第10話 裏切りの元婚約者と、失われた微笑み
王国暦八百二十一年、春月二十日。
王都ローゼンベルク侯爵家。
豪奢な寝室の窓辺に、一人の少女が立っていた。
ヴィオレッタ・ローゼンベルク。
艶やかな栗色の髪と、紫水晶のような瞳を持つ十五歳の令嬢。
王国有数の名門侯爵家に生まれ、幼い頃から完璧な貴族令嬢として育てられてきた少女だ。
そして。
かつて、レオンハルト・ヴァルディスの婚約者だった。
「……また、レオンハルト様の記事……」
ヴィオレッタは、手元の新聞を見つめていた。
そこには、王女救出事件と聖女監禁事件についての記事が掲載されている。
黒き暴君と呼ばれていた少年が、次々と人々を救っている。
それも、見返りを求めずに。
「……どうして……」
ヴィオレッタは、小さく呟いた。
自分が知っているレオンハルトは、もっと冷たい人間だったはずだ。
少なくとも、そう思っていた。
だが。
新聞に記された彼の行動は、昔の記憶と重なっていた。
まだ婚約関係が良好だった頃。
彼は、いつも自分に優しかった。
誕生日には、わざわざ領地から珍しい花を取り寄せてくれた。
体調を崩したときには、何度も見舞いの手紙を送ってくれた。
そして。
初めて二人で王城の庭園を歩いた日。
『ヴィオレッタが笑ってくれるなら、それでいい』
そう言って、少し照れくさそうに微笑んだ。
……あの笑顔。
いつから、見なくなったのだろう。
ヴィオレッタは、静かに目を閉じた。
◇◆◇
三年前。
王都の貴族学院準備課程。
十二歳だったヴィオレッタは、王太子殿下から声をかけられた。
『君は、ローゼンベルク侯爵家のヴィオレッタ嬢だね』
王太子。
次期国王となる人物。
その存在は、幼い少女にとって眩しすぎるものだった。
『……はい、殿下』
『以前から、君と話してみたかったんだ』
王太子は、優雅に微笑んだ。
その日から、彼は頻繁にヴィオレッタへ声をかけるようになった。
茶会。
舞踏会。
王宮での催し。
そして、二人きりの時間。
最初は、ただ嬉しかった。
王太子に認められた。
特別な存在として扱われた。
そんな優越感が、少女の心を満たしていった。
だが。
ヴィオレッタには、すでに婚約者がいた。
レオンハルト・ヴァルディス。
王国最強の公爵家の後継者。
剣と魔法の天才。
そして、幼い頃から自分を大切にしてくれた少年。
……それなのに。
彼女は、王太子からの誘いを断れなかった。
いや。
断らなかった。
王太子妃という地位。
王国で最も高い場所へ立つ未来。
その甘い誘惑に、心を奪われてしまったのだ。
やがて、王太子は彼女へ告げた。
『君は、レオンハルトに相応しくない扱いを受けているのではないか?』
『……え?』
『彼は冷酷だと聞いている。君を傷つけてはいないか?』
そのとき。
ヴィオレッタは、否定するべきだった。
レオンハルトは、自分を傷つけたことなど一度もない。
むしろ、いつも気遣ってくれていた。
だが。
彼女は、否定しなかった。
『……少し、怖いと感じることはあります』
それは、小さな嘘だった。
だが、その嘘は次第に大きくなっていった。
レオンハルトは傲慢だ。
レオンハルトは冷酷だ。
レオンハルトは婚約者を蔑ろにしている。
そして。
王太子の側近たちから、ある話を持ちかけられた。
『ヴァルディス家の軍事情報を、少しだけ教えていただけませんか?』
最初は、断った。
だが、何度も頼まれるうちに、彼女は一部の情報を漏らしてしまった。
……王太子殿下のためなら。
そう、自分に言い聞かせて。
その結果。
レオンハルトとの婚約は、破綻した。
◇◆◇
現在。
ヴィオレッタは、ゆっくりと目を開いた。
「……私は……」
彼女の声が、震えた。
「……何を、してしまったの……?」
婚約を破棄した後。
レオンハルトは、ほとんど笑わなくなった。
自分を責めることもなかった。
怒鳴ることもなかった。
ただ、静かに距離を置いた。
それが、余計に恐ろしかった。
そして。
周囲の人々は、彼を黒き暴君と呼ぶようになった。
……私は、その噂を否定しなかった。
むしろ、自分の立場を守るために利用した。
ヴィオレッタは、唇を噛んだ。
……取り返しのつかないことをした。
そのとき。
コンコン。
扉が叩かれた。
「……お嬢様」
侍女の声だった。
「……王太子殿下から、お手紙が届いております」
ヴィオレッタは、ゆっくりと振り返った。
「……わかったわ」
差し出された封筒には、王家の紋章が刻まれていた。
彼女は、静かに封を切った。
そして。
手紙を読んだ瞬間。
その顔から、血の気が引いた。
『レオンハルト・ヴァルディスに関する新たな証言が必要となった。君の協力を期待している』
……証言?
ヴィオレッタは、震える手で手紙を握りしめた。
その意味を、彼女は理解していた。
また。
自分に、嘘をつけと言っているのだ。
◇◆◇
同じ頃。
ヴァルディス公爵家別邸。
俺は、執務室で書類を確認していた。
王女襲撃事件。
教会の不正。
聖女監禁事件。
そして、エレノアを狙った襲撃事件。
……随分と忙しい数日間だったな。
俺は、軽く肩を回した。
そのとき。
「……レオンハルト様」
エレノアが、静かに声をかけてきた。
「……ん?」
「……少し、お休みになられてはいかがでしょうか?」
「……まだ大丈夫だ」
俺は、書類から顔を上げた。
「……それより、お前の方こそ休んだらどうだ?」
エレノアは、少し驚いたように目を瞬かせた。
「……私、でございますか?」
「ああ」
俺は、静かに頷いた。
「昨日、あんなことがあったばかりだろ」
エレノアは、柔らかく微笑んだ。
「……ご心配には及びません」
「……本当か?」
「はい」
そして、少しだけ頬を赤らめた。
「……レオンハルト様のお側にいることが、私にとって一番の安らぎですから」
「……そうか」
俺は、思わず笑った。
「……なら、無理はするなよ」
「……はい」
エレノアは、嬉しそうに頷いた。
そのとき。
コンコン。
扉が叩かれた。
「……レオンハルト様」
セバスティアンの声だった。
「……どうした?」
「……ローゼンベルク侯爵家より、書簡が届いております」
俺は、思わず手を止めた。
……ローゼンベルク?
その名前には、聞き覚えがある。
いや。
忘れようにも、忘れられない名前だ。
ヴィオレッタ・ローゼンベルク。
かつての婚約者。
そして。
レオンハルトを裏切った少女。
「……内容は?」
俺が尋ねると、セバスティアンは静かに答えた。
「……ヴィオレッタ様より、直接お会いしたいとの申し出でございます」
……なるほど。
俺は、小さく息を吐いた。
「……何の用だろうな」
エレノアが、少しだけ表情を曇らせた。
「……レオンハルト様」
「……ん?」
「……お会いになるのですか?」
俺は、しばらく考えた。
原作のレオンハルトにとって、ヴィオレッタは深い傷を残した存在だった。
だが。
今の俺は、違う。
過去に囚われるつもりはない。
それに。
彼女が何を考えているのか、確かめる価値はある。
「……会ってみよう」
俺は、静かに告げた。
◇◆◇
午後二時。
ヴァルディス公爵家別邸。
応接室。
ヴィオレッタ・ローゼンベルクは、緊張した面持ちで椅子に座っていた。
豪奢なドレス。
丁寧に整えられた髪。
完璧な貴族令嬢の姿。
だが。
その指先は、わずかに震えていた。
……本当に、会ってくれるなんて。
彼女は、静かに息を吐いた。
そのとき。
扉が開いた。
「……待たせたな」
低く、落ち着いた声。
ヴィオレッタは、ゆっくりと顔を上げた。
そこに立っていたのは。
黒髪の少年。
深紅の瞳。
そして、冷たいほど整った顔立ち。
レオンハルト・ヴァルディス。
かつての婚約者だった。
「……レオンハルト様……」
ヴィオレッタは、思わず立ち上がった。
「……久しぶりだな」
俺は、静かに微笑んだ。
「……座ってくれ」
「……はい」
彼女は、ゆっくりと椅子へ腰を下ろした。
俺も向かい側に座る。
エレノアが、静かに紅茶を用意した。
……さて。
何の話だろうな。
「……それで」
俺は、静かに口を開いた。
「……今日は、どうした?」
ヴィオレッタは、しばらく黙っていた。
そして。
ゆっくりと顔を上げた。
「……謝りたくて、参りました」
俺は、少しだけ目を細めた。
「……謝る?」
「……はい」
彼女の声が、震えた。
「……三年前のことです」
……なるほど。
俺は、黙って続きを待った。
「……私は、あなたを裏切りました」
ヴィオレッタの瞳に、涙が浮かぶ。
「……王太子殿下に惹かれ、婚約者であるあなたを傷つけました」
俺は、静かに頷いた。
「……そうだな」
その言葉に、彼女の肩が震えた。
「……しかも、私は……」
ヴィオレッタは、唇を噛んだ。
「……あなたについて、嘘をつきました」
エレノアの表情が、わずかに険しくなる。
俺は、静かに問いかけた。
「……どんな嘘だ?」
ヴィオレッタは、ゆっくりと答えた。
「……あなたが、私を虐げていたと……」
俺は、黙って聞いていた。
「……本当は、そんなことは一度もなかったのに……」
彼女の瞳から、涙が零れた。
「……私は、自分の立場を守るために……!」
俺は、小さく息を吐いた。
……なるほど。
ようやく、自分のしたことを理解したわけか。
だが。
それだけでは、終わらない。
「……ヴィオレッタ」
「……はい」
「……それだけか?」
その瞬間。
彼女の顔から、血の気が引いた。
「……っ!」
俺は、静かに続けた。
「……軍事情報の件も、あるだろ」
ヴィオレッタは、完全に言葉を失った。
……やっぱりな。
俺は、静かに紅茶を飲んだ。
「……知っていたのですか……?」
彼女が、震える声で尋ねた。
「……ある程度はな」
俺は、静かに答えた。
「……ただ、証拠が足りなかった」
ヴィオレッタは、俯いた。
「……申し訳、ございません……」
その声は、かすれていた。
俺は、しばらく黙っていた。
そして。
静かに告げた。
「……謝罪は受け取る」
ヴィオレッタが、顔を上げた。
「……ですが……!」
「……ただし」
俺は、真っ直ぐに彼女を見つめた。
「……許すかどうかは、別の話だ」
その言葉に、ヴィオレッタの瞳が揺れた。
「……お前のしたことは、軽くない」
俺は、静かに続けた。
「……俺だけじゃない。公爵家の人間も、傷つけた」
ヴィオレッタの瞳から、涙が溢れた。
「……はい……」
「……だから」
俺は、静かに告げた。
「……本当に償いたいなら、行動で示してくれ」
ヴィオレッタは、ゆっくりと頷いた。
「……はい……!」
◇◆◇
そのとき。
ヴィオレッタが、懐から一通の手紙を取り出した。
「……レオンハルト様」
「……ん?」
「……これを、お渡ししたくて」
俺は、手紙を受け取った。
封蝋には、王家の紋章。
……王太子からか。
俺は、静かに封を切った。
そして。
内容を読んだ瞬間。
思わず、笑ってしまった。
「……なるほど」
ヴィオレッタが、不安そうにこちらを見る。
「……何が、書かれていましたか……?」
「……俺について、新しい証言が必要らしい」
俺は、手紙を机へ置いた。
「……随分と、都合のいい話だな」
エレノアの瞳が、鋭く光った。
「……レオンハルト様」
「……ああ」
俺は、静かに頷いた。
……これは、使える。
王太子が、ヴィオレッタに虚偽の証言を求めている。
少なくとも、その疑いを裏付ける材料になる。
ただし、手紙だけでは不十分だ。
具体的に何を証言させようとしているのか。
誰が指示したのか。
それを、明らかにする必要がある。
「……ヴィオレッタ」
「……はい」
「……一つ、聞きたい」
俺は、真っ直ぐに彼女を見つめた。
「……お前は、本当に過去を償いたいと思っているか?」
ヴィオレッタは、迷わず頷いた。
「……はい」
俺は、静かに微笑んだ。
「……なら、協力してくれ」
「……何を、すればよろしいのでしょうか?」
「……王太子が何を企んでいるのか、確かめたい」
その言葉に、ヴィオレッタは少しだけ目を見開いた。
「……殿下を、調べるのですか……?」
「……ああ」
俺は、静かに頷いた。
「……ただし、無理はさせない」
ヴィオレッタは、しばらく考えた。
そして。
ゆっくりと頷いた。
「……わかりました」
その瞳には、決意が宿っていた。
「……私にできることなら、何でもいたします」
俺は、静かに息を吐いた。
……さて。
少しずつ、状況が変わってきたな。
◇◆◇
その日の夕方。
ヴァルディス公爵家別邸。
俺は、父と母へヴィオレッタの訪問について報告していた。
「……ヴィオレッタ・ローゼンベルクが?」
父の声が、低くなった。
「……はい」
「……あの娘が、何をしに来た?」
俺は、静かに答えた。
「……謝罪です」
その瞬間。
母の表情が、変わった。
「……謝罪?」
「……はい」
母は、しばらく黙っていた。
そして、静かに告げた。
「……レオンちゃん」
「……はい」
「……あなたは、どう思ったの?」
俺は、少しだけ考えた。
「……本当に後悔しているようには見えました」
母は、ゆっくりと頷いた。
「……そう」
そして。
静かに続けた。
「……でも、あの娘があなたを傷つけたことは、消えないわ」
「……わかっています」
父も、静かに口を開いた。
「……レオンハルト」
「……はい」
「……お前がどう判断するかは、尊重する」
その言葉に、俺は少し驚いた。
父は、ゆっくりと続けた。
「……だが」
その瞳が、鋭く光った。
「……再びお前を傷つけようとするなら、話は別だ」
母も、静かに微笑んだ。
「……そのときは、お母様も黙っていないわ」
……怖い。
俺は、思わず苦笑した。
「……ありがとうございます」
父は、静かに頷いた。
「……当然だ」
そして。
少しだけ表情を緩めた。
「……お前は、私たちの大切な息子だからな」
……本当に。
この両親には、敵わないな。
◇◆◇
同じ頃。
王都ローゼンベルク侯爵家。
ヴィオレッタは、自室で静かに座っていた。
レオンハルトの言葉が、何度も頭の中に響いていた。
『謝罪は受け取る。ただし、許すかどうかは別の話だ』
……そうよね。
ヴィオレッタは、静かに目を閉じた。
自分がしたことは、簡単に許されるものではない。
婚約者を裏切った。
嘘をついた。
軍事情報まで漏らした。
そして。
彼が傷ついていく姿を、見て見ぬふりをした。
「……レオンハルト様……」
彼女の瞳から、涙が零れた。
……どうして。
どうして、あの頃の私は。
あんなにも大切な人を、簡単に裏切ってしまったのだろう。
だが。
今さら後悔しても、時間は戻らない。
だからこそ。
彼女は、静かに決意した。
……今度こそ。
自分の意思で、正しいことをしよう。
たとえ。
その結果、王太子殿下を敵に回すことになっても。
◇◆◇
同じ頃。
王都の地下。
黒い外套の男が、報告を受けていた。
「……ヴィオレッタが、レオンハルトと接触した?」
「……はい」
部下が、静かに答える。
「……しかも、長時間話し込んでいたようです」
「…………」
男は、しばらく黙っていた。
そして。
ゆっくりと笑った。
「……なるほど」
その声には、冷たい愉悦が宿っていた。
「……これは、面白い」
部下が、首を傾げる。
「……いかがいたしますか?」
男は、静かに答えた。
「……予定を変更する」
「……変更?」
「ああ」
男は、机の上に置かれた書類を手に取った。
そこには、王太子の名前が記されていた。
「……ヴィオレッタは、こちらの思い通りには動かないかもしれん」
そして。
静かに続けた。
「……ならば、別の方法を使う」
部下が、恐る恐る尋ねた。
「……どのような?」
男は、冷たく微笑んだ。
「……王太子殿下の名を使い、レオンハルトを公の場へ引きずり出す」
そして。
机の上に、一通の招待状を置いた。
そこには、王家の紋章が刻まれていた。
『王国建国記念舞踏会』
男は、静かに笑った。
「……貴族たちの前で、もう一度あの少年を断罪してやろう」
――かつてレオンハルトの心を壊した婚約破棄の悪夢が、再び動き出そうとしていた。
だが、彼らはまだ知らない。
今のレオンハルトには、決して揺るがぬ家族と仲間がいることを。
そして。
黒き暴君と呼ばれた少年が、二度と同じ結末を受け入れるつもりなどないことを。




