第8話「一緒に、瀬戸内海を旅しよう」
第8話「高松へ、瀬戸内海を旅する」
その夜。二人は防府駅の近くにある居酒屋で夕食を取っていた。
昨日入った店とは別の店やったけど、漂う空気感はよく似ていた。地元客の笑い声が飛び交い、壁のテレビからはプロ野球の中継がのんびりと流れている。格子窓の外は、すっかり深い夜の色に染まっていた。
「結局、明日出るん?」
美樹がジョッキを片手に、上目遣いで訊いてきた。
「たぶんな」
俺は焼き鳥を口に運びながら答える。
「予定通りやったら、明日から広島方面に向かうつもりや」
「しまなみ海道?」
「おぉ、そのつもり」
「いいなあ……私も行きたいなぁ」
美樹は小さく溜め息をついて、冷えたジョッキを傾けた。
その横顔を盗み見ながら、俺はふと思った。あいつ、昨日から何か言いたそうにしとる。言葉にはせえへんけど、そんな気配がずっと肌に伝わってきていた。
昼間、三田尻の堤防で静かに海を眺めていた時もそうだった。何度か小さく口を開きかけては、何かを飲み込むようにして閉じていた。
「……なぁ、美樹。どうしたんや?」
美樹がハッと顔を上げた。
「何が?」
「いや、なんか考えてるやろ。ずっと上の空やんか」
「分かるん?」
「なんとなく、な」
俺が言うと、彼女は少しだけ照れくさそうに笑った。
「昔より鋭くなったね、涼太」
「昔が鈍すぎたんや。これでも七年間、社会で揉まれてきたからな」
「あはは、それもそうじゃね」
でも、その笑顔は長くは続かなかった。美樹は手元のグラスをじっと見つめる。そして、賑やかな店内の喧騒を遮るように、静かに言った。
「……お願いがあるんよ」
そのいつもと違う真剣な声色に、俺は自然と背筋を正した。
「何や?」
少しの間が空く。ジョッキを伝う水滴が、テーブルに小さな輪を作っていく。やがて美樹は、意を決したように顔を上げた。
「高松まで、一緒に来てくれん?」
俺は思わず瞬きをした。予期せぬ地名だった。
「高松って……香川の?」
「うん。他にどこの高松があるんよ」
そう言って冗談めかして笑うけれど、その笑顔は明らかにぎこちなかった。
俺は彼女の言葉の裏にある意味を、急速に考えを巡らせる。
高松。香川県。――昼間、あいつが「五年以上会っていない」と言っていた、母親の樹里さんが住んでいる街だ。
「帰省……するんか?」
美樹は小さく頷いた。
「たぶんね」
「たぶん」という短い言葉に、喉に引っかかるような強い迷いが滲んでいた。
「五年ぶり、やったっけ」
「うん、もう少しになるかね」
「そんなに会ってへんのか」
「うん……」
再び、重い沈黙が降りてくる。美樹は小さく息を吐き、ジョッキの結露を指先でなぞった。
「本当はね、行くつもりなんか全然なかったんよ。ずっと」
「……」
「行かなきゃいけん、ちゃんとお父さんの墓参りもして、お母さんとも話さんといけん。頭では分かっとったんよ。でもね、なかなか踏ん切りがつかんかったん」
美樹は切なそうに視線を窓の外へと移した。夜の駅前ロータリーを、家路を急ぐ人影がまばらに行き交っている。
「でもね、昨日」
彼女は俺の目を真っ直ぐに見つめた。
「涼太に会ったじゃろ」
「おぉ」
「それで思ったんよ。十八年も会ってなかった人に、こんな風に奇跡みたいに会えたんじゃし……。たった五年会ってない母親から、いつまでも逃げ回っとっちゃいけんかねって」
その言葉はどこか自嘲気味やったけれど、間違いなく彼女の本心だった。十八年分の彼女の祈りが、別の形で彼女自身の背中を自ら押したのだ。俺は腕を組んで、しばらく考えた。
「……俺で、ええんか?」
「何が?」
「その、一緒に行くのが俺でええんかって聞いてんねん」
「うん」
即答だった。そこには一瞬の迷いもなかった。
「なんでや」
「涼太だから」
「なんでやねん」
「涼太じゃから、十分なんよ」
美樹は柔らかく笑った。その顔を見ていると、どうしても断る理由なんて見つけられへんかった。
本来なら明日から自分の旅のルートを進める予定だった。だけれど、別に急ぐ理由なんてどこにもない。会社を辞めて無職になった今の俺には、なによりも時間だけは腐るほどある。
それに――正直なところを言えば、俺だって、もう少しだけ美樹と一緒にいたかった。
十八年ぶりに再会したばかりだというのに、そんな風に思ってしまう自分が、ひどく不思議で仕方がなかった。
「……分かった」
俺は息を吐き、微笑んだ。
「一緒に行こう、高松」
一瞬、美樹の表情が固まった。次の瞬間、彼女の白い頬が明らかにぽうっと紅潮していく。
「ほんまに!?」
「うん、ホンマに」
俺が言うと、彼女は張り詰めていた糸が切れたように、安心した笑みをこぼした。その笑顔は、昨日出会ってから見たどの表情よりも、ずっと優しくて柔らかかった。
「……ありがとう、涼太」
「礼を言われるほどのことやないって」
「あるんよ、私にとっては」
蚊の鳴くような、小さな声だった。でも、そこには確かな実感が込められていた。
それからは、一気に他愛のない話で盛り上がった。明後日からの移動の予定、フェリーのルート、瀬戸内海に浮かぶ島々の景色、高松に着いたら絶対に食べたい美味しいうどん屋の話。話題は尽きることなく、店を出る頃には夜もすっかり更けていた。
「今日も昨日のホテルに泊まるん?」
駅へ向かう夜道を歩きながら、美樹が訊いてきた。
「おぉ。駅前のビジネスホテルな」
美樹が少し何かに躊躇しているように見えたが、急に決まった明後日からの旅支度のことでも考えているのだろう。その後は会話もなく、静かな駅前ロータリーに到着し、二人は足を止めた。
「なぁ、涼太」
美樹が真っ直ぐな視線を俺にぶつけてきた。冗談ではない、真剣な目だった。
「もう一日だけ、防府におらん?」
「え? 観光案内の続きか?」
「それもある」
「それも、って?」
「あるんよ!」
美樹は少しだけ言い淀んだ後、小さな子供のように、俯きながらぽつりと言った。
「……もっと、ゆっくり涼太と話したい」
俺はすぐに返事が出来なかった。ドクン、と胸の奥が不意に熱くなる。
十八年ぶりに偶然再会した、ただの幼馴染み。昨日まではそのはずだった。しかし今はもう違う。
「……まぁ、一日くらいなら、予定遅らせても問題ないわ」
気づけば、そう口が動いていた。
美樹の表情が、一瞬でぱっと明るくなる。
「ほんま!?」
「おぉ。門司から防府まで走ってちょっと脚も張っとるしな。明日一日、休養日にするわ」
「やったぁ!」
美樹は飛び跳ねるようにして、子供みたいな満面の笑顔を咲かせた。それを見ているだけで、会社を辞めて、ここまで自転車を漕いできて本当に良かったと思えた。
「じゃあ、高松に向かうのは明後日じゃね」
「分かった。予定変更やな」
「うん! じゃあ明日」
美樹はキャップのつばを指でくいっと上げながら言った。
「朝九時に、またここに集合ね」
「了解。遅れんように行くわ」
「寝坊したら置いてくよ!」
「それ昨日も聞いたって」
「私はいつでも本気じゃけえ!」
二人は夜のロータリーで声を合わせて笑った。別れ際、美樹がふと歩みを止めて、振り返った。
「なぁ」
「ん?」
「……来てくれて、本当にありがとうね、涼太」
その言葉の響きは、昼間の堤防でのものとは明らかに違っていた。照れ隠しの冗談なんかではない。彼女の、心の底からの、本気の感謝だった。
俺は急に気恥ずかしくなって、頭をボリボリと掻いた。
「まだ高松行ってへんやろ。お礼は無事に着いてからや」
「あはは、そうじゃね」
美樹は嬉しそうに笑って、小さく手を振った。
「おやすみ、涼太」
「おやすみ。また明日な」
白いシャツの後ろ姿が、夜の防府の街へと静かに消えていく。
俺は彼女の姿が見えなくなるまで、その小さな背中をしばらくの間、じっと見送っていた。




