第4話「ここで待っとったんよ」
第4話「ここで待っとったんよ」
防府の街は、思った以上に変わっていた。変わっていない場所も確かにあった。
昔のまま佇む、しかし確実に年を重ねて古びた小学校の校門。
境内の静けさだけは何も変わらない、ちいさな神社。
そして、あの頃と全く同じ風景を残す、きらきらとした川沿いの遊歩道。
懐かしさと、どうしようもない寂しさが胸の中でぐちゃぐちゃに入り混じる。気がつけば昼を過ぎる頃には、かなりの距離を歩き回っていた。愛車は商店街の駐輪場に置いたままになっている。
スマートフォンの予報通り、街は容赦のない真夏日になっていた。今日の陽射しは特に強い。じりじりと肌を焼く太陽の下、汗ばんだ首筋をスポーツタオルでぐっと拭った。
「ふぅ……腹減ったな」
腕時計に目を落とすと、既に一時を回っていた。取りあえず、自転車を回収がてら商店街の方へ戻ることにした。
子供の頃、母に連れられて買い物に来た記憶がぼんやりとあるアーケード。もちろん当時あった店の大半は入れ替わってしまっている。それでも、頭上を覆う独特の薄暗い空気感だけはあの頃のままだ。
あてもなく歩いていると、一軒の小さな定食屋が目に入った。観光客向けの小洒落た店構えではない。いかにも地元の仕事人が普段使いの昼食を取るような、ひなびた風情の店だった。
ただ、この定食屋からの匂いが、強く、とても強く郷愁をくすぐられた。
ガラガラと引き戸を開け、暖簾をくぐる。
肌に触れる冷房の風が、火照った身体に猛烈に心地良かった。
「いらっしゃいませー」
奥から、ハキハキとした女性の声が響いた。俺は促されるまま、通りに面した窓際のテーブル席へと腰を下ろした。お冷やを喉に流し込みながら、卓上のメニューを眺める。
その時だった。
「……え?」
少し離れた場所から、短い、息を呑むような声が聞こえた。
何気なく顔を上げる。伝票を手にした店員らしい女性が、通路の途中でピタリと足を止めていた。
年齢は二十九、三十そこそこだろうか。肩まで綺麗に伸びた黒髪。エプロン姿の、落ち着いた雰囲気の美人だった。しかし俺の知人にこんな女性はいない。見覚えは全くなかった。
それなのに、その女性はまるで、白昼堂々幽霊でも見たかのような、信じられないという顔で俺を凝視している。
「……涼太?」
俺は、一瞬息を呑んだ。
確実に今、名前を呼ばれた。それも、他人が呼ぶような余所余所しい響きではなく、ずっと昔から知っているようなトーンで。
「え……?」
「太田涼太じゃろ?」
混じり気のない、山口の訛り。
だけれど、目の前の大人の女性と、俺の脳内にある子供の記憶がどうしても結び付かない。俺が困惑している間にも、女性はゆっくりと、一歩一歩こちらへ近づいてくる。
そして――彼女はふっと、小さく笑った。
その笑顔を見た、まさにその瞬間だった。頭の奥のストッパーが外れ、色鮮やかな光景が記憶の底から一気に浮かび上がってきた。
じりじりと照りつける夏の日差し。振り回した虫取り網。色違いでお揃いのランドセル。
そして、いつも隣の家にいた、あの負けず嫌いな女の子。
「……まさか、お前」
女性は優しく頷いた。
「まさかじゃないよ」
そして、あまりにも当たり前のように、こう言った。
「美樹よ」
一瞬、店内の喧騒が消え、世界が完全に止まった気がした。
――瀬戸口美樹。
十八年近くもの間、一度も会っていなかった幼馴染み。
先ほどアパートの前に立ち尽くしながら、「もう二度と会えるはずがない」と完全に諦めていた、まさにその相手が目の前にいた。
「嘘、だろ……」
「ひどいね」
美樹はくすくすと肩を揺らして笑う。
「久しぶりに会うて最初の言葉がそれ?」
「いや、だって……」
本当に言葉が出てこえへん。記憶の中にあるお転婆な少女の面影と、目の前に佇む綺麗な女性の姿がどうしても重ならなかった。でも、悪戯っぽく笑った時の目元だけはあの頃のままや。
「なぁ、なんで俺って分かったんや? 自分でもかなり変わったと思うんやけど」
「分かるよ」
間髪入れず、即答だった。
「だって、涼太じゃもん」
「いや、二十年近く経っとるんやぞ?」
「でも、涼太じゃった」
理屈ではない、それが世界の真理だとでも言うような口調だった。俺の頭は完全に混乱していた。俺自身、言われるまで美樹だと気づけなかったというのに、彼女は俺が店に入ってきた一瞬でそれを見抜いたのだ。
美樹はメニューを抱えたまま、じっと俺を見つめている。その瞳の奥には、単なる幼馴染みとの再会を喜ぶ以上の、ひどく濃密な何かが揺れているように見えた。
長い沈黙の後、ようやく彼女が愛おしそうに口を開く。
「帰って来たんじゃね」
「いや、それが……ちょっと旅の途中でな」
「旅?」
「門司から西宮の実家まで、自転車で瀬戸内を東に向かっとる最中やねん」
「あはは、相変わらず馬鹿じゃねえ」
昔と全く同じ、呆れたような、だけれどどこか嬉しそうな言い方。
二人同時に、吹き出すように笑った。それだけで、十八年という気が遠くなるような歳月が、一瞬にして消し飛んだ気がした。
美樹はエプロンのポケットに両手を突っ込んだまま、少し首を傾げた。
「それで? わざわざ防府には何しに来たん?」
俺は少し躊躇したけれど、隠すことでもないと思い、正直に答えた。
「昔住んでた場所を、一目見たくてな。……それと」
自分の声が、急に少し照れ臭くなる。
「お前の痕跡でも、何か街に残ってないかなと思ってさ」
言った瞬間、美樹の表情がピキリと凍りついた。
ほんの数秒。彼女の大きな瞳が激しく揺れ、次の瞬間、美樹は耐えるようにバッと顔を伏せてしまった。
「……そうなん」
掠れた声が、微かに震えていた。俺はその震えの理由に気づかないフリをして、努めて明るいトーンで言葉を続けた。
「でも、家があったとこ行ったら何も残ってへんかったわ。全部アパートになっててさ。もっと早く来ればよかったって、ちょっと後悔しとったんや」
美樹は顔を伏せたまま、小さく小さく頷いた。
そして――床を見つめたまま、誰にも聞こえないような蚊の鳴くような声で呟いた。
「……私は、ここにおったんじゃけどね」
「え? 何て?」
「ううん、何でもない!」
美樹は勢いよく顔を上げた。その目元は、ほんのりと赤くなっているように見えた。だけれど、彼女はすぐにいつもの悪戯っぽい満面の笑顔を作ってみせる。
「涼太」
「ん?」
「あと二時間で、私の今日の仕事終わるんよ」
美樹は昔、俺を秘密基地に誘い出す時と全く同じ、チャーミングな笑みを浮かべた。
「終わったら付き合って」
「どこによ?」
「防府の街、私が案内しちゃる」
その眩しい笑顔を見つめていると、俺の胸の奥が、理由もなくじんわりと熱くなっていくのを感じた。
十八年ぶりの、奇跡のような再会。偶然の引き合わせにしては、あまりにも出来過ぎている。
しかし、この時の俺はまだ知らなかった。
美樹にとって、この定食屋での出会いが決して「偶然」などではなかったことを。
彼女がこの街で、どれほど長い年月を。
本当に、本当に気の遠くなるような時間を、ただ俺だけを待ち続けていたのかを。




