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瀬戸の約束【11歳の約束、29歳で果たす】  作者: あおきつばさ


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第3話「失われた風景、残された記憶」

第3話「失われた風景、残された記憶」


その日の夕方、俺は宇部市内のビジネスホテルにチェックインした。

今日は新門司港を出てから百キロ近く走ったことになる。久しぶりの長距離走行のせいで脚は鉛のように重く、バックパックを背負い続けた肩もカチカチに張っていた。シャワーを浴びて温かい湯につかると、全身から一気に力が抜けていくのが分かった。


窓の外では、夕暮れの街にぽつぽつと灯りがともり始めていた。

ベッドに腰を下ろし、スマートフォンで近くの店を探す。せっかく山口まで来たのだ。夕食はチェーン店ではなく、地元のものを食べたかった。見つけた居酒屋は、ホテルから歩いて十分ほどの距離にあった。


暖簾をくぐると、店内は仕事帰りらしいスーツ姿の客たちで賑わっていた。カウンター席に腰掛け、まずは生ビールを注文する。

運ばれてきた冷えたグラスを口に運ぶ。喉を鳴らして流し込むと、疲れ切った身体の隅々にまでアルコールが染み渡るようだった。思わず、深い吐息が漏れた。


「うまいな……」


店員に勧められるまま地物の刺身の盛り合わせを頼み、さらに山口の名物である『瓦そば』も注文した。

しばらくして、熱せられた本物の瓦の上で茶そばがジュウジュウと小気味よい音を立てて運ばれてくる。甘辛く煮付けられた牛肉と鮮やかな錦糸卵。それを温かい特製のつゆにくぐらせて口に運ぶ。


「あぁ……これや。懐かしいな」


パリッと焼けた茶そばの香ばしさが、口いっぱいに広がった。

子供の頃、父の転勤で初めて山口へ来たばかりの時は「なんて不思議な食べ物なんや」と驚いたものだった。その内、何度も家族で食べるうちにいつの間にか大好物になっていた。


今では味そのものというより、その頃の温かい記憶と強く結びついている。小学生だった自分、活気のあった防府の町、毎日の学校帰りの道、どこまでも長かった夏休み。

そして――。


――美樹。


自然と、その名前が脳裏に浮かび上がる。

最後に会ったのは何歳やっただろう。小学五年生の三学期に俺が引っ越したから、十一歳か。今となっては、彼女の顔だってはっきりと思い出せるわけではない。


それなのに、なぜか胸の奥におりのように残って、忘れられへん。


旅に出る前、大阪の部屋で防府についてインターネットで調べた時も、実は少しだけ彼女の名前を検索してみた。だけれど、手掛かりになるような情報は何も出てこなかった。

当然や。二十年近く前に別の土地へ引っ越した一人の人間を、ネットの検索窓一つで見つけられるほど、世の中は都合よくできていない。


それでも、もしかしたら防府に行けば――。

そんな往年の淡い期待が、まだ頭の片隅にこびりついて離れなかった。



翌朝、午前六時過ぎにホテルをチェックアウトした。


見上げれば、空は雲一つない快晴。だが、スマートフォンの天気予報アプリを見ると、まだ五月も半ばだというのに今日の最高気温は三十一℃に達するらしい。

初夏を通り越して、既に真夏のような強烈な日差しが宇部の街を容赦なく照らし始めていた。日焼け止めを腕に塗り込み、国道沿いを東へと進む。朝の通勤車の流れに合わせながら、汗をかかないよう淡々とペダルを回し続けた。


走るにつれて、道路標識に懐かしい地名が次々と現れ始める。

小郡、山口、そして――防府。

その文字を目にするたびに、胸の奥が妙にざわついた。


午前十時少し前、俺はついに防府市へと滑り込んだ。

だが、第一印象は「思っていたより街がデカい」ということだった。


立ち並ぶ新しい大型店舗、記憶にない広々としたバイパス道路。

小学生の頃は、自分の足の延長のように自転車で縦横無尽に防府の街を走り回っていた。だから街の風景は全て克明に記憶しているはずだった。しかし、今目の前にある風景は、自分の脳内にあるモノクロの記憶とはどこか――いや、ことごとく違っていた。

俺がこの街を去ってから、十八年。それだけの長い歳月が、この土地を確実に塗り替えてしまったのだと肌で実感させられる。


複雑な気持ちを抱えながら、俺がまず向かったのは、かつて暮らしていた場所だった。

記憶にある住所をスマートフォンの地図アプリに打ち込む。音声案内を頼りに進み、最後の静かなカーブを曲がった。


(確か、この辺りだったはずや……)


細い路地があって、向かいには古い駄菓子屋があって、角には錆びかけた電柱があって――。

イメージを現実に重ね合わせようとした瞬間、俺は思わずブレーキを握り、その場に足を止めた。


「……あ、嘘やろ」


呆然とした声が、口から漏れる。


そこには、何もなかった。

いや、正確には、俺の知っているものは何一つ残っていなかった。


自分の家も。そして、隣にあった美樹の家も。


幼い日の断片的な、しかしはっきりと脳裏に焼き付いていた二人の家は、全て綺麗に取り壊されていた。その広大な跡地に建っていたのは、どこにでもあるような二階建ての、小綺麗で新しいアパートだった。


アスファルトで舗装された駐車場には軽自動車が整然と並び、緑の植え込みも美しく手入れされている。そこに、十八年前の泥臭い面影は一つも残っていなかった。


俺は自転車から降り、サドルを支えながら、アパートの白い壁をしばらく黙って見上げていた。

間違いなく、ここだ。ここにあったんや。


ただ、アパートに背を向けて通りの向こうを見渡すと、そこには十八年以上前の記憶と完全に重なる風景が、奇跡のようにまだ息づいていた。

通りの向こうに見える大きな古いお屋敷の立派な鬼瓦。その手前でひっそりと佇む、少し曇ったカーブミラー。


そうだ。ここで美樹と一緒になって、びしょ濡れになりながら水鉄砲で遊んだ。

あの神社の裏で、汗だくになりながら虫取り網を振り回した。

全部、全部ここやった。


それなのに。

自分が一番確かめたかった『家』の思い出だけが、もう、跡形もなく消え去っている。

乾いた風だけが、俺の横髪を吹き抜けていった。俺は自嘲気味に苦笑するしかなかった。


「……遅すぎたんやな」


十八年だぞ、と自分に言い聞かせる。残っていると思う方が、どうかしている。

頭では百も承知だった。でも、心のどこかでは都合のいい奇跡を期待していたのだ。昔のままの佇まいで家が残っていて、そこに行けば、何か美樹に関する手掛かりが見つかるかもしれない、なんていう虫のいい幻想を。


「もっと早く、来るべきやったわ」


誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟く。

十年前なら、あるいは五年前なら、まだ何かが残っていたかもしれない。だが、今となっては全てが遅すぎた。アパートの前で一人立ち尽くしながら、俺は小さくため息をついた。


会社を辞めて真っ先に決意したこの旅の目的が、防府に到着してわずか十分足らずで、音を立てて崩れ去ってしまったような気がした。


激しい喪失感が胸を支配する。だけれど――まだ、全部が終わったわけやない。

防府には、他にも俺の記憶が眠る場所がいくつもある。


二人で通った小学校。よく遊んだ公園。自転車で駆け抜けた商店街。

あの頃の記憶の残骸が、まだどこかにしがみついているかもしれない。


「……よし、次行こう」


俺はもう一度、愛車に跨がった。

真夏日を予報された今日の太陽は、容赦なくその熱量を増し、アスファルトから陽炎を立ち上らせている。

完全に失われてしまったかつての風景に背を向け、俺は重い脚で、ゆっくりと次の目的地へとペダルを踏み出した。


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