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瀬戸の約束【11歳の約束、29歳で果たす】  作者: あおきつばさ


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第6話「遠回りした夜」

第6話「遠回りした夜」


午後九時を過ぎた防府の街は、驚くほどに静かだった。駅前から少し離れるだけで、街灯の合間に人通りはほとんどなくなる。


昼間は懐かしい景色を探して歩き回り、夕方からは美樹とずっと話し続けていた。それなのに、不思議なほど話題は尽きない。十八年という巨大な空白があるはずなのに、一緒に歩いていると、昨日もこうして並んでいたような錯覚に陥る。


「そういえば」

美樹が歩調を緩め、隣から覗き込むように訊いてきた。


「涼太、今夜はどこに泊まるん?」

俺はその場にピタッと立ち止まった。


「あ……」


「まさか、忘れとったん?」


「……完全に出忘れてたわ」


「あはは、馬鹿じゃねえ!」

美樹が呆れたように、でも嬉しそうに声を上げて笑う。

実際、完全に失念していた。本来なら防府に着いてすぐ、昼のうちにホテルを探してチェックインしておくつもりだったのだ。だが、定食屋での衝撃的な再会ですっかり頭から抜け落ちていた。


「駅前ならビジネスホテルが何軒かあると思うけど、今から取れるかね?」


「平日やし、どこぞ空いとるやろ。ちょっと探してみるわ」


スマートフォンを取り出し、画面をタップする。検索すると、幸いにも駅のすぐ近くにあるビジネスホテルに空室が見つかった。一番リーズナブルなシングルルームのプランで、手早く予約を済ませる。


「よし、無事に取れたわ」


「よかった」

ほっとしたように美樹が頷く。そのとき、街灯の光に照らされた彼女の顔が、ほんの少しだけ、本当に少しだけ残念そうに揺れた気がした。

俺がその表情の理由を深く考える前に、美樹はくるりと踵を返して楽しそうに言った。


「せっかくじゃし、もう一軒飲みに行こうや」


「まだ行くんか? さっきカフェで結構飲んだやろ」


「何言いよるん、十八年ぶりなんよ?」


「……おぉ、それもそうやな。付き合うわ」


結局、二人は駅近くの赤提灯が下がる居酒屋の暖簾をくぐった。観光客の姿はなく、地元の常連客で活気がある店だった。

年季の入った木のテーブル、壁一面に貼られた手書きの短冊メニュー、仕事帰りの会社員たちの楽しげな笑い声。大阪のオフィス街で揉まれていた頃にはどこか億劫に感じていたそんな騒がしさが、今の俺にはひどく心地よかった。


生ビールが運ばれてきて、再びグラスを軽く合わせる。


「はい、再会記念」


「おぉ、十八年ぶりのな」


「私ね、三十になるまでには絶対に涼太に逢えるって信じちょったよ」


「はは、わりとギリギリのタイミングやったな」


二人は顔を見合わせて笑った。俺はあと六ヶ月で三十歳になる。美樹の誕生日は、確か俺より二ヶ月早かったはずだ。あの頃、お揃いの年齢では無くなる二ヶ月間だけ、美樹が「涼太、お姉ちゃんって呼び」と生意気に威張っていたことを思い出す。


テーブルに、次々と地元の料理が運ばれてくる。

透き通った刺身の盛り合わせ、揚げたてのふぐの唐揚げ、香ばしい焼き魚。旅先で食べる飯は、なぜか普段の何倍もうまく感じられた。


お互いのグラスが二杯目に入る頃、話題は自然とそれぞれの「近況」へと移っていった。

美樹は高校を卒業した後、一度は高松の短大へ行き、その後は福岡で働いていたこと。数年前にこの防府へ戻ってきて、今は昼にあの定食屋で働きながら、休日は地域の観光ガイドの仕事もしているらしい。


俺もまた、大阪でのシステムエンジニアとしての過酷な仕事内容や、心身ともに限界を迎えて先月退職に至った経緯を包み隠さず話した。


「そういや」

ふぐの骨を皿に置きながら、俺は何気なく切り出した。

「おじさん、元気にしてはるん? 昔、よう釣りに連れてってもらったやんか」


一瞬だった。

美樹の手元がピタリと止まる。その変化はほんのわずかだったが、俺の目には確かに焼き付いた。


「ああ……」

彼女はゆっくりとグラスを置き、静かに微笑んだ。

「お父さんね」

そのまま、琥珀色の液体を見つめる。

「お父さんはね、十年前に亡くなったんよ」


俺は息を呑み、言葉を失った。


「……そう、やったんか。ごめん、俺、何も知らんで」


「そりゃあ知らんよ、連絡先も知らんかったんじゃから」

責めるような口調ではなかった。むしろ、それが当然だと言うように、美樹の声はひどく穏やかだった。


「……病気、やったん?」


「うん、癌じゃった」

短い答えだった。それ以上は多くを語ろうとせず、店内の賑やかな喧騒だけが俺たちの間に流れる。


俺は、小学生の頃によく遊んでくれた美樹の父親――智雄さんの姿を思い出していた。大柄で豪快で、日曜日になると俺たちの手を引いて海まで釣りに連れて行ってくれた、いつも大きな声で笑う優しい父親。

まさか、あのタフだったおじさんが既に亡くなっているなんて、想像もしていなかった。何も知らずに無神経な質問をしてしまった自分が、ひどく申し訳なかった。


「ごめん。残念やな……」


「うん」

美樹は小さく頷いた。

「私も、本当にそう思う」


少しだけ寂しそうに視線を落とす美樹。しかし、その横顔には、大切な父親を失った純粋な悲しみだけではない、何かもっと複雑な影が混ざり合っているように見えた。後悔、あるいは何かに対する諦めのような、生々しい影が。


「……お母さんは? 元気にしとってんの?」

空気を変えたくて何気なく尋ねた。すると今度は、先ほどよりもずっと明確に、目に見えて彼女の空気が一変した。美樹の顔から、一切の笑顔が消え去る。


「元気よ」

一言だけ。あまりにも短く、冷たい響きだった。それ以上は一歩も踏み込んでくるなという明確な拒絶の意志が、痛いくらいに伝わってくる。


「そっか……」

俺もそれ以上は追及しなかった。まだ再会したばかりだ。いくら幼馴染みとはいえ、これ以上踏み込んでいい領域ではない。


それからは努めて明るい、他愛のない世間話に終始した。だけれど、美樹はどこか上の空で、グラスの縁をじっと指でなぞりながら、何かを深く考えているようだった。

やがて、彼女は決意したように顔を上げ、ぽつりと口を開いた。


「ねえ、涼太」


「ん? 何や」


「高松って、行ったことある?」


あまりにも唐突な質問だった。


「香川の? いや、仕事の出張で一回だけ行ったことあるくらいやけど……」


「そっか……」

美樹はまた少し沈黙した。そして、夜風を吸い込むように小さく息をついてから言った。


「私のお母さんね、今、高松に住んどるんよ」


初めて聞く話だった。あのおばさんが、山口ではなく香川に。


「そうなんや。……じゃあ、たまに会いに行ったりしとんの?」


美樹は静かに、ゆっくりと首を横に振った。


「もう五年以上、一回も会ってない」

その声は、驚くほど平坦で、だからこそ余計に底知れない冷たさを孕んでいた。


「会ってないし、連絡も取ってないんよ」


それを聞いて、俺は次の言葉を見つけられなかった。

五年。血の繋がった親子が一切の音信を絶つには、あまりにも長すぎる時間だ。だけれど、美樹の頑なな表情を見ていると、その理由を今ここで訊くべきではないことくらい分かった。美樹自身も、これ以上説明するつもりはないようだった。


俺は残ったビールをぐっと喉に流し込み、あえておどけたように肩をすくめてみせた。


「なんや、急に暗い話になってもうたな」


「別にええじゃろ。再会祝いなのに、湿っぽくしてごめんね」


「何言うてんねん。十八年分の話をしとるんや。明るい話ばっかりなわけないやろ」


俺の言葉に、美樹は少しだけ意表を突かれたような顔をした。そして、今日一番の、飾らない柔らかな笑みをこぼした。


「……そうかもね」


「それにさ、実は俺のオカンもな、オトンと離婚してからは一回しか会ってへんねん」


「えっ……? いつ、離婚したん?」


「俺がちょうど大学を卒業した時やな。まぁ、色々あったんよ。――あー、ほんま湿っぽくなってきたわ! 夜風も冷えてきたし、そろそろ出よか」


「うん、そうね」


店を出た頃には、夜風の冷たさがさらに増していた。昼間の猛暑が嘘のように、駅前の街灯の光が夜霧に静かに滲んでいる。

ホテルの自動ドアの前まで歩き、二人は足を止めた。


「今日はほんまにありがとうな、美樹。最高の初日になったわ」


「こちらこそ、見つけてくれてありがとう」

美樹は嬉しそうに微笑む。でも、その笑顔の奥には、夕方のカフェにはなかった深い夜の影が、ひっそりと張り付いているように見えた。


「明日はどうするん? もう出発しちゃう?」


「本当はな、明日から尾道とか広島の方面へどんどん東に進む予定やってんけど……」

少しだけ間を置いて、俺は彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。


「でも、もう一日くらい、この防府におってもええかなって思とる」


美樹がハッと顔を上げた。


「ほんま!?」


「おぉ。せっかく奇跡的に再会できたんやし、一日でバイバイは寂しいやろ」


その瞬間、彼女の顔から大人の影が消え去り、あの頃のような子供じみた、弾けるような満面の笑顔になった。


「じゃあ明日、私、お店休みもらう! 休み取って、涼太のこと案内しちゃるけえ」


「どこ連れてってくれるん?」


「秘密!」


昔と全然変わらない、彼女のいつもの得意げな答えだった。

「じゃあな、また明日」と手を振り、俺はホテルのロビーへと足を踏み入れた。


自動ドアが静かに閉まる直前、なんとなく気になって振り返ると、美樹はまだそこに立ち尽くしていた。

どこか寂しそうに、ぽつんと一人で、夜の駅前を見つめたまま。


俺の胸の奥で、その彼女の小さな後ろ姿が、妙に冷たく引っかかっていた。だけれど、彼女が抱えるその「影」の本当の理由を、俺が知ることになるのは――もう少しだけ、先の話だった。


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