


「……自分の、本当の願いが」


レオンハルトは、不思議そうに首を傾げた。


けれど。


エリシアは、それ以上言わなかった。


まだ、言葉にするには勇気が足りない。


でも。


いつか、きっと。


     ◇


夕方。


聖療棟へ戻る道。


エリシアは、一人で歩いていた。


頬には、まだ微かな熱が残っている。


『聖女じゃなくても、エリシアはエリシアだろ?』


その言葉を思い出すたびに、胸が高鳴った。


「……レオン様」


小さく呟く。


彼の優しさが好きだった。


強さが好きだった。


誰かを守ろうとする姿が好きだった。


そして。


自分を、一人の少女として見てくれることが。


何よりも嬉しかった。


「……私も」


エリシアは、冬の空を見上げた。


「……あなたの隣で、笑っていたいです」


それは、聖女としての祈りではない。


一人の少女が、初めて自分自身のために抱いた願いだった。



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