第5話「待ち続けた理由」
第5話「待ち続けた理由」
午後三時半、商店街のアーケードに夕方の風が緩やかに吹き抜けていた。
俺は近くの古びた喫茶店で時間を潰した後、美樹の勤める定食屋の前へと戻ってきていた。
(やっぱりここの匂いは特別だ。料理も凄く懐かしい味だったし、美樹の味なのかな?)
防府に着いてからまだ半日も経っていない。それなのに、十八年ぶりの再会というあまりにも出来過ぎた現実が、未だにフワフワとして信じられなかった。
カラカラと音を立てて店の暖簾が下ろされる。しばらくして美樹が出てきた。
先ほどの仕事中のエプロン姿ではなく、白いブラウスにタイトなジーンズというラフな私服姿だった。髪が風に揺れている。
「待たせた?」
「いや、今来たとこや」
「じゃあ行こうか」
昔からそうだった。美樹がぐいぐいと人を引っ張り、俺はその少し後ろを黙ってついて行く。十八年の歳月が流れても、その縮図はちっとも変わっていないらしい。二人は並んで商店街の中をゆっくりと歩き出した。
どこからか『夕焼け小焼け』の防災チャイムが街に響き渡る。そういえば、昔もこうして一緒に帰ったよなと、小学生の頃の下校風景が不意に脳裏をよぎった。
下校中の学生たちが自転車で俺たちの横を通り過ぎていく。今どきの子らしく、みんな綺麗なヘルメットを被っていた。俺たちの頃の、あの学校指定のダサい白いヘルメットではない。
色々と変わってしまった。でも、漂う空気だけはどこか懐かしい。
「それにしても、ほんまに驚いたわ」
俺が言うと、美樹は歩調を合わせながら首を傾げた。
「何が?」
「お前が防府におること。てっきり、もう別の遠い街に引っ越したきりやと思っとったから」
「おるよ、ずっと」
美樹は小さく笑った。
「小六の時にね、一回引っ越したんじゃけど」
「じゃあ、なんでまたここに?」
「戻ってきたんよ」
あっさりとした答えだった。
「短大卒業してからしばらくは高松おったし、福岡にもおったし、色々ね。でも――結局、防府に帰ってきた」
その「帰ってきた」という短い言葉には、どこか他とは違う特別な響きが含まれているように聞こえた。だが、俺はそれ以上深くは突っ込まなかった。まだ再会したばかりだ。聞きたいことは山ほどあるけれど、急ぐべきではない。
途中にあった古びた公園のベンチに、どちらからともなく腰掛ける。建物の隙間から覗く空は、鮮やかな茜色から深い藍色へと変わり始めていた。
「あんたは今、仕事は何しよるん?」
美樹が何気なく訊いてきた。
「先月にな、辞めたんや」
「ハア? なんで会社辞めたん?」
美樹の目が丸くなる。俺は苦笑しながら、自分の膝を見つめた。
「難しいな……説明するのが。――ただ、疲れたんだと思う」
「うん」
「仕事自体は嫌いじゃなかった。でも、仕事に追われ続けて走って気が付いたら七年経っててさ」
言葉に詰まって、俺はゆっくりと暮れなずむ空を仰いだ。
「俺、ここで何やってるんだろうなって、急に冷めてもうて。それで辞めたんや。……まぁ、二十九にもなって情けない話やけどな」
「全然」
即座に、強い口調で否定された。
「情けなくないよ、涼太」
その真っ直ぐな言葉に、胸の奥の凝り固まった何かが、すうっと救われたような気がした。
そう言えば、小学四年の時に地域のサッカーチームでレギュラーになれなくて、「もう辞める」と拗ねたことがあった。あの時も、事情も大して知らない十歳の美樹にこっぴどく説教されて、結局チームに引き戻されたっけ。
それと比べたら、随分と美樹も大人な対応ができるようになったものだ……と、話しているうちに、自分でも驚くほど昔の記憶が鮮明に呼び覚まされていく。
しばらく心地良い沈黙が続いた後、俺はずっと気になっていた疑問を口にした。
「なぁ。なんで俺だって一目で分かったん? ほんまに気になるわ、十八年やぞ」
美樹は耐えかねたように吹き出した。
「あはは、まだ気にしちょるん?」
「気になるやろ、普通。自分じゃ原型留めてへんと思ってたのに」
美樹は楽しそうに空を見上げ、少しだけ昔を愛おしむような顔をした。
「分かるもんは分かるんよ」
「だから、説明になってへんって」
「じゃあ、ちゃんと説明しちゃる」
彼女はいたずらっぽく微笑んだ。
「歩き方。――歩き方が、昔の涼太のまんまじゃった」
「そんなことあるか」
「あとはね、困った時のその眉間のシワ。昔から困るとすぐその顔になる。全然変わっとらんよ」
俺は呆れて言葉も出なかった。そんな些細な癖だけで、大人の男に変わった自分を識別できるはずがない。だが、美樹の目は真面目そのものだった。
「ほんまよ。声、聞く前から涼太って分かっとったんじゃから」
本人がそこまで断言するなら、そういうものなのだろう。俺は降参して両手を上げた。
美樹は少しだけ視線を遠くに移す。その横顔が、夕闇の中で急に大人びて見えた。
「会えると思っとったしね」
「え? 何て?」
美樹は振り返り、悪戯っぽく笑った。だけれど、その笑顔の奥には、俺には想像もつかないほど長い、気の遠くなるような時間が透けて見えた。
「ここで待っとったら、いつか涼太に会えると思うちょったんよ」
涼しい夜風がアーケードを通り抜けていく。昼間のうだるような真夏の暑さは、いつの間にか綺麗に引いていた。
彼女の口から出た、思いも寄らない告白に、俺は完全に言葉を失ってしまった。
「いや、それは……いくらなんでも」
「変じゃろ?」
「……おぉ。ちょっと、な」
「あはは、自分でもそう思う!」
美樹は快活に笑う。
「でもね、なんとなく帰ってくる気がしとったんよ」
「……十八年も?」
「十八年も」
「根拠は?」
「ない!」
きっぱりと言い切る彼女に釣られて、二人でまた声を上げて笑った。
俺は気づいていた。彼女は決して冗談や誇張で言っているのではない。
本当に、その一縷の望みだけを信じてこの街に居続けたのだという事実が、胸の奥に深く、重く引っかかった。
美樹が勢いよく立ち上がる。
「あー、お腹空いた!」
「急に話変えたな」
「空いたんじゃもん。飯行こう、飯!」
「おぉ、じゃあ行くか」
二人は再び歩き出した。夜の帳が下りた防府。懐かしい街灯の光。そして隣を歩く、大人になった幼馴染み。
俺はひどく不思議な感覚に包まれていた。十八年という巨大なブランクがあるはずなのに、心理的な距離を全く感じない。むしろ、大阪で無理をして張り詰めていた頃より、今のほうがよっぽど自然体でいられている。
歩きながら、美樹がふと前を見つめたまま呟いた。
「約束、覚えとる?」
「約束?」
「やっぱり忘れたん。ひどいね」
少しだけ拗ねたような、子供っぽい声。
「いや、何やっけ……」
美樹がくるりと振り返った。街灯に照らされたその瞳が、悪戯っぽくきらりと光る。
「瀬戸内海、一緒に旅するって約束」
その瞬間。
記憶の最奥に深く埋もれていた、あの色彩豊かな光景が鮮烈に蘇った。
長かった夏休み。擦り切れるほど開いた地図帳。二人で畳の上に寝転び、指を走らせながら語り合った、子供じみた未来。
大人になったら、一緒に瀬戸内海を旅しよう。
「……あ」
俺の口から声が漏れる。
(そうや……一緒に『しまなみ海道』を旅しようって言い出したのは、美樹やった)
「思い出した?」
「……おぉ。少しだけ、な」
「もう、ちょっとだけとか寂しいこと言わんでよ」
美樹はぷっと膨れてみせたが、その表情はどこかとても嬉しそうだった。
「取りあえず、ここに行こうや!」
美樹が指差したのは、商店街の一角にある小洒落た一軒のカフェだった。彼女の行きつけだというその店は、もちろん十八年前には影も形もなかった新しい店だ。
店を開いたオーナーの女性は、俺たちの小学校時代の同級生らしい。美樹に紹介され、あちらは「あ、なんとなく太田君の面影あるかも!」と笑ってくれたが、残念ながら俺の側には全く記憶がなかった。しかしそこは社会人の処世術、なんとなく顔を覚えている体で大人の相槌を打っておいた。
席につき、美樹に勧められるがままに注文を済ませる。大阪や神戸にいた頃なら、男一人では絶対に足を踏み入れないような、華やかで少し気恥ずかしいメニューだ。だけれど、夕食のチョイスとして新鮮で、なんだか妙に目新しかった。
そこでも、二人の対話は途切れなかった。
オーナーの同級生が奥からわざわざ持ってきてくれた、埃をかぶった小学校の卒業アルバムを広げ、懐かしい思い出話に花を咲かせる。「この担任の先生、今でも年賀状だけは繋がっとるんよ」とか「クラスメイトの誰々が、一昨年結婚してね」とか。
「男子の顔は大体分かるんやけどな……女子のことは、ほんま美樹のことくらいしか覚えてへんわ」
何気なく、思ったままを口にしてしまった。
「な、なんなそれ!」
美樹の声が急に少し上ずり、顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。
実際、悲しいかな登場人物の半分近くは、俺の脳内メモリからは綺麗に消去されてしまっていた。アルバムの写真を見ても、ぼんやりとした情景しか浮かんでこない。しかし、隣で本当に嬉しそうに、一生懸命話をしてくれる美樹の熱量に気圧されながら、俺はずっと心地よく相槌を打ち続けた。
気がつけば、壁の時計は夜の九時を回っていた。カフェの閉店時間だ。名残惜しそうにするオーナーの同級生に別れを告げ、二人は夜の静けさが戻ったストリートへと出た。
旅はまだ、始まったばかり。
しかし、俺の中で何かが確実に、決定的に動き始めているのを自覚していた。
それが恋なのか、運命なのか、それともただ失われた時間への郷愁なのかは、まだ分からない。
ただ、一つだけ確信できることがあった。
この美樹との再会は――これから先、俺の人生の全てを、大きく変えることになるのだと。




