第12話「変わらない距離、変わり始める距離
第12話「変わらない距離、変わり始める距離」
綺麗な満月が、東の紺色の空に輝き始めた。
佐波川の堤防を後にした俺たちは、自転車を押しながら並んでゆっくりと駅前へ向かって歩いていた。
昼間のあのうだるような暑さはすっかり消え去っている。代わりに、川の匂いを含んだ心地良い夜風が、俺たちの火照った身体を優しく撫でるように吹き抜けていた。
商店街のアーケードに差し掛かると、並ぶ店々が少しずつシャッターを下ろし始めているのが見えた。トントン、と小気味よい音が夜の静けさに響く。
「……なぁ、美樹。腹減ったわ」
お腹の虫が鳴くのを堪えながら、俺はぽつりと言った。
「あはは、確かにそうじゃね」
美樹は納得したように声を上げて笑った
。
「じゃあ、とっておきの晩ご飯に行こうか」
「どこ行くねん」
「私がすっごくええ店を知っちょるんよ」
「またお得意の秘密か?」
「秘密!」
昔から変わらない、彼女のいつもの得意げな返事だった。
◇
連れて行かれたのは、防府駅から少し離れた路地裏にある、赤提灯の灯る小さな居酒屋だった。
観光客向けの派手な看板は一切ない。いかにも地元の常連客ばかりが夜な夜な集うような、隠れ家じみた風情の店だった。ガラガラと引き戸を開け、俺たちはカウンター席に並んで腰掛けた。
「いらっしゃい」
ねじり鉢巻きをした店主が、厨房の奥から気さくに声を掛けてくる。
「あ、美樹ちゃん。いらっしゃい」
「大将、こんばんはー」
美樹のその慣れた挨拶を見るに、どうやら本当にかなりの常連らしい。彼女はメニューを開くよりも早く、大将と目を合わせて注文を始めてしまった。
「涼太は何にする? なんでも美味しいよ」
「あ、じゃあ大将のおすすめでお願いしたわ」
「了解、じゃあ美樹ちゃんのおすすめと合わせて適当に出すね」
俺の意見を聞く前に、テキパキとメニューが勝手に決まっていく。だけれど、そんな強引さも不思議と悪くないな、と俺は小さく苦笑した。
しばらくすると、目の前のカウンターに色鮮やかな料理が次々と並び始める。
艶やかに透き通った地魚の刺身、香ばしい匂いを漂わせる焼き鳥、湯気を立てるふっくらとした出汁巻き卵。そして、地元山口の冷えた地酒。
どれも箸が止まらなくなるほど、猛烈に美味かった。
「大阪でも、こういう美味しい店にたくさん行くん?」
美樹が地酒のグラスを傾けながら、興味深そうに訊いてきた。
「いや……あるにはあるんやろうけどな」
俺は刺身を口に運ぶ箸を一度止めて、小さく頭を掻いた。
「俺、知らない店に一人で暖簾をくぐって入るほど、社交的な人間やないねん。いつもチェーン店とか、コンビニで適当に済ませてまうわ」
「えーっ、意外!」
「そうか? 意外か?」
「うん。もっとこう、自分からお店の人にグイグイ行くタイプかと思っとった」
「それ、小学生の頃の記憶のまんまやろ。十数年も経てば、誰だって人見知りの大人になるわ」
「そうかねぇ? 今の涼太も、私には昔のまんまのグイグイに見えるけどね」
美樹はくすくすと楽しそうに肩を揺らした。その屈託のない笑顔を見つめているだけで、張り詰めていたこちらまで心がふっと軽くなるのを感じる。大阪のオフィスで、パソコンの画面とにらみ合いながら胃を痛めていた日々が、まるで遠い世界の出来事のようだった。
◇
お互いにお酒が少し回って、心地良い酔いが頭を包み始めた頃だった。
美樹が焼き鳥の串を皿に置きながら、ぽつりと訊いてきた。
「……そういやさ、涼太。彼女とかはおらんの?」
あまりにも直球な質問に、俺は飲んでいた地酒を吹き出しそうになった。慌てておしぼりで口元を押さえる。
「……おらんよ、そんなん」
「ほんま?」
「ほんまや。嘘ついてどうすんねん」
「いつからおらんのん?」
「ちょうど、三年前くらいかな。それ以来、仕事が忙し過ぎて出会いも何もなかったわ」
「へぇ、結構長いねぇ」
美樹はどこか満足そうに目を細めた後、今度は俺のほうをじっと見つめてきた。
「そういうお前はどうなんや。そっちこそ、彼氏とかおるん?」
意趣返しに聞き返してみる。すると、美樹はジョッキを両手で包み込んで少し傾けながら、あっさりと答えた。
「おらんよ」
「……ずっとか?」
「うん、ずっと」
「マジで? 嘘やろ」
「マジ。ちょっとはおったけど、ずっとおらん」
それは、俺にとって純粋に意外な事実だった。
大人になった美樹は、ハッとするほど綺麗だ。それに明るくて、話しやすくて、周囲への気配りだってできる。男が放っておくはずがないと、勝手に思い込んでいたからだ。
「なんでや? お前、普通にモテそうなのに」
つい、心のままに突っ込んで聞いてしまった。
美樹はグラスに映る自分の顔を見つめながら、少しだけ寂しそうに笑った。
「さあね……何でかね。」
「理由になってへんやん」
「まあ、色々あったんよ。本当に、色々ね……つまらん男に当たってもうて、その後うんざりしたけぇ」
そう濁すだけだった。その一瞬だけ見せた彼女の瞳は、昼間に三田尻の海を見つめていた時と同じ、ひどく冷たくて寂しそうな影を孕んでいた。その目が「十八年間、ただ俺を待ち続けていた」という、先ほどの天満宮での言葉が持つ本当の重さを物語っているようで、俺は胸の奥をキリキリと締め付けられるような感覚に陥った。
◇
店を出る頃には、壁の時計は夜の十時近くを指していた。
夜の帳に包まれた防府の空気は、昼間のあの猛暑が嘘だったかのように、別世界のように涼しく澄んでいた。
二人は夜道をゆっくりと自転車を押しながら歩く。静まり返った街の向こうから、防府駅の静かな灯りが少しずつ近づいてくる。
やがて、昨日と全く同じホテルのエントランスの前に到着し、二人は足を止めた。お互いに歩みを止め、しばらく静かな沈黙が流れる。
「じゃあ、また明日ね、涼太」
美樹が先に口を開いた。
「おう。また明日な」
「うん、朝ちゃんと迎えに来るけえね。準備しちょきよ」
「了解。寝坊せんと待っとるわ」
そう言葉を交わしたものの、二人の足はなぜか、すぐには動かなかった。何となく、この心地良い時間の余韻を終わらせたくないような、奇妙な名残惜しさが二人の間に漂っている。
俺は少し気恥ずかしくなって、「じゃあな」と軽く手を振って歩き始めた。
ホテルの自動ドアへと向かい、エントランスの手前で初めて後ろを振り返ってみた。しかしそこにはもう、美樹の白いワンピースの姿はどこにもなかった。既に夜の闇へと溶けてしまった後だった。
◇
ガラスの自動ドアをくぐり、静まり返ったフロントの前を通り過ぎようとしたら、背後から、不意に硬いトーンの声がかけられた。
「あの……失礼ですが」
振り返ると、ホテルの端正な制服をきっちりと着こなした、二十代後半ほどの女性クラークが、真っ直ぐに俺を見つめて立ち尽くしていた。夜勤のシフトに入っているのだろう。胸元には『鈴木美津子』と書かれたアクリルの名札が、ロビーの照明を反射して鈍く光っている。
「太田涼太、さん……ですよね?」
「え、あ、はい。そうですけど……」
なぜ自分の名前をフロントの人間が指名してきたのかと、俺は不審に思って思わず身構えた。しかし、彼女はすぐに周囲に他のお客さんがいないかを確認するように視線を走らせると、声を限界まで潜めて言った。
「やっぱり。さっき、美樹と一緒に並んで歩いて帰ってくるのが、窓から見えたから。……私、美樹の、小学校の時からの友達の、美津子っていいます」
「美樹の……友達、ですか?」
「そう。さっき宿泊名簿にお名前を見つけて、もしかしてって思って。……太田さん、明日の朝って、少しお時間ありますか? 私、ちょうど朝の七時半に夜勤の仕事が明けるんです。ホテルの喫茶コーナーでいいから、美樹に内緒で、少し話がしたくて」
それは、真剣な、どこか俺という男の人間性をじっと値踏みするような、ひどく強い眼差しだった。エントランスのガラス越しに見かけた俺と美樹の距離感、そして名簿に刻まれた漢字の羅列から、彼女は俺が「あの美樹の初恋の相手、太田涼太」だと完全に確定させたらしい。
「……分かりました。明日の朝、七時半にここへ来ます」
俺が真っ直ぐに見つめ返して返答すると、美津子さんは張り詰めた表情のまま、小さくコクリと頷いた。
そのただごとではない不穏な気配と、彼女の瞳の奥にある冷徹な怒りのような光を背中に感じながら、俺は逃げるように部屋へのエレベーターへと乗り込んだ。
◇
(美津子さん……美樹の友人。一体、俺に何の用やねん……)
ホテルの狭いシングルルームに戻り、ベッドに大の字に寝転がりながら、俺は天井を見つめた。
次の目的地は、香川県高松市。
本来の、大阪で夜遅くまでかかって作った俺の自転車旅程表には、存在しなかった、完全なる想定外の目的地だ。
しかし不思議と、自分の人生において、これが「無駄な遠回り」だとはどうしても思えなかった。
むしろ――これこそが、俺が会社を辞めて、衝動的に大阪を飛び出してきた、旅の『本当の目的』だったのかもしれない。部屋の照明を消しながら、俺は暗闇の中でふと、そんなことを考えていた。
明日から始まるのは、あの寂しい、自分を見つめ直すだけの孤独な一人旅ではない。
美樹と二人で、瀬戸内を渡る旅だ。
そしてその先には――。
彼女がまだ俺に話していない、重い過去が待っている。
最愛の父を亡くしたあの日から、美樹と母親の間に横たわり続けているという、五年間もの長い沈黙の本当の理由が、すぐ目の前まで迫っていた。




