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瀬戸の約束【11歳の約束、29歳で果たす】  作者: あおきつばさ


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第11話「夕暮れの約束」

第11話「夕暮れの約束」


午後の日差しは、時間が経っても相変わらず強烈なままだった。

食堂を出ると、美樹が「午後はね、自転車で街を回ろうや!」と元気に言い出した。


「午後は自転車!」

そう高らかに宣言すると、彼女は食堂の裏手に回って、そこから一台のネイビーのクロスバイクを引っ張り出してきた。自分の愛車に乗れるのが嬉しいのか、なんだかひどく上機嫌だ。


「え、お前、自転車なんて持っとったんか」


「当たり前じゃん、毎日の通勤用よ」


「へぇ、なんかちょっと意外やな」


「何それ、失礼じゃねぇ?」

美樹はぷっと頬を膨らませてみせる。


俺の乗ってきた本格的なロードバイクと並べると、街乗り用のクロスバイクはどうしても少し見劣りはする。しかし、チェーンの油やタイヤの状態など、驚くほどによく手入れされているのが一目で分かった。


「よし、海行こう、海!」


「海? また三田尻か?」


「ううん、あっちの漁港のほう! すっごく懐かしい場所があるけえね」



二人は並んでペダルを漕ぎ、防府の海沿いの田舎道へと向かった。

遮るもののない直線道路を走り出すと、正面から受ける潮風が最高に心地いい。瀬戸内海は今日もどこまでも穏やかで、大きな波の音ひとつ立っていなかった。静かで深い青が、水平線の向こうまでずっと続いている。


「めちゃくちゃいい天気やなぁ!」


「じゃろ!」

美樹が俺の少し先を、軽快にペダルを回して走っていく。


風に白いワンピースをなびかせて走るその背中を見つめながら、俺は胸の奥で、少し不思議な、甘痒い気持ちになっていた。

二十年前。補助輪付きの自転車が上手く進まなくて、ベソをかいていたあの小さな少女。その勝ち気な面影は確かに残っている。けれど、今目の前で軽やかに自転車を乗りこなしているのは、すっかり大人の女性になった美樹だ。


しばらく海岸線を走ると、美樹がコンクリートの堤防の脇で、キッとブレーキを握って止まった。


「ここよ、ここ!」


「……ここ? 何があるんや」

俺も隣に自転車を止めて周囲を見回す。一見すると、何の変哲もない海沿いの細い道路だ。漁港へと緩やかに続いていく、どこにでもある坂道。


ガードレールの錆びた形や、そこから見える波消しブロックの配置を目にした瞬間、俺の脳裏にドッと鮮烈な映像が蘇った。


「あぁ……っ!」


「ふふ、思い出した?」


「ここ、お前が初めて補助輪外して、派手にすっ転んだ場所やん!」


美樹は嬉しそうに声を上げて笑った。

「そう! 大正解!」


小学三年生の、夏の日やった。

補助輪を外したばかりの頃の美樹は、運動神経が良いはずなのに、なぜか自転車のバランスを取るのだけは壊滅的に下手くそで、何度挑戦しても上手く乗れなかったのだ。

ついその前に、補助輪付きの自転車をようやく乗れるようになったばかりなのだから、無理もない。


十メートル進んでは派手に転び、二十メートル進んではまたガシャーンと転ぶ。

そのたびに痛さと悔しさで泣いて、俺に怒って、また懲りずにペダルを踏んでは転んでいた。


「あの時、お前『もう嫌や! お家帰る!』って、めちゃくちゃキレてたよな」

俺が思い出し笑いをすると、美樹も懐かしそうに目を細めた。


「言うた、言うた!」


「三回くらいは確実に聞いたわ」


「ううん、五回は絶対に言うたね!」

美樹もクスクスと肩を揺らす。


「でも、お前結局、最後まで意地でも帰らんかったもんな」


「だって……どうしても涼太と一緒に、自転車でこの海を見たかったんじゃもん。それに、乗れるようになるまで勝手に帰ったら、涼太に負けたみたいで絶対に嫌じゃと思ったし」


お互いの頑固さに、二人で同時に吹き出すように笑ってしまった。

開けた海から、温かい潮風が優しく吹き抜けていく。そこにあるのは、どこまでも愛おしい、俺たちの原風景そのものだった。



「なぁ、涼太」

美樹が堤防の手すりに腕をのせ、きらきら光る海を見つめたまま言った。


「覚えちょる? あの日の、一番後のときのこと」

俺は少し記憶を遡るように天を仰いだ。そして、ゆっくりと思い出す。


あの日の夕方やった。佐波川の堤防の向こうに、大きな夕日がゆっくりと沈みかけていた時間。もう周囲が薄暗くなる中、何十回目か、あるいは何百回目かの挑戦。

美樹の身体はふらふらしながらも、ペダルを必死に回し続けていた。


そして、ようやく。

誰の手も借りず、補助輪なしの二輪だけで、彼女の自転車は真っ直ぐに走り出したのだ。距離にして、数十メートル。

ふらつくこともなく、転ぶこともなく、夕日に向かって真っ直ぐに。


「乗れた……乗れたんよな、あの時」

俺が言うと、美樹は静かに頷いた。


「うん。乗れた」


「そしたら、お前……」

記憶の映像が、音声付きで鮮やかに蘇ってくる。あの時のまだ子供だった自分が、狂ったように大声を張り上げて叫んでいた。


『美樹! できたじゃん! すげえ、乗れたじゃん!』


自分のことみたいに、飛び跳ねて喜ぶ子供らしい大声。

それを聞いて――美樹も、擦りむいた膝の痛さなんて忘れたように、ボロボロと涙を流しながら、弾けるような笑顔で笑っていたのだ。


「あの時の美樹、顔中ぐしゃぐしゃにして大泣きしとったもんな」


「泣いてないよ!」


「いや、絶対に泣いてたって」


「……ちょっとだけ、よ」

美樹はついに観念したように、小さく口を尖らせて認めた。


「だって……すっごく、嬉しかったんじゃもん」


夕暮れの風のように、ひどく静かで、優しい声だった。


「私ね、あの日の夜、お家に帰ってからも布団の中でまた一人で泣いたんよ」


「なんでや。乗れるようになったんやから、もう泣く必要ないやん」


「嬉しかったから。……それとね」

美樹はふっと、少しだけ照れくさそうに、だけれど悪戯っぽく微笑んだ。


「あと、涼太のことを、すっごく好きになっちゃったから」


俺の身体が、完全に硬直した。


「……え?」


「あの日ね」

美樹は俺の動揺を楽しむように、海を見つめたまま、言葉を重ねる。


「たぶん、あれが私の人生の『初恋』じゃったんよ」


周囲には、優しく寄せては返すさざ波の音だけが響いていた。

俺はあまりにも突然の告白に、どう返事をしていいのか完全に困り果ててしまった。


「……いや、小三やぞ? 小三の時の話やろ?」


「小三じゃけえ、ええんよ。一途じゃろ?」


「いや、早すぎるやろ……」


「そうかねぇ?」

美樹はくすくすと首を傾げる。本人にとっては、至極自然で当然のことだったらしい。


「だってね」

彼女は少しだけ頬を赤く染めながら、指を折って数え始めた。


「学校で困っちょる時はいつも当たり前みたいに助けてくれるし、隣の家じゃし、毎日毎日一緒に遊ぶし、自転車だってこうやって乗れるまで教えてくれるし……」


そして、俺の方を向いて真っ直ぐに笑った。

「あの時の涼太、本当にめちゃくちゃ格好よかったんじゃからね」


「……それは、絶対に記憶が美化されとるわ」


「美化されとらんよ!」

間髪入れず、即答だった。



二人は並んでコンクリートの堤防へと腰掛けた。

夕暮れが近づく瀬戸内海を、何も言わずにじっと眺める。はるか遠くを、白い定期船がゆっくりと横切っていく。


「私ね」

美樹が膝を抱えながら、ぽつりと言った。


「今でも全部、鮮明に覚えちょるんよ。涼太と過ごした、この街での毎日のこと、全部全部」

その横顔は、驚くほど穏やかで、満ち足りているように見えた。


「だからね……」


「おぉ」


「涼太が急に、西宮に引っ越すって聞いた時」

彼女の声が、ほんの少しだけ小さく、切ない響きを帯びる。


「本当に、本当に嫌じゃった」


俺は何も言えなかった。ただ、彼女の横顔をじっと見つめることしか出来なかった。


「ただの仲が良い友達がいなくなるっていう寂しさじゃなくてね。あの日、私の『世界』が全部終わってしもうたって、本気でそう思ったんよ」


初恋。憧れ。そして、自分の世界で一番安心できる大切な居場所。

それを、わずか十一歳という子供の身で、一瞬にして一度に失う。当時の彼女にとって、それがどれほど受け止めきれない巨大な喪失であったか。


「大げさやなぁ……」

俺は照れ隠しに、あえてぶっきらぼうに言った。


「子供じゃったからね、大げさにもなるんよ」

美樹はあははと快活に笑い、勢いよく立ち上がった。


「よし、行こう! 涼太!」


「次はどこ行くねん」


「まだまだ、涼太に案内したい場所がたくさんあるんじゃから!」


そう言って彼女は自分の自転車へとトコトコ歩いていく。その途中、美樹はふと振り返り、夕日を背に受けて満面の笑みを浮かべた。


「でもね、今はこうして、ちゃんと涼太の隣におるけえね」


そう言って笑う彼女の向こうで、瀬戸内の海が黄金色の光を浴びて、眩いほどに美しく輝いていた。


二十年前の、あの夕暮れの坂道で始まった彼女の初恋は――。

今もなお、この防府の海辺で、決して終わっていなかったのだ。


吹き抜ける潮風は、どこまでも優しく、俺たちの火照った身体を心地よく冷ましてくれた。

商店街を抜け、昔よく泥だらけになって走り回った公園を巡り、小さなお寺の境内にも立ち寄る。そのたびに、お互いの口から新しい思い出話が次から次へと溢れ出していった。


「そういえば」

美樹がサドルから腰を浮かせ、急に思い出したように言った。

「涼太、これ、覚えちょる? 私たちの『秘密基地』」


「あー……」

俺は自転車を漕ぎながら、ゆっくりと空を見上げた。


「なんか、覚えているような、いないような……」


「もう、ほんま頼むよ! 河原のさ、あの深い竹やぶの奥のほう!」


「あ! あったな! 家からこっそり段ボールとか古い雑誌持ち込んでさ」


「そうそう! んで、地域のおじさんに『危ないから入りなさんな!』って、こっぴどく怒られたよね」


「あはは、二人して泣きそうになりながら逃げたな、あの時」


二人で声を合わせて大笑いした。小学生の頃の記憶というのは、本当に不思議なものだ。普段の生活では完全に忘れているはずなのに、こうして当時を知る人間と話し始めると、まるで魔法みたいに次から次へと鮮やかに蘇ってくる。



夕方近く。二人は自転車に乗って、大きな佐波川の堤防へとやって来た。


ここからは、夕日に染まりゆく防府の美しい街並みが一望できた。広い河川敷には、夕方の涼しい風を浴びながら散歩をする人や、熱心にランニングをする人の姿がある。遠くでは、楽しそうに犬を連れて歩く家族の姿も見えた。

どこまでも穏やかで、贅沢な時間が、この堤防の上をゆっくりと流れている。


俺は、堤防の柔らかい草地にどさりと腰を下ろした。美樹も、ワンピースの裾を気にしながら、すぐ隣にちょこんと腰掛ける。ほんの少しだけ、お互いの肩が触れ合いそうな、ひどく近い距離感だった。


しばらくの間、心地良い沈黙が続く。

昨日の夜のような気まずさや硬さは、もうどこにもない。むしろ、お互いの呼吸がシンクロするような、最高の心地良さだけが満ちていた。


傾いた夕日が、佐波川の広い水面を、燃えるような鮮やかな赤へと染め上げている。


「なぁ、涼太」

美樹が膝を抱えたまま、ぽつりと言った。


「ん? 何や」


「なんで今回、急にこんな無謀な自転車旅をしようと思ったん?」


俺は少しの間、沈む夕日を見つめながら考えた。自分でも、未だに明確には言葉にできない衝動やったから……だ。


「……逃げたかったんかも分からんな、今思うと」


「仕事から?」


「仕事からというか……」

俺は自分の不器用な言葉を探すように、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「これまでの、自分の生活の全てから、かな」


「七年近く、ただ前だけ見て、遮二無二に働き続けてきた。だけど、気づけば毎日毎日、判で押したような同じことの繰り返しやったんや。朝起きて、満員電車に乗って会社へ行って、深夜に帰って死んだように寝る。休日も、ただ疲れを取るためだけに寝て終わる。そんな生活やった」


俺は自嘲気味に、少しだけ苦笑した。


「そんで、気づいたら二十九になってた。俺……この七年間、一体何やってたんやろなって、急に恐ろしくなったんや。だから一回、全部を止めて、立ち止まりたかったんかもな」


「そっか……」

美樹のその声は、驚くほど優しかった。

俺の生き方を否定するわけでもない。安易に「頑張れ」と励ますわけでもない。ただ、今の俺の情けない格好悪さを、そのまま丸ごと、優しく受け止めてくれる。

その彼女の温かさが、今の俺には、何よりも涙が出るほどありがたかった。


「……美樹は?」

今度は、俺の側から訊ねてみた。


「何が?」


「いや、お前がさ、いろんな街を回った後で、最終的にこの防府に戻ってきた本当の理由」


一瞬だけ、二人の間に少しだけ重い沈黙が落ちた。

美樹は川面を赤く染める夕日を、ただじっと見つめたままだった。


「……帰りたかったんよ」

その声は、酷く静かだった。


「この防府に、か?」


「うん。……ここが、私の『ホーム』じゃからね」


彼女はそれだけ言うと、ふっと視線を落とした。だけれど、それ以上は俺の側からも訊けなかった。夕日に照らされた彼女の横顔には、昨日居酒屋で見せた、あの誰も触れられないような深い理由が、いまだにひっそりと隠されているように見えたからだ。



やがて完全に日が傾き始め、世界が黄金色から深いオレンジ色へと染まっていく。


「そういや」

俺は空気を和らげるように、笑って言った。

「さっきお前が言ってた、あの約束の話やけど」


「ん? どの約束?」


「瀬戸内海を、大人になったら一緒に旅しようってやつ」


美樹がハッとしたように、嬉しそうに笑った。

「あ! やっとしっかり思い出した?」


「おぉ、少しな。お前が畳の上で、ボロボロの地図帳広げてさ」


「そうそう! 涼太がね、『しまなみ海道を自転車で走ったら、絶対に気持ちええぞ!』って、目をきらきらさせながら言いよったんよ」


「あー、やっぱり俺が言い出しっぺやったか。昔すぎるわ」


「昔すぎるって言わんでよ! 私はずうっと覚えとったんじゃからね! 今クロスバイクなんも、それ用じゃけね」

美樹は少しだけ、ぷっと拗ねたような口調になる。


「地図帳広げてさ……」


「うん」


「いつか絶対に、二人でしまなみ海道行きたいねって。……本当に、約束したんよ、私たちは」


その美樹の真っ直ぐな言葉を聞きながら、俺はひどく不思議な、運命めいた感覚を覚えていた。

自分にとっては、過酷な現実の中でいつの間にか忘却の彼方に消え去っていた、子供の戯言のような約束。しかし、美樹は違った。彼女はその約束を、二十年近くもの間、心の聖域にずっと大切に仕舞い込み、抱きしめ続けてくれていたのだ。

いつでも一緒にしまなみ海道を走れるように、自転車まで用意して……。


「お前、ほんまに律儀なやつやな……」


「そうかねぇ?」


「普通、そんな子供の時の約束なんて忘れるで」


「忘れんよ、絶対に」

間髪入れず、即答だった。

夕日に照らされた彼女のその横顔が、今の俺には、どうしようもないくらいに眩しく見えた。


「だって……私にとってはね、人生で一番大事な、宝物みたいな約束だったっちゃ」


その言葉の圧倒的な純粋さに、俺はもう、何の返事も返すことが出来なかった。


心地良い風が、ざわざわと堤防の草を揺らしていく。

佐波川の広い水面が、夕日にきらきらと美しく波打っている。遠くの方から、家路につく子供たちの賑やかな笑い声が風に乗って聞こえてきた。


「なぁ、涼太」

美樹が膝に顎を乗せたまま、くすくすと小さく笑った。


「ん? 何や」


「結果的にさ……あの時の約束、ちゃんと叶ったね」


「え……?」


「瀬戸内海の、旅」

言われて初めて、俺はハッと気づかされた。


確かに、その通りや。

俺は大阪の本町を飛び出し、フェリーで門司へ渡った。そこから瀬戸内海沿いの道を、自分の足でひたすら自転車を漕いで走ってきた。そして今、こうして防府の堤防の上で、美樹の隣にいる。


形やタイミングは、あの頃ノートに描いた理想とは少し違うかもしれない。だけれど、俺たちは今、間違いなくあの子供の頃に二人で夢見た『瀬戸内海の旅』の、まさにその真っ只中にいるのだ。


「……ほんまやな」

俺も、心の底から優しい笑みを浮かべた。

「まぁ、まだ旅の途中やけどな」


「ふふ、途中で十分よ」

美樹はそう言って、満足そうに微笑んだ。


その彼女の言葉には、どこか別の、もっと深い意味が含まれているようにも聞こえた。


まるで――この瀬戸内海の旅が、ここで終わりではなく、これからさらに信じられない場所へと続いていくことを、あらかじめ予感しているかのように。


大きな夕日は、山の端へとゆっくりと沈んでいく。

二人は並んで、ただ静かにそれを見つめていた。


もう、余計な言葉なんて何もいらなかった。ただ、同じ夕日の光を浴びて、同じ美しい景色を静かに共有している。

その流れる時間が、どうしようもないくらいに、狂おしいほどに心地良かった。


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