第10話「思い出の地図」
第10話「思い出の地図」
母校を後にした俺たちは、そのまま防府の街をゆっくりと歩いていた。
五月とは思えないほどの強い初夏の日差しが、容赦なくアスファルトを照りつけ、陽炎を立ち上がらせている。それでも不思議と、俺の足取りは驚くほど軽かった。
昨日一人で歩いていた時は、ただの寂しくて懐かしいだけの街やった。でも、今は全く違う。
隣には、当時を一緒に生きた人間がいる。それだけで、見慣れたはずの景色の見え方がガラリと鮮やかに変わっていくのが分かった。
「なぁ美樹、次はどこ行くんや?」
俺が自転車を押しながら訊くと、美樹は悪戯っぽく微笑んだ。
「ふふ、涼太がまだ当時のことをちゃんと覚えちょるか、試そうと思ってね」
「何を試すねん」
「防府検定!」
「なんやそれ。そんなマニアックな検定、聞いたことないわ」
「今、私が作ったんよ」
美樹はふん、と得意げに鼻を鳴らした。相変わらず、人を引っ張り回すのが大好きな性格はあの頃のままである。
◇
最初に連れて行かれたのは、住宅街の片隅にある小さな公園だった。ブランコと錆びかけた滑り台がぽつんとあるだけの、どこにでもあるごく普通の児童公園だ。
俺はその古びた入口の柵を見た瞬間に、脳内の記憶がバチッと繋がった。
「あっ……!」
「お、思い出した?」
「ここ、あれやろ。中央の、あの大きな木の根元……」
俺が公園の真ん中にある大木を指差すと、美樹は耐えかねたように吹き出した。
「あはは! なんで覚えちょるん、それ!」
「いや、自分でもびっくりやけど、急に鮮明に思い出したわ。ここ、カブトムシ埋めた場所やん」
小学四年生の夏やった。二人で必死に捕まえたお気に入りのカブトムシが死んでしまい、大泣きしながらこの公園の土を掘って埋葬したのだ。近くの枝を拾って、割り箸で小さな墓標まで作ったっけ。
今考えると、なんとも子供らしくて微笑ましい思い出だ。
「あの時、涼太、大泣きしよったもんねぇ」
「泣いてへんわ! 泣きそうになってたのはお前やろ」
「ううん、涼太が泣いちょった」
「絶対泣いてへん!」
美樹は嬉しそうに声を上げて笑った。その屈託のない笑顔につられて、俺の胸の奥もじんわりと温かくなっていく。
◇
次に訪れたのは、サラサラと穏やかな水の流れる川沿いの遊歩道だった。
風に揺れる青々とした草木、遠くに見える山々の稜線。景色そのものは、二十年近く前とほとんど変わっていないように見えた。
「ここは、さすがに覚えちょる?」
「……おぉ。さすがにな、これは忘れんわ」
俺は深く頷いた。
「俺が、お前に自転車の練習を教えた場所やろ」
「正解!」
美樹がパッと花が咲いたように笑う。その瞬間、また眩しい記憶の断片が次々と蘇ってきた。
まだ補助輪が付いていた、美樹のピンク色の小さな自転車。思い通りに動かせなくて、今にも泣き出しそうな顔をしていた九歳の美樹。
『涼太、絶対に後ろ離すなよ! 離したら怒るけえね!』
『分かっとるって、離してへんから! まっすぐ前見て漕げ!』
『絶対離すなよ!』
『大丈夫やって!』
――そして数秒後。俺が手を離した途端、美樹の自転車は大きくバランスを崩し、盛大に横転した。
案の定、美樹は膝を派手に擦りむいて、火がついたように大泣きした。俺は「ごめん!」と言いながらも、その泣き顔が少し面白くて、必死に笑いを堪えていたっけ。
それでも彼女は、翌日にはまた絆創膏を貼って練習に現れた。結局、一週間ほど泥だらけになりながら練習を重ね、彼女は完全に乗りこなせるようになったのだ。
「懐かしいなぁ……ほんまに」
俺がしみじみと呟くと、美樹は歩調を緩めて川面を見つめた。
「あの時ね、涼太が一生懸命教えてくれたんよ」
「そうやったっけ。俺、ただ面白がって後ろから押してただけのような気がするけどな」
「そうじゃよ。私は自転車に乗れんくて、すっごく悔しかったんじゃから」
「はは、そんな時代もあったな。補助輪付いてんのに乗られへんて……」
「失礼じゃねぇ」
二人は並んで笑い合った。
その後、美樹はふと歩みを止め、少しだけ真面目な顔をして俺を見つめた。
「私ね……」
「ん? 何や」
「その頃から、ずうっと心の底から思っとったんよ」
俺が少し首を傾げると、美樹は少し照れ臭そうに、視線を恥ずかしそうに逸らした。
「涼太って、本当に何でもできる凄い人じゃなぁって」
「何でもはできへんって。ただのクソガキやったわ」
「ううん、できちょったよ」
美樹は譲らない。
「サッカーだってクラスの誰よりも上手かったし」
「いや、あれは普通やって」
「足だって、リレーの選手に選ばれるくらい速かったし」
「それも、クラスの中では普通やろ」
「勉強だって、いっつも百点ばっかり取っちょったじゃん」
「あ……まぁ、それは否定せえへんわ」
「ほら、そういうとこが腹立つ!」
小突くような仕草を見せる美樹に、二人でまた声を合わせて笑った。
だけれど、美樹は笑いを収めると、少しだけ声をトーンダウンさせて言葉を続けた。
「私にとってはね……あの頃から、涼太は王子様っていうか、ヒーローみたいな存在じゃったんよ」
その真っ直ぐな言葉に、俺は少しだけ戸惑ってしまった。そんな風に大層に慕われていた記憶は、俺の側には全くない。ただ毎日、学校が終われば当たり前のように隣の家から美樹を呼び出して、日が暮れるまで一緒に遊んでいただけだ。
ただ、それだけのことだと思っていた。
「……いくらなんでも、買い被りすぎやろ」
「そうかねぇ?」
「おぉ、絶対にそうや」
美樹は、静かに首を横に振った。
「違うよ、涼太」
その呟きだけは、悪戯のない、妙に真剣な響きを孕んでいた。
◇
昼過ぎ。二人は商店街の近くにある、ひなびた大衆食堂へと入った。冷房の効いた店内で、運ばれてきた冷たい麦茶を喉に流し込む。乾いた身体に、その冷たさが猛烈に染み渡るようだった。
「しかし……」
俺はふっと息を吐いて笑った。
「思ったより、当時のことって覚えてるもんなんやな」
「じゃろ?」
「昨日一人で歩いてた時は、ほんまに何も思い出せなくて焦ったのにさ」
「ふふ、人間の記憶って、そういうもんなんよ」
美樹は運ばれてきたうどんの箸を動かしながら、優しく微笑んだ。
「ただの景色や場所だけじゃね、頭の引き出しは開かんのんよ。でも――当時を一緒に過ごした『誰か』と一緒なら、ちゃんと全部思い出せるんじゃけえ」
その美樹の言葉に、俺は深く得心した。
昨日一人で見た、あの冷たいアパートの風景。
今日美樹と一緒に見た、この懐かしい街の景色。
街そのものは何も変わっていないはずなのに、胸に湧き上がってくる感じ方は、天と地ほども全く違っていた。
思い出というものは、場所や建物だけでは決して完成しない。そこに、かつて一緒に笑い合っていた『人』がいてくれて、初めて温かい形になるのだ。そんな当たり前のことに、二十九歳になって、会社を辞めてこの街に来るまで、俺は全く気づけていなかった。
食堂の窓の外では、眩しい初夏の日差しがキラキラと輝いている。
旅は、まだ始まったばかりやった。
俺は、自分の胸の中で少しずつ理解し始めていた。
この門司からの自転車旅は、単なる気まぐれな無職の旅行なんかではない。
自分が社会の中でいつの間にか失くしてしまった、あの真っ直ぐな時間を取り戻すための旅なのだと。
そして――その失われた愛おしい時間の中には、いつだって、この美樹がすぐ隣にいたのだということを。




