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瀬戸の約束【11歳の約束、29歳で果たす】  作者: あおきつばさ


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第9話「母校」

第9話「母校」


翌朝。ホテルのカーテンを勢いよく開けると、遮る雲ひとつない、どこまでも突き抜けるような青空が広がっていた。


防府に来て、早くも三日目の朝やった。

本来のスケジュール通りであれば、俺はとっくにしまなみ海道を颯爽と渡っているはずの日だ。実際には俺の慣れ親しんだロードバイクは、ホテルの無機質な駐輪場の片隅に、昨日から大人しく置かれたままになっている。


ホテル一階の朝食会場へ降り、簡単に朝食を済ませることにした。ビジネスホテル特有の、お馴染みのバイキング形式だ。


小ぶりの焼き魚、温かい味噌汁、ほんのり甘い卵焼き。


過酷な自転車旅を続けていると、おしゃれなレストランの料理よりも、こういう何の変哲もない普通の和朝食が妙にありがたく、身体に染み渡る。食後のホットコーヒーをのんびり啜りながら、大きなガラス窓の外を眺めた。


今日も昨日と同じように、容赦なく暑くなりそうだった。



約束の時間である午前九時を少し回った頃、美樹がホテルのロビーまで迎えに来た。

涼しげな白いワンピースに、薄手のカーディガンを羽織っている。夜の居酒屋で見せたラフなジーンズ姿とはまたガラリと雰囲気が違って、ハッとするほど大人っぽく見えた。


「ちゃんと遅刻せんと待てとったね、涼太」


「せやから、十分前行動は基本やて。お前こそ張り切りすぎやろ」


「えらいえらい。ご褒美に今日はいっぱい案内しちゃる」


「子供扱いすんなや」


俺が呆れたように言うと、美樹はくすくすと楽しそうに笑う。


「で、今日はどこ連れてってくれるんや?」


「秘密!」


「まだ言うてるんか、お前」


「案内人が秘密って言うたら秘密なんよ」


美樹は白い歯を見せて無邪気に笑った。

そして、俺が押す自転車の歩調に合わせるようにして、ゆっくりと歩き始めた。駅前のロータリーを抜け、次第に静かな住宅街の入り口へと入っていく。


アスファルトの道をしばらく進むうち、俺の視界に見覚えのある懐かしい街並みが現れ始めた。

俺は思わず、スニーカーの足を止めた。


「……なぁ、ここ、まさか」


その視線の先に見えてきたのは、高くそびえる防府市立の小学校だった。

正門の古びたコンクリートの門柱こそ当時のままであったが、奥に見える校舎はすっかり新しく建て替えられている。だけれど、大まかな配置は俺の記憶と完全に一致していた。


広々とした校庭の位置も。

大きな体育館の屋根も。

そして、春になると一斉に咲き誇る、正門前の立派な桜並木の佇まいも。

間違いなく、俺たちが通っていたあの場所だった。


「ふふ、懐かしいじゃろ?」

美樹が俺の顔を覗き込み、誇らしげに言った。


「あぁ……ほんまにな」


俺は吸い寄せられるように、校門の前へと歩み寄った。

二十年近くも前のことだ。俺は毎日、この門をくぐって教室へと向かっていた。


朝、友達と誰が一番早く着くか競争して全力で走った道。忘れ物を取りに慌てて引き返した、夕暮れの寂しい放課後。チャイムが鳴るまで泥だらけになってサッカーをした校庭。全部、全部ここにあったんや。


緑色のネットフェンス越しに、広大な校庭を見つめる。ちょうど体育の授業の最中らしく、体操服を着た小さな子供たちが、先生のホイッスルの音に合わせて元気に走り回っていた。

そのきらきらとした光景をじっと見つめていると、自分の脳内の奥底で眠っていた古い記憶の歯車が、音を立ててゆっくりと動き始めるのが分かった。


「涼太、覚えちょる?」

美樹がフェンスに軽く手をかけ、遠くを見つめながら言った。


「何をよ?」


「あんた、転校初日からめちゃくちゃ目立っとったんよ」


「……そうか? 俺、そんなタイプちゃうかったやろ」


「目立っとったって! サッカーはクラスの誰よりも上手いし、足もすっごく速かったし」


「そんなん、小学生の男子なんてみんな普通やろ」


「普通じゃないよ」

美樹はきっぱりと断言した。


「女子の間でね、席替えの時とかに『太田君の隣がいい』って、結構話題じゃったんじゃからね」


「嘘つけや。そんなん聞いたことないわ」


「ほんまよ。涼太が鈍かっただけじゃもん」


そう言われても、本人には全くそんな華やかな記憶は残っていない。

ただただ、見知らぬ土地の学校に転校したばかりで、周囲に馴染めるかどうかガチガチに緊張していた記憶しか選別できなかった。


「そういえば」

美樹が少しだけ声をトーンダウンさせて、言葉を続けた。


「転校初日の朝、教室の後ろの方で、ずうっと声を殺して泣いちょった女の子がおったじゃろ?」


そのあまりにも具体的な描写に、俺は少しだけ首を傾げた。

「……泣いてる子? 確かにおったような、おらんかったような……」


美樹はふっと、どこか切なそうに笑った。


「私よ」


俺の身体が、再び固まった。


「え……?」


「私じゃったんよ、あの時泣いちょったのは」


あまりにもさらりと言われて、俺は言葉を失った。


「……ほんまに、全然覚えてへんわ」


「ひどいねぇ」


「いや、わざとやなくて、ほんまに自分のことで必死やったから……。でも、なんで泣いてたん?」


「まあ、涼太はそうじゃろうね」

美樹は怒る風でもなく、少しだけ視線を遠くへと移した。あの頃の、懐かしくて少し痛い記憶の糸を、丁寧に辿るように。


「私ね、その頃クラスのグループに上手く入れんで、ちょっと浮いちょったんよ。毎日学校に来るのが、すっごく怖くて寂しかったん」


「美樹が、浮いてた……?」


「うん」


それは、俺にとって完全に初めて聞く話だった。

俺の記憶にある小学生時代の美樹は、いつも男勝りで明るくて元気で、誰よりも中心になって友達に囲まれている印象しかなかったからだ。だから、彼女がそんな孤独を抱えていたなんて、夢にも思わなかった。


「でもね」

美樹は振り返り、俺の目を真っ直ぐに見つめて微笑んだ。

「あの日の朝、西宮から転校生が来て――全部が変わったんよ」


「……俺が、何かしたか?」


「うん。涼太がね、入ってきたんよ」


彼女は再び、フェンスの向こうの校庭へと視線を戻した。元気に走り回る子供たちの影に、二十年前の、まだ小さかった頃の俺たちの姿を重ね合わせているようだった。


「気づいた時にはね、いつも当たり前みたいに一緒におった。涼太が、私の手を引っ張って外に連れ出してくれたんよ。……それからじゃね、学校がすっごく楽しくなったのは」


「そんなもん、やったかな……」


「そんなもんよ」


美樹はそれ以上、当時の具体的なエピソードを語ろうとはしなかった。だが、朝の光を浴びた彼女の横顔は、言葉にできないほど優しくて、ひどく温かい慈愛に満ちていた。



二人は静かに、母校の正門前を離れた。

そのまま、あの頃に二人で毎日のように歩いていた、懐かしい通学路をなぞるように歩く。


サラサラと水の流れるコンクリートの用水路。何度も飛び越えて遊んだ小さな石の橋。そして、いつも夕暮れ時まで雨宿りをしていた古い神社の境内。


歩みを進めるたびに、脳内のモノクロだった記憶の断片が、鮮やかな色彩を伴って少しずつ、でも確実に繋がっていくのを感じていた。


「……なんか、不思議な感覚やな」

俺はハンドルを握り直しながら、ぽつりと呟いた。


「何が?」


「いや、昨日一人で街を歩き回った時よりも、今お前と一緒に歩いてる方が、ずっと当時のことを鮮明に思い出せる気がすんねん」


「あはは、そりゃそうよ。私がおるけえね」

美樹は至極当然だというように、胸を張って言った。

「一人きりじゃ、頭の奥のほうに忘れたままじゃったことも、二人でおればちゃんとバシッと思い出すんよ」


その美樹の言葉に、俺は深く納得させられた。

確かにその通りや。街並みや新しくなった建物だけを眺めていても、過去は蘇らない。だけれど、当時を一緒に生きて、同じ空気を吸っていた人間がすぐ隣にいてくれるだけで、驚くほど記憶の解像度が上がっていく。

二十年近く前の、まだ何にでもなれると信じていた真っ直ぐな自分が、少しずつ身体の奥底に戻ってくるような――そんな不思議な、心地良い錯覚に包まれていた。


しかし、この時の俺はまだ知る由もなかった。

美樹が、今日あえて最初の目的地として、この思い出の母校を選んで俺を連れてきた理由を。

彼女にとって、この小学校という場所が、単なるノスタルジーに浸るための場所ではないということを。


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