第106話 公爵家の祝宴――取り戻した家族の笑顔
第106話 公爵家の祝宴――取り戻した家族の笑顔
王国暦八二一年、冬月十日。
ヴァルディス公爵邸。
冬の柔らかな日差しが、大きな窓から差し込んでいた。
屋敷の廊下には、いつもより多くの花が飾られている。
厨房から漂ってくるのは、焼きたてのパンと香草を使った肉料理の香り。
使用人たちも、朝からどこか嬉しそうだった。
それもそのはずだ。
今日は、シャルロットとルシウスの快気祝いだった。
二人の傷は、完全に消えたわけではない。
シャル姉の魔力循環には、まだ慎重な経過観察が必要だったし、ルシウスの右腕も激しい運動は禁じられている。
それでも、エリシアの治癒魔法と医師たちの懸命な治療によって、日常生活に戻れるところまで回復した。
俺――レオンハルト・ヴァルディスにとって、それ以上に嬉しい知らせはなかった。
「レオン兄様!」
廊下の向こうから、元気な声が響いた。
振り向くと、礼服を着たルシウスがこちらへ駆けてくる。
「おいおい、走るなって。まだ腕が治ったばかりだろ」
「大丈夫です! もう痛くありませんから!」
「痛くなくても、無茶は駄目だ」
俺がそう言うと、ルシウスは少しだけ頬を膨らませた。
「兄様は心配しすぎです」
「お前が無茶をするからだろ」
そう言いながら頭を撫でると、ルシウスは嬉しそうに笑った。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥に残っていた重苦しいものが、少しだけ溶けていく気がした。
あの日。
瓦礫の下からルシウスを抱き上げたとき、俺は本当に怖かった。
呼びかけても返事がなかったらどうしよう。
このまま目を覚まさなかったらどうしよう。
そんな考えが頭をよぎった。
だからこそ、今こうして目の前で笑っていることが、何よりも尊かった。
「レオン」
今度は、背後から声がした。
振り向くと、シャルロットが立っていた。
淡い水色のドレス。
長い髪には、小さな銀色の髪飾り。
いつもの剣を携えた姿とは違う、年頃の令嬢らしい装いだった。
「……どう?」
シャル姉が、少し照れくさそうに尋ねる。
「似合ってるよ。すごく綺麗だ」
俺が素直に答えると、シャル姉の頬が一気に赤くなった。
「そ、そういうことを平然と言うの、反則だと思うんだけど……」
「え? 何が?」
「……もう、いい」
なぜか顔を背けられてしまった。
隣では、ルシウスが楽しそうに笑っている。
「姉様、耳まで赤いですよ!」
「ルシウス!」
「ほら、走るなって」
俺が慌てて止めると、三人で顔を見合わせた。
そして、誰からともなく笑い始めた。
こんな何でもない時間が、ずっと続けばいい。
心から、そう思った。
◇
祝宴の会場となった大広間には、ヴァルディス家とシルヴェイン家の親族が集まっていた。
父アルフォンス。
母エレオノーラ。
叔父レオナード。
伯母イザベラ。
王国でも屈指の実力と影響力を持つ四人が、今日は穏やかな表情を浮かべている。
「シャルロット、ルシウス」
父が、静かに二人へ声をかけた。
「改めて、回復を祝おう」
「ありがとうございます、伯父様」
「ありがとうございます!」
二人が頭を下げると、叔父レオナードが大きく息を吐いた。
「まったく……」
その声に、シャル姉が顔を上げる。
「お父様?」
「お前が倒れたと聞いたときは、心臓が止まるかと思ったぞ」
普段は《黒狼》と恐れられる叔父が、そんなことを口にするとは思わなかった。
シャル姉も驚いたように目を見開く。
「……ごめんなさい」
「謝るな」
叔父は、娘の頭へ大きな手を置いた。
「お前が無事なら、それでいい」
シャル姉の目が、少し潤んだ。
一方、伯母イザベラはルシウスを抱き寄せていた。
「あなたもよ、ルシウス。もう二度と母をあんなに心配させないで」
「……はい、お母様」
「本当に?」
「……できるだけ」
「ルシウス?」
「だ、だって、兄様が危険な目に遭っていたら、僕だって助けたいです!」
伯母は一瞬言葉を失い、それから困ったように微笑んだ。
「その気持ちは嬉しいわ。でも、守るためには自分も無事でいなければならないのよ」
「……はい」
俺は、その光景を静かに見つめていた。
すると、母が隣へやってきた。
「レオン」
「母上?」
「あなたも、今日は少し肩の力を抜きなさい」
母は優しく微笑んだ。
「ずっと気を張っていたでしょう?」
「……そんなこと」
「母親には分かるものよ」
そう言って、母は俺の頬に触れた。
「あなたが二人を守ろうとしてくれたこと、私たちは誇りに思っているわ」
その言葉に、胸が熱くなった。
「……ありがとう、母上」
母は、そっと俺を抱き締めた。
いつもなら少し照れくさい。
でも、今日だけは。
その温もりに、素直に甘えたかった。
◇
祝宴が始まってしばらくすると、招待客たちが次々と到着した。
最初に姿を見せたのは、セレスティアだった。
淡い白銀色のドレスを身にまとい、王女らしい気品を漂わせている。
「レオン!」
俺を見つけた瞬間、その表情がぱっと明るくなった。
「セレス、来てくれたんだな」
「もちろんよ。シャルロット様とルシウス様のお祝いだもの」
彼女はそう言って微笑み、二人へ丁寧に挨拶した。
「本当に、回復されてよかったです」
「ありがとう、セレスティア様」
シャル姉が答えると、セレスは心から安心したように息を吐いた。
その後ろから、リゼットとエリシアも姿を見せた。
「レオンハルト様。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
リゼットが、綺麗に一礼する。
「二人とも、来てくれてありがとう」
「こちらこそ。お二人のお元気な姿を拝見できて、安心しました」
エリシアが、柔らかく微笑んだ。
ルシウスは、彼女を見つけると嬉しそうに駆け寄った。
「エリシア様! ありがとうございました!」
「ルシウス様、走ってはいけませんよ」
「……あ」
エリシアに優しく注意され、ルシウスはぴたりと止まった。
その様子に、周囲から笑いがこぼれる。
「もう、兄様にも同じことを言われたのに」
シャル姉が呆れたように言う。
「だって、嬉しかったんです!」
エリシアは膝を折り、ルシウスと目線を合わせた。
「元気になってくださって、私も本当に嬉しいです」
その声には、飾り気のない優しさがあった。
俺は改めて思った。
この子がいてくれて、本当によかった。
◇
祝宴が進むにつれ、会場は賑やかになっていった。
父と叔父は、珍しく昔の話で盛り上がっている。
伯母と母は、二人の回復後の生活について話し合っていた。
シャル姉は、ルシウスと一緒に招待客へ挨拶して回っている。
そして俺はというと。
「レオン、こちらのお菓子を食べてみない?」
「レオンハルト様、こちらの紅茶も美味しいですよ」
「レオン様、少し休憩なさってくださいね」
なぜか、セレスティア、リゼット、エリシアの三人に囲まれていた。
「……ありがとう。でも、俺は大丈夫だぞ?」
そう答えると、セレスが少し頬を膨らませた。
「レオンはいつもそう言うのよ」
「そうでしょうか?」
リゼットが、くすりと笑う。
「はい。自分のことになると、少し鈍感ですから」
「……鈍感?」
俺が首を傾げると、三人は顔を見合わせた。
そして。
「……本当に、そういうところなのよね」
セレスが、小さく呟いた。
何のことだろう。
そう思っていると、少し離れた場所から母の笑い声が聞こえてきた。
「ふふっ。レオンも、なかなか大変そうね」
「……母上?」
母は、楽しそうに微笑むばかりだった。
その隣では、父が俺を見ていた。
「……レオン」
「はい、父上」
「女性の気持ちを理解するのも、立派な男の務めだぞ」
「……は?」
突然の言葉に、思わず間の抜けた声が出た。
すると叔父まで笑い始めた。
「ははは! 戦いではあれほど鋭いのに、こういうことには疎いのか!」
「……叔父上まで」
会場に、明るい笑い声が広がった。
俺は少し困惑したが、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
むしろ。
こうして皆が笑っていることが、ただ嬉しかった。
◇
祝宴も終わりに近づいた頃。
シャル姉とルシウスが、俺の前へやってきた。
「レオン」
「兄様」
二人とも、どこか真剣な表情をしていた。
「……どうした?」
シャル姉が、そっと俺の手を取った。
「改めて、言わせて」
「……うん」
彼女は、真っ直ぐに俺を見つめた。
「助けてくれて、ありがとう」
その声は、少し震えていた。
「私たちがここにいられるのは、あなたのおかげよ」
「……シャル姉」
「怖かったの」
シャル姉は、小さく笑った。
「本当は、すごく怖かった。でも、レオンが来てくれたとき、もう大丈夫だって思えた」
その言葉に、胸が締めつけられた。
続いて、ルシウスが口を開いた。
「僕もです」
少年は、左手で俺の袖を握った。
「兄様が来てくれたとき、本当に嬉しかった」
「……ルシウス」
「だから、僕はもっと強くなります」
その瞳には、確かな決意が宿っていた。
「いつか、兄様を守れるくらいに」
俺は、二人を見つめた。
そして。
ゆっくりと、二人を抱き締めた。
「……ありがとう」
声が、少しだけ震えた。
「でも、無理はするなよ」
「はい!」
「分かってるわ」
二人が笑う。
俺も、笑った。
大広間の向こうでは、家族たちが静かにこちらを見守っていた。
セレスティアも、リゼットも、エリシアも。
誰も、言葉を挟まなかった。
ただ、その温かな光景を見つめていた。
――守るべきものがある。
それは、決して弱さではない。
俺にとっては。
何よりも大きな、強さの理由だった。
――第106話・完――




