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瀬戸の約束【11歳の約束、29歳で果たす】  作者: あおきつばさ


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第7話「天神様から見える海」

第7話「天神様から見える海」


翌朝。ホテルの重い遮光カーテンを開けると、窓の外には突き抜けるような青空が広がっていた。


文句なしの旅日和やった。

本来の予定なら、俺は今日この防府を出発してひたすら東へ向かうはずだった。広島、尾道、そして子供の頃から夢にまで見たしまなみ海道。大阪の部屋で夜遅くまでかかって作った緻密な旅程表まで、バックパックの奥に眠っている。


だけれど、そんなものは昨日のあの奇跡的な再会で、綺麗さっぱり全部吹き飛んでしまっていた。


ベッドの上に放り出していたスマートフォンが短く震える。画面を見ると、美樹から短いメッセージが届いていた。


『九時に防府駅集合』

『一分でも遅れたら置いてくけえね』


最後まで昔のまんまやな、と俺は思わず口元を緩めた。


時計の針が九時を指す十分前には、駅前のロータリーに到着したつもりだった。

見慣れたロータリーのベンチには、既に美樹の姿があった。


涼しげな白いシャツにデニム。小ぶりのキャップを被り、冷えたペットボトルを片手に持っている。


(なんか……めちゃくちゃ格好ようなったな、あいつ)


並んで歩き出す彼女の横顔を見ながら、俺は改めて頭の中で柄にもない妄想をしていた。もし、十一歳の時の俺に、時空を超えてメッセージを届ける機械があるのなら。「隣の家に住んどる美樹は、将来びっくりするくらい綺麗な女性に化けるから、絶対に手放すなよ」と、過去の自分に送ってやりたいくらいだ。


「早いな、お前」


「涼太が遅いんよ」


「いや、十分前やぞ?」


「私は二十分前に着いちょったもん。案内人じゃけえね、これくらい当然」


そう言って、美樹はいたずらっぽく胸を張る。その屈託のない顔を見つめていると、昨日十八年ぶりに再会したばかりだという現実が、なんだか酷く不思議に思えてくる。


まるで、あの頃の地続きの続きを、今この瞬間から新しく始めたような感覚だった。


二人がまず向かったのは、防府の象徴である防府天満宮だった。境内に続く長い、急な石段を一歩ずつ登っていく。まだ午前中だというのに、頭上から降り注ぐ初夏の日差しは容赦なく肌を焦がした。


「ここ、覚えちょる?」

美樹が何段か先でくるりと振り返り、悪戯っぽく微笑む。


「いや……あんまり記憶にないわ」


「えーっ、遠足でみんなと来たんよ? 涼太、お弁当の唐揚げ落として泣きそうになりよったのに」


「そんなんあったか? 完全に忘れとるわ」


「ひどいねぇ、大事な思い出なのに」

美樹は呆れたように口を尖らせる。


ようやく登りきった境内からぐるりと見下ろす防府の街並みは、息を呑むほどに美しかった。整然と並ぶ住宅街の、その遥か向こうに、穏やかな瀬戸内海の青い水平線がキラキラと輝いている。子供の頃には、高さを意識することなんてなかったから、全く気づかなかった素晴らしい景色だった。


「大人になると、見えるものが全然違うな」


「何それ、ただ歳取って涙もろくなっただけじゃないん?」


「夢のないこと言うなや」

二人で顔を見合わせて笑う。



参道の途中にある、古い佇まいの茶屋で休憩することにした。二人とも、汗を引かせるために冷たい抹茶のセットを頼んだ。

大きな窓際の席からは、初夏の風に揺れる境内の青々とした木々が一望できる。


「なぁ」

冷たい抹茶を喉に流し込み、俺は静かに切り出した。


「ん? 何ね」


「お前、ほんまに俺のこと、ずっと待っとってくれたん?」


美樹はグラスに差さったストローを指先でくるくると回しながら、視線を落とさずに答えた。


「待っとったよ」


「……十八年もか?」


「うん。十八年、毎週欠かさずにこの天神様にお参りに来よったんよ。『どうか、もう一回だけ涼太に会えますように』ってね」


「普通おらんで、そんな執念深いヤツ」


「おるじゃん、ここに」

美樹はそう言って、悪びれもせずに自分を人差し指で指差した。そのあまりにも堂々とした態度に、俺は思わず吹き出してしまった。


「確かに。目の前におったわ」


「じゃろ?」

美樹は本当に楽しそうに笑った。だけれど、次に紡いだ彼女の言葉は、驚くほどに静かで、大人びていた。


「でもね、涼太」


「ん?」


「ずっと、毎日毎秒、あんたのことばっかり考えちょったわけじゃないよ」

彼女は窓の外の、木漏れ日へと視線を移す。

「普通に学校行って、仕事もして、それなりに恋だってしたし……色々あったんよ、私にだって」


それは当然だろう。十八年だ。これまでの人生の、半分以上の気が遠くなるような時間なのだから。


「でもね」

美樹は再び俺の目を真っ直ぐに見つめて、微笑んだ。


「心のどこかで、ずうっと信じちょったんよ。いつか、絶対にまた会えるって」



茶屋を出た後、二人は再び天満宮の厳かな境内へと戻ってきた。

いつの間にか時間は過ぎ、傾き始めた夕日が、朱塗りの立派な社殿をさらに赤く染め上げている。手水舎の冷たい水で手を清め、二人は静かに拝殿の前へと進み出た。


美樹は慣れた様子で、財布から取り出したお賽銭をパチンと投げ入れた。

太い紐を引いて鈴を鳴らす。二礼、二拍手、一礼。

その一連の動作には、一ミリの迷いもなかった。彼女がこの場所で、一体どれほどの回数、このお参りを繰り返してきたのかが、言葉を介さずとも痛いくらいに伝わってくる。


俺も彼女の隣で、そっと手を合わせた。そっと目を閉じる。しかし、いざ神様の前になると、今の自分は何を願えばいいのか、急に分からなくなってしまった。


美樹に再会できたことへの感謝。これからの自転車旅の無事。西宮の実家におる父との冷え切った関係。そして、無職になったこれからの自分の仕事。


考えるべきことは山ほどあるはずなのに、どれも上手く言葉にならなかった。

ただ――。

ただ、この目の前にある穏やかな時間が、少しでも長く続けばいいと、それだけを強く願った。



参拝を終えた後、二人は境内の隅にある、木陰のベンチに腰掛けた。


「涼太、何お願いしたん?」

美樹が横から顔を覗かせて、興味津々に訊いてくる。


「言うたら叶わんくなるって言うやろ」


「えー、ずるい!」


「お前こそ、何願ったんや」


「私はね、もう願い事が叶ったけえ、今日はお礼を言うただけ。じゃけええんよ」

そう言って、美樹は本当に幸せそうに笑った。


俺は降参して苦笑するしかなかった。

「……会えますように、やったっけ」


「うん」


「それを、毎週?」


「毎週よ」


「よくそんなん、飽きずに続いたな……」


「続いたんよ、なんとなくね」

彼女は簡単に、まるでお天気の話でもするかのように言う。


だけれど、それがどれほど強大で、途方もないことか。十八年間。途中でバカバカしくなって諦めても、誰からも文句は言われないはずだ。むしろ、途中で忘れて次の恋に生きるほうが、よっぽど普通で、健全な生き方やと思う。それでも彼女は、ここで祈り続けた。


その理由の深さを、俺は静かに考え込んでいた。


「なぁ、美樹」


「ん?」


「もし……ほんまに俺がこの街に戻ってこんかったら、どうするつもりやったん?」


美樹は少しだけ天を仰いで考えた。そして、小さく肩をすくめてみせる。

「どうもせんよ」


「じゃあ、一生会えんかったら?」


「会えんかっただけじゃね」


「それで、お前はほんまに納得できたんか?」


「できんと思うよ、絶対に」

間髪入れず、即答だった。そして、お互いに顔を見合わせて、また小さく笑った。


「じゃあ、あかんやん」


「あかんねぇ」


そう言いながらも、美樹の横顔は、昨日駅前で見せたあの寂しげな表情とは打って変わって、どこまでも晴れやかだった。


「でもね、私のいる定食屋さん、涼太んちの料理の匂いとおんなじ匂いがするっちゃ。だから、天神様の近くで待っちょったらいつかふらっと涼太が寄って来ると信じちょった」


(そういうことか……なぜか懐かしさを感じたと思ったら……)


もう、結果は出たのだ。彼女にとっての長い長い「待つ時間」は、昨日のあの定食屋で、終わりを迎えた。



それからも、俺たちは時間の許す限り、防府の街を歩き回った。

二人で通った小学校、秘密基地にしていた神社、よく小銭を握りしめて走った駄菓子屋。昔遊んだ大切な場所。


綺麗に残っているものもあれば、完全に跡形もなく消え去ってしまったものもある。

不思議と、昨日あのアパートの前に立った時に感じた、あの胸を抉られるような強烈な喪失感は、もうどこにもなかった。隣に、こうして美樹が歩いてくれているからかもしれない。


思い出というものは、街並みや古い建物に宿るのではなく、こうして人の心の中にこそ残り続けるものなのだと、俺は少しずつ気づき始めていた。



昼過ぎ。天満宮を下りた俺たちは、そこからタクシーを拾って防府の南側へと移動した。

着いたのは、三田尻港の近くにある海沿いの静かな堤防だった。


眼前に広がる瀬戸内海は、今日も驚くほど穏やかで、ほとんど波の音すらしない。遠くの水平線を、巨大な貨物船がゆっくりと横切っていく。顔を撫でる潮風が、歩き疲れた身体に最高に心地良かった。


「私ね、ここがすっごく好きなんよ」

美樹が堤防に腰掛け、両足を軽く揺らしながら言った。


「昔からか?」


「うん」

彼女はきらきらと輝く海を見つめたまま、静かに言葉を紡ぐ。

「何かね、嫌なこととか、悲しいことがあると、いっつもここに来よるんよ」


「今でも?」


「うん、今でも」


その美樹の横顔は、先ほど天満宮で見せた晴れやかさとは違って、どこか脆くて寂しそうだった。しばらくの間、ウミネコの鳴き声だけが二人の間に流れる。

やがて、美樹がぽつりと、本当に小さな声で呟いた。


「お父さんとな……」


「ん?」


「お父さんと、昔よくここに来とったんよ」


昨日の、居酒屋での話の続きだった。俺は余計な言葉を挟まず、ただ彼女の言葉を黙って待った。


「ここで一緒に、釣りとかしよったん」


「あぁ……おじさん、いかにも釣りが好きそうやったもんな」


「好きじゃったよ、すっごく」

美樹は懐かしそうに目を細めて笑った。


「全然釣れんのにね、二人で何時間もここに座っとるんよ」


「あ、それ覚えてるわ。俺も一回だけ、おじさんにここまで連れてこられたことあったやろ」


「あったねえ! 涼太、退屈してすぐ飽きて、フナムシ捕まえて遊びよった」


その瞬間だけ、彼女は完全に十一歳のあの頃の顔に戻っていた。だけれど、すぐにまた、大人の静かな表情へと帰っていく。


「本当に……優しいお父さんじゃったんよ」

美樹は海から視線を外さない。


「私、お父さんに怒られた記憶、一回もないもん。私が何しても、どんな我が儘言うても、いっつも私の味方でいてくれた」


美樹の語尾が、ほんの少しだけ震えた。

俺は何も言えなかった。ここで安易な同情や慰めを口にすることは、彼女の美しい思い出を汚してしまうような気がした。


「じゃけえね」

美樹は無理に作るような笑顔を見せた。


「今でも、無性にお父さんに会いたいなって、思うんよ」


強い風が吹き抜け、彼女の黒髪が大きく揺れる。その美樹の笑顔は、今にも泣き出しそうなくらい、張り詰めんばかりの切なさを孕んでいた。


俺はたまらず、視線を冷たい海へと逸らした。こういう時、自分はいったい何を言えばいいのか、昔から全く分からへん。誰かをスマートに慰めるなんて芸、俺には逆立ちしたって出来なかった。


(やっぱり、俺もオトンに似てしもたんかな……)

ふと、そんな嫌な共通点をおぼえて、苦い気持ちになる。言葉が足りなくて、不器用で、一番大切な時に何も言えない男。


「……お母さんは? どうしとんの?」

沈黙に耐えかねて、俺は何も考えずにその言葉を口にしてしまっていた。そして、すぐに激しい後悔が襲った。


美樹の全身の空気が、一瞬でガチリと固まった。ほんの一瞬。昨日の夜と全く同じ、触れてはならないタブーに触れた時の冷たい空気。美樹の瞳から、一切の光が消え失せる。


「元気よ」


それだけ。昨日と寸分違わぬ、完全に心を閉ざした拒絶の響き。

明らかだった。そこには、彼女が決して他人に見せたくない、深く抉れたままの傷口がある。だけれど、未熟な今の俺には、その理由がどうしても分からへんかった。


おじさんを亡くした後、たった二人の親子のはずなのに。五年も会っていないなんて、絶対に普通やない。そこには、俺の知らないどんな重いドラマがあるのだろう。


「そうか……」

俺はそれ以上、何も訊かなかった。いや、訊けなかった。

美樹は少しだけホッとしたように小さく息を吐き、再び穏やかな海へと視線を戻した。


「ごめんね、涼太」


「何がや」


「なんか、変な空気にしちゃって。せっかくの旅なのにね」


「別に、気にしてへんよ」

俺は大きく首を振った。

「誰にだってさ、人には話したくないことくらい、一つや二つあるやろ。俺だってそうやし」


美樹は少し意表を突かれたように目を見開いた。そして、くすくすと嬉しそうに笑う。


「……ふふ、涼太も大人になったね」


「失礼な。これでも一応、七年間社会人やっとったんやぞ」


「だって、昔の涼太なら『なんで? なんで?』って、しつこいくらいに聞きまくっとったもん」


「そんなことあったか?」


「あったよ! クラスの女子から『なんでなんで星人』って呼ばれよったんじゃから」


「なんやねんそれ、初耳やわ!」


二人の笑い声が、静かな堤防に響き渡る。

しかし、俺は心のどこかで冷然と気づいていた。美樹の胸の中には、今もなお誰も触れられない巨大なトゲが刺さったままだということに。それは最愛の父親の死だけではない。今も香川にいるという、母親との間に横たわる、深く冷たい亀裂。それが、今の美樹の心をがんじがらめに縛り付けているのだ。


夕暮れの光に染まっていく海を見つめながら、俺は自分自身のことを考えていた。

形は違えど、俺の中にも同じようなものが確かにある。実家のオトンとの、何年も解決していない、冷え切った歪な距離感。退職の報告すらまともに出来ず、スマホのメッセージ一本で拒絶してしまう、あのわだかまり。


理由は違う。でも、背負っている心の重さは、俺たちの間で酷く似通っているような気がした。


結局、二人は夕方になるまで、その静かな海辺でとりとめもない時間を過ごした。

ただ、他愛のない思い出話をして、昔の失敗談を掘り起こして、笑って、少しだけ歩いた。

それだけのはずなのに、俺は大阪を出発して以来、張り詰めていた心が初めて芯から軽くなっていくのを感じていた。


そして隣を歩く美樹もまた、どこか安心したような、穏やかな顔で笑っていた。


この時の俺はまだ知る由もなかった。

その夜、再び入った居酒屋で、彼女の口からとんでもない「提案」が飛び出すことを。


そしてその一言が――俺たちのこの先の旅路を、そして二人の運命を、信じられない方向へと大きく変えていくことになるのだということを。

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